快走
岡本かの子
快走 岡本かの子 中の間で道子は弟の準二の正月着物を縫い終って、今度は兄の陸郎の分を縫いかけていた。 「それおやじのかい」 離れから廊下を歩いて来た陸郎は、通りすがりにちらと横目に見て訊いた。 「兄さんのよ。これから兄さんも会社以外はなるべく和服で済ますのよ」 道子は顔も上げないで、忙がしそうに縫い進みながら言った。 「国策の線に添ってというのだね」 「だか
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快走 岡本かの子 中の間で道子は弟の準二の正月着物を縫い終って、今度は兄の陸郎の分を縫いかけていた。 「それおやじのかい」 離れから廊下を歩いて来た陸郎は、通りすがりにちらと横目に見て訊いた。 「兄さんのよ。これから兄さんも会社以外はなるべく和服で済ますのよ」 道子は顔も上げないで、忙がしそうに縫い進みながら言った。 「国策の線に添ってというのだね」 「だか
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越年 岡本かの子 年末のボーナスを受取って加奈江が社から帰ろうとしたときであった。気分の弾んだ男の社員達がいつもより騒々しくビルディングの四階にある社から駆け降りて行った後、加奈江は同僚の女事務員二人と服を着かえて廊下に出た。すると廊下に男の社員が一人だけ残ってぶらぶらしているのがこの際妙に不審に思えた。しかも加奈江が二、三歩階段に近づいたとき、その社員は加
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バットクラス 岡本かの子 スワンソン夫人は公園小路の自邸で目が覚めた。彼女は社交季節が来ると、倫敦の邸宅に帰って来る。彼女は昨日まで蘇格蘭の領地で狐を狩って居た。その前はフランスのニースのお祭に招かれて行って居た。 室内装飾の弧と線と面の屈折と角の直截と金属性の半螺旋とが先刻から運ばれている寝床の朝飯の仕度を守って待ちくたびれている。この邸全体の造りはジョー
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ドーヴィル物語 岡本かの子 一 日本留学生小田島春作は女友イベットに呼び寄せられ、前夜晩く巴里を発ち、未明にドーヴィル、ノルマンジーホテルに着いた。此処は巴里から自動車で二時間余で着く賭博中心の世界的遊楽地だ。 壮麗な石造りの間の処どころへ態と田舎風を取入れたホテルの玄関へ小田島が車を乗り付けた時、傍の道路の闇に小屋程の塊が、少し萌して来た暁の光を受け止めて
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ガルスワーシーの家 岡本かの子 ロンドン市の北郊ハムステットの丘には春も秋もよく太陽が照り渡った。此の殆んど何里四方小丘の起伏する自然公園は青く椀状にくねってロンドン市の北端を抱き取って居る。丘の表面には萱、えにしだ、野薔薇などが豊かに生い茂り、緻密な色彩を交ぜ奇矯な枝振りを這わせて丘の隅々までも丹念な絵と素朴な詩とを織り込んで居る。景子のロンドンに於ける仮
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山のコドモ 岡本かの子 ヤマキチ ハ ヤマオク ノ キコリ ノ コ デアリマシタ。チイサイ トキカラ、ヤマ ノ ケモノ ヤ、トリタチ ト、ナカヨク アソンデ ソダチマシタ。アルヒ、ヤマキチ ノ トモダチデ、イチワ ノ オオキナ タカ ガ、ヤマキチ ヲ ヒロイ ツバサ ニ ノセ、ヒコウキ ノ ヨウニ ソラ ヲ トンデ、シバラク タカイ キ ノ ウエデ、ヤスミマ
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明暗 岡本かの子 智子が、盲目の青年北田三木雄に嫁いだことは、親戚や友人たちを驚かした。 「ああいう能力に自信のある女はえて物好きなことをするものだ」 「男女の親和力というものは別ですわ。夫婦になるのは美学のためじゃあるまいし」 批評まちまちであった。 智子は、今から五年まえに高等女学校を卒業した。兄の道太郎と共に早く両親を喪った彼女は、卒業後も、しばらく家
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百喩経 岡本かの子 前言 この作は旧作である。仏教は文芸に遠い全々道徳的一遍のものであるかという人に答えるつもりで書いたものである。だが繰り返して云う、この作はやや旧作に属するものである。で、文章の表現が、いくらか前時代のものであると感ぜらるるならば了恕して頂き度い。ただ、仏教なる真理を時代に応じてクリエーションして行く者は芸術家と同じ直覚力を持たねばならぬ
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晩春 岡本かの子 鈴子は、ひとり、帳場に坐って、ぼんやり表通りを眺めていた。晩春の午後の温かさが、まるで湯の中にでも浸っているように体の存在意識を忘却させて魂だけが宙に浮いているように頼り無く感じさせた。その頼り無さの感じが段々強くなると鈴子の胸を気持ち悪く圧え付けて来るので、彼女はわれ知らずふらふらと立ち上って裏の堀の縁へ降りて行った。 材木堀が家を南横か
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加奈子は気違いの京子に、一日に一度は散歩させなければならなかった。でも、京子は危くて独りで表へ出せない。京子は狂暴性や危険症の狂患者ではないけれど、京子の超現実的動作が全ての現代文化の歩調とは合わなかった。たまたま表の往来へ出ても、電車、自動車、自転車、現代人の歩行のスピードと京子の動作は、いつも錯誤し、傍の見る目をはらはらさせる。加奈子は久しい前から、自分
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母と娘 岡本かの子 ロンドンの北郊ハムステット丘の公園の中に小綺麗な別荘風の家が立ち並んで居る。それ等の家の内で No.1 の奥さんはスルイヤと言って赤毛で赭ら顔で、小肥りの勝気な女。彼女に二年前に女学校を卒業したアグネスと言う十九歳の一人娘がある。アグネスは丈が高く胸が張って体全体に男の子のような感じがあるが、でも笑う時は笑くぼや眼の輝やきや、優しい歯並ら
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取返し物語 岡本かの子 前がき いつぞやだいぶ前に、比叡の山登りして阪本へ下り、琵琶湖の岸を彼方此方見めぐるうち、両願寺と言ったか長等寺と言ったか、一つの寺に『源兵衛の髑髏』なるものがあって、説明者が殉教の因縁を語った。話そのものが既に戯曲的であったので劇にしたらと思い付いて、其後調べの序に気を付けていると、伝説として所々に出ている。此のたび機会があったので
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豆腐買い 岡本かの子 おもて門の潜戸を勇んで開けた。不意に面とむかった日本の道路の地面が加奈子の永年踏み馴れた西洋道路の石の碁盤面の継ぎ目のあるのとは違った、いかにも日本の東京の山の手の地面らしく、欠けた小石を二つ三つ上にのせて、風の裾に吹かれている。失礼! と言い度い程加奈子には土が珍らしく踏むのが勿体ない。加奈子の靴尖が地面の皮膚の下に静脈の通っていなそ
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茶屋知らず物語 岡本かの子 元禄享保の頃、関西に法眼、円通という二禅僧がありました。いずれも黄檗宗の名僧独湛の嗣法の弟子で、性格も世離れしているところから互いは親友でありました。 法眼は学問があって律義の方、しかし其の律義さは余程、異っています。或る時、僧を伴れて劇場の前を通りました。侍僧は芝居を見たくて堪りません。そこで師匠の法眼が劇場の何たるかを知らない
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荘子 岡本かの子 紀元前三世紀のころ、支那では史家が戦国時代と名づけて居る時代のある年の秋、魏の都の郊外櫟社の附近に一人の壮年=荘子が、木の葉を敷いて休んでいた。 彼はがっちりした体に大ぶ古くなった袍を着て、樺の皮の冠を無雑作に冠って居た。 顔は鉛色を帯びて艶が無く、切れの鋭い眼には思索に疲れたものに有勝ちなうるんだ瞳をして居た。だが、顔色に不似合な赤い唇と
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唇草 岡本かの子 今年の夏の草花にカルセオラリヤが流行りそうだ。だいぶ諸方に見え出している。この間花屋で買うとき、試しに和名を訊ねて見たら、 「わたしどもでは唇草といってますね、どうせ出鱈目でしょうが、花の形がよく似てるものですから」 と、店の若者はいった。 青い茎の尖に巾着のように膨らんで、深紅の色の花が括りついている。花は、花屋の若者にそういわれてから、
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高原の太陽 岡本かの子 「素焼の壺と素焼の壺とただ並んでるようなあっさりして嫌味のない男女の交際というものはないでしょうか」と青年は云った。 本郷帝国大学の裏門を出て根津権現の境内まで、いくつも曲りながら傾斜になって降りる邸町の段階の途中にある或る邸宅の離れ屋である。障子を開けひろげた座敷から木の茂みや花の梢を越して、町の灯あかりが薄い生臙脂いろに晩春の闇の
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健康三題 岡本かの子 はつ湯 男の方は、今いう必要も無いから別問題として、一体私は女に好かれる素質を持って居た。 それも妙な意味の好かれ方でなく、ただ何となく好感が持てるという極めてあっさりしたものらしかった。だから、離れ座敷の娘が私に親しみ度い素振りを見せるに気が付いても一向珍らしいことには思わなかった。仕事でも片付いたらゆっくり口が利ける緒口でもつけてや
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決闘場 岡本かの子 ロンドンの北隅ケンウッドの森には墨色で十数丈のシナの樹や、銀色の楡の大樹が逞ましい幹から複雑な枝葉を大空に向けて爆裂させ、押し拡げして、澄み渡った中天の空気へ鮮やかな濃緑色を浮游させて居る。立ち並ぶそれらの大樹の根本を塞ぐ灌木の茂みを、くぐりくぐってあちらこちらに栗鼠や白雉子が怪訝な顔を現わす。時には大きい体の割りに非常に素早しっこい孔雀
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兄妹 岡本かの子 ――二十余年前の春 兄は第一高等学校の制帽をかぶっていた。上質の久留米絣の羽織と着物がきちんと揃っていた。妹は紫矢絣の着物に、藤紫の被布を着ていた。 三月の末、雲雀が野の彼処に声を落し、太陽が赫く森の向うに残紅をとどめていた。森の樹々は、まだ短くて稚い芽を、ぱらぱらに立てていた。風がすこし寒くなって来た。 東京市内から郊外へ来る電車が時々二
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気の毒な奥様 岡本かの子 或る大きな都会の娯楽街に屹立している映画殿堂では、夜の部がもうとっくに始まって、満員の観客の前に華やかなラヴ・シーンが映し出されていました。正面玄関の上り口では、やっと閑散の身になった案内係の少女達が他愛もないおしゃべりに夢中になっていました。 突然、駈け込んで来た女がありました。鬢はほつれ、眼は血走り、全身はわなわな顫えています。
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褐色の求道 岡本かの子 独逸に在る唯一の仏教の寺だという仏陀寺へ私は伯林遊学中三度訪ねた。一九三一年の事である。 寺は伯林から汽車で一時間ほどで行けるフロウナウという町に在った。噂ほどにもない小さな建物で、町外れの人家の中に在った。流石に其処だけは自然に土盛りが高くなっていて、多少の景勝の地は占めている。その隆起の峯続きを利用して寺の主堂、廊、翼堂と建て亘し
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愚かな男の話 岡本かの子 ○ 「或る田舎に二人の農夫があった。両方共農作自慢の男であった。或る時、二人は自慢の鼻突き合せて喋べり争った末、それでは実際の成績の上で証拠を見せ合おうという事になった。それには互に甘蔗を栽培して、どっちが甘いのが出来るか、それによって勝負を決しようと約束した。 ところで一方の男が考えた。甘蔗は元来甘いものであるが、その甘いものへも
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おせっかい夫人 岡本かの子 午前十一時半から十二時ちょっと過ぎまでの出来事です。うらうらと晴れた春の日の暖気に誘われて花子夫人は三時間も前に主人を送り出した門前へまたも出て見ました。糸目の艶をはっきりたてた手際の好い刺繍です。そこに隣家国枝さんとの境の垣に金紅色の蕾を寄り合わせ盛り合わせているぼけの枝は――だが、その蔭にうろうろしていたのは可愛ゆいカナリヤの