安藤昌益
狩野亨吉
安藤昌益 狩野亨吉 一 安藤昌益と其著書自然眞營道 今から二百年前、安藤昌益なる人があつて、萬物悉く相對的に成立する事實を根本の理由とし、苟くも絶對性を帶びたる獨尊不易の教法及び政法は皆之を否定し、依て此等の法に由る現在の世の中即ち法世を、自然の道に由る世の中即ち自然世に向はしむるため、其中間道程として民族的農本組織を建設し、此組織を萬國に普及せしむることに
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狩野亨吉
安藤昌益 狩野亨吉 一 安藤昌益と其著書自然眞營道 今から二百年前、安藤昌益なる人があつて、萬物悉く相對的に成立する事實を根本の理由とし、苟くも絶對性を帶びたる獨尊不易の教法及び政法は皆之を否定し、依て此等の法に由る現在の世の中即ち法世を、自然の道に由る世の中即ち自然世に向はしむるため、其中間道程として民族的農本組織を建設し、此組織を萬國に普及せしむることに
楠山正雄
安達が原 楠山正雄 一 むかし、京都から諸国修行に出た坊さんが、白河の関を越えて奥州に入りました。磐城国の福島に近い安達が原という原にかかりますと、短い秋の日がとっぷり暮れました。 坊さんは一日寂しい道を歩きつづけに歩いて、おなかはすくし、のどは渇くし、何よりも足がくたびれきって、この先歩きたくも歩かれなくなりました。どこぞに百姓家でも見つけ次第、頼んで一晩
喜田貞吉
去る五月の中旬、大和の榛原町に行つた時、同町字足立といふ部落が、鬼筋だといふ説について、土地の人に尋ねて見たところが、昔こゝに安達ヶ原の鬼婆々が居つたといふ話があると教へてくれた。奧州安達ヶ原から、鬼婆々は同じ地名の縁故で、こゝまでも飛んで行つたのだ。武藏の足立郡にも、同じ話のあることが、古い地誌に見えて居る。豐前企救郡の足立村にも、同じ説があるといふ。 鬼
中山太郎
「東北文化研究」創刊號の餘白録に、喜田先生の「安達ヶ原の鬼婆々」を讀んで、先生の御高見もさる事ながら、これに就いては小生も先年から多少考へてゐるところがあるので、こゝに異考として先生の驥尾に附し、敢て御笑ひ草までに書きつけるとした。そしてこゝには結論だけを申上げる。 我國には古く妊婦が胎兒を分娩せずして産の上で死亡すると、妊婦の腹を割いて(産婦の死後は産道の
谷譲次
時。一九〇九年八月、十月。 所。小王嶺、ウラジオストック、ボグラニチナヤ、蔡家溝、ハルビン。 人。安重根、禹徳淳、曹道先、劉東夏、劉任瞻、柳麗玉、李剛、李春華、朴鳳錫、白基竜、鄭吉炳、卓連俊、張首明、お光、金学甫、黄成鎬、黄瑞露、金成白、クラシノフ、伊藤公、満鉄総裁中村是公以下その随員、ニイナ・ラファロヴナ、日本人のスパイ、売薬行商人、古着屋の老婆、ロシア人
小山清
下谷の竜泉寺町という町の名は、直接その土地に馴染のない人にも、まんざら親しみのないものでもなかろう。浅草の観音さまにも遠くはないし、吉原遊廓は目と鼻のさきだし、お酉さまはここが本家である。若しもその人が小説好きであるならば、「たけくらべ」にゆかりのあるこの町を、懐かしくも思うであろう。だいぶまえのことであるが、一葉の記念碑がその住居の跡に建てられて、電車通り
沈約
倭國在高驪東南大海中、世修貢職。高祖永初二年、詔曰、倭讚萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。太祖元嘉二年、讚又遣司馬曹達奉表獻方物。讚死弟珍立、遣使貢獻、自稱使持節都督倭・百濟・新羅・任那・秦韓・慕韓六國諸軍事・安東大將軍・倭國王、表求除正、詔除安東將軍・倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號、詔並聽。二十年、倭國王濟、遣使奉獻、復以爲安東將軍・倭國
酒井嘉七
○月 ○日 私はいつものように、まだ川の面や町全体に深い靄のかかっているうちに朝の散歩を急いだ。人に顔を見られることを、これほど嫌うようになったのも、精神的な病気が昂進しているためであろう。平静に思索することが可能なのは、このミルクの海を泳いでいるような、深い靄の中の散策をつづけている十数分数十分のうちに過ぎない。それとても、突然として白い幕の中から現われる
甲賀三郎
ドイルを宗とす 甲賀三郎 私が探偵小説を書いて見ようという気を起したのは疑いもなくコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物語の示唆である。中学生だった私には、ホームズの推理は驚異であった。最初に読んだのは佐川春水氏が「銀行盗賊」と改題して訳述した「赤髪組合」か、それでなければ訳者を失念したが、太陽か又は太陽と同型の雑誌に発表された「青い宝石」で、どっちが先だ
知里真志保
座長(小林高四郎)では知里さんにお願いします。 知里(真志保)私ははじめ、言語から見たいわゆる貞操帯の起源、というような演題でお話しようかと思い、いささか資料も準備して来たのでありますが、はからずも先刻に河野広道氏がその問題にふれられ、ご親切にも私の持参した新資料―樺太アイヌのチャハチャンキ(chax-chanki)までも自発的に紹介の労をとって下さったので
宮沢賢治
まくろなる流れの岸に 根株燃すゆふべのけむり こらつどひかたみに舞ひて たんぽゝの白き毛をふく 丘の上のスリッパ小屋に 媼ゐてむすめらに云ふ かくてしも畑みな成りて あらたなる艱苦ひらくと ●図書カード
宮沢賢治
そらの微光にそゝがれて いま明け渡る甲板は 綱具やしろきライフブイ あやしく黄ばむ排気筒 はだれに暗く緑する 宗谷岬のたゝずみと 北はま蒼にうち睡る サガレン島の東尾や 黒き葡萄の色なして 雲いとひくく垂れたるに 鉛の水のはてははや 朱金一すぢかゞやきぬ 髪を正しくくしけづり セルの袴のひだ垂れて 古き国士のおもかげに 日の出を待てる紳士あり 船はまくろき砒
岸田国士
官立演劇映画学校の提唱 岸田國士 演劇と映画とは元来なら別々に論ぜられなければならぬ要素をそれぞれにもつてゐるのであるが、現在の日本では、この二つの部門が、その芸術的水準と文化的役割とに於いて、寧ろより多く共通な問題を含んでゐることを見逃してはならぬと思ふ。つまり、現代の日本演劇に最も欠けたものがあるとすれば、それは今日の日本映画に於いても同様に最も欠けたも
萩原朔太郎
「青猫」の初版が出たのは、一九二三年の春であり、今から約十年ほど昔になる。その後ずつと絶版になつて、市上に長く本を絶えて居た。元來、詩集といふものは、初版限りで絶本にするところに價値があるので、版を重ねて増册しては、詩集の人に貴重される稀本の價値が無くなつて來る。しかも今日、あへてこの再版を定本にして出す所以は、著者の私にとつて種種の理由があるのである。 第
ファン・ゴッホフィンセント
ゴオガン兄 お手紙ありがたう。殊に二十日には來るといふ兄の約束に感謝する。たしかに、兄の言ふ理由(ゴオガンの痢病)は、愉快な汽車旅行をさせないに違ひない。厭な思をせずに旅行の出來るまで兄の旅行を延ばすとしても無理ではない。しかし、其を別にすれば、私はこの秋のすばらしい色々違つた自然の諸國の土地々々を通りすがりに兄に見せる旅行が殆ど羨ましい。此冬パリからアアル
小林一三
宝塚生い立ちの記 小林一三 四十年前の宝塚風景 私が宝塚音楽学校を創めてから、今年でちょうど四十一年になる。今日でこそ、大衆娯楽の理想郷としてあまねく、その名を知られている宝塚ではあるが、学校をはじめた当時は、見る影もない寂しい一寒村にすぎなかった。 そして宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく、しかもその温泉は、すこぶる原始的
佐々木直次郎
「宝島」はロバート・ルーイス・スティーヴンスン(一八五○―一八九四)の最初の長篇小説であり、彼の出世作であるが、また彼の全作中でも最も高名な名作であることは周知の通りである。紀行文、随筆、短篇小説などにおける彼の数年間の文筆生活の後に、一八八一年の九月、スコットランドのブレーマーでの療養中に書き始められた。作者自身の記すところによれば、彼が或る日彼の妻の連子
小川未明
昔、北の寒い国に、珍しい宝石が、海からも、また山からもいろいろたくさんに取れました。 それは、北の国にばかりあって、南の方の国にはなかったのであります。南の方の暖かな国は富んでいましたから、この珍しい宝石を持って売りにゆけば、たいそう金がもうかったのでありました。 けれど、質樸な北の方の国の人々は、そのことを知りませんでした。また、遠い南の国へゆくにしても、
松本泰
宝石の序曲 松本泰 1 狭い、勾配の急な裏梯子を上り切ったところの細長い板の間は、突き当たりに厚いカーテンがかかっていて、古椅子や古テーブルなどを積み重ね、片側をわずかに人が通れるだけ開けてある。そこは階下に通ずる非常口で、めったに使うことはなかった。 梯子段に近い明かり取り窓の下に、黒天鵞絨の洋服を着た盲目の少女が夕陽の中の鉄棒の影のように立っている。長い
田中貢太郎
宝蔵の短刀 宝蔵の短刀 田中貢太郎 御宝蔵方になった小松益之助は、韮生の白石から高知の城下へ出て来て与えられた邸へ移った。その邸は元小谷政右衛門と云う穀物方の住んでいた処であったが、その小谷は同輩の嫉妬を受けて讒言(ざんげん)せられ、その罪名は何であったか判らないが、敷物方と云うから何か己(じぶん)の出納していた職務のうえからであろう、とうとう切腹を命ぜられ
宮沢賢治
いてふの実 宮沢賢治 そらのてっぺんなんか冷たくて冷たくてまるでカチカチの灼きをかけた鋼です。 そして星が一杯です。けれども東の空はもう優しい桔梗の花びらのやうにあやしい底光りをはじめました。 その明け方の空の下、ひるの鳥でも行かない高い所を鋭い霜のかけらが風に流されてサラサラサラサラ南の方へ飛んで行きました。 実にその微かな音が丘の上の一本いてふの木に聞え
織田作之助
実感 織田作之助 文子は十七の歳から温泉小町といわれたが、 「日本の男はみんな嘘つきで無節操だ。……」 だからお前の亭主には出来ん――という父親の言落を素直にきいているうちにいつか二十九歳の老嬢になり秋は人一倍寂しかった。 父親は偏窟の一言居士で家業の宿屋より新聞投書にのぼせ、字の巧い文子はその清書をしながら、父親の文章が縁談の相手を片っ端からこき下す時と同
宮本百合子
実感への求め 宮本百合子 先月、日比谷映画劇場で、国際観光局が海外宣伝映画試写会をもよおした。「富士山」と「日本の女性」という二つの作品で、其映画のはじまる前に、映画製作に直接関係した課の長にあたる人の挨拶があった。これまでの日本の映画音楽がよくなかったので、この二つには特に新進の作曲家たちの労作を得た。 「所期の成果をおさめて居りますかどうかは、専門家の方
相馬御風
人間の手を直に型にとつた石膏で造り上げたものを見た。しかし、どういふわけかそれは少しも生きた感じを与へなかつた。却つて芸術家の眼で見た人間の手の印象を元として造つたものゝ方がより多く私達に生きた手を感じさせるのである。 私は嘗て或腕のすぐれた工匠が幾十年といふ永い間の苦心によつて造り上げたといふ日光東照宮か厳島神社かの精巧な模型を見たことがある。その精巧さに