この日
末吉安持
君うつくしく幸ありと、 おもへば魂はくづるゝに、 なまじい罪は負ひつゝも、 君は死にきと眼を閉ぢて、 痩せたる胸を撫づるなり。 もとより心いつはらぬ ふたりが恋のくちつけは、 法の父上母うへの 御国にゆりぬ、君はいま むくろぞひとに委ねけめ。 されども君は人妻と、 整ひきよき妻がさね、 われ咽喉ぶえは裂きもすれ、 沸ぎる鉛は啣むとも、 えやは呼ぶべきわがつま
Thư viện tri thức thế giới miền công cộng
末吉安持
君うつくしく幸ありと、 おもへば魂はくづるゝに、 なまじい罪は負ひつゝも、 君は死にきと眼を閉ぢて、 痩せたる胸を撫づるなり。 もとより心いつはらぬ ふたりが恋のくちつけは、 法の父上母うへの 御国にゆりぬ、君はいま むくろぞひとに委ねけめ。 されども君は人妻と、 整ひきよき妻がさね、 われ咽喉ぶえは裂きもすれ、 沸ぎる鉛は啣むとも、 えやは呼ぶべきわがつま
壺井栄
しんどい。 火のない掘ごたつに向いあったまま、老夫婦はだまりこんでいた。思いは一つなのだが、今はそれを口に出して云いあう気力もない。ほかにだれがいるというわけでもないのだから、今こそ、ぶちまけた相談をしてもよい筈なのだし、しなければならない時なのに、言葉が出てこない。今更、あれこれとたしかめあう必要もないといえばないのだが、ぐっと勇気をふるって腰の骨をのばさ
小川未明
ある山の中の村に、不しあわせな二人の娘がありました。 一人の娘は、生まれつき耳が遠うございました。もう一人の娘は、小さな時分にけがをして、びっこであったのであります。 この二人の娘は、まことに仲のいいお友だちでありました。そして二人とも性質のいい娘でありました。 二人の女の子は、どちらも十四、五歳になったのであります。そして、それぞれなにかふさわしい仕事につ
堀辰雄
今朝も七時ごろに目が覺める。 それから一時間ばかり、私は寢床の上で、新聞を讀みながら、日光浴をやる。この頃は、丁度おあつらへ向きに、その時分になるともう朝日が一ぱい寢床の上にあたりだす。 八時頃やつと起きる。自分でパンをあぶり、チイズを切り、紅茶をいれる。無精な私なのだが、これだけは自分でしないと氣にいらない。 郵便物がくる。その中に雜誌が二三册と、江川書房
小川未明
それは、寒い日でありました。指のさきも、鼻の頭も、赤くなるような寒い日でありました。吉雄は、いつものように、朝早くから起きました。 「お母さん、寒い日ですね。」と、ごあいさつをして震えていました。 「火鉢に、火がとってあるから、おあたんなさい。」と、お母さんは、もう、朝のご飯の支度をしながらいわれました。 吉雄は、火鉢の前にいって、すわって手を暖めました。家
田山花袋
日光 田山花袋 一 野州はすぐれた山水の美を鍾めてゐるので聞えてゐる。水石の美しいので聞えてゐる。深い溪谷の多いので聞えてゐる。雲煙の多いので聞えてゐる。 中でも、日光の山水を持つた大谷川の谷と鹽原の勝を持つた箒川の谷とが一番世に知られてゐる。しかし、この他に鬼怒川の大きな溪谷のあることを忘れてはならない。 しかし、何と言つても一番すぐれてゐるのは大谷の峽谷
田山花袋
囘顧すれば曾遊二三年前、白衣の行者に交りて、海面を拔く事八千二百餘尺、清容富嶽に迫り威歩關東を壓したる日光男體山の絶巓に登りし時、東北の方、萬山相集りたる深谷に、清光鏡の如く澄影玻璃の如くなる一湖水を認め指點して傍人に問へば、そは栗山澤の奧、鬼怒の水源なる絹沼といへる湖水なりと聞きて、そゞろに神往き魂飛ぶに堪へざりしが、其の後日光山志を繙き、栗山郷を記するの
水野仙子
日は照れど、日は照れど 君を見る日の來なければ わたしの心はいつも夜 日は照れど、日は照れど わたしは目盲ひ、耳聾ひ、唖者 君を見もせず、聞きも得ず 「日が照つてゐる……。」 さう呟きながら、私は部屋の隅から枕を巡らして、明るい障子の方にその面を向けた。南向きといふ事は何といふ幸福な事であらう、それは冬の滋養を大半領有する。日の光は今頑固な朝の心を解いて、そ
桜間中庸
日光浴室 蔦がここまでのびました らるらる光がもつれます 日光浴室 鳩が影してとびました ガラスの外のあをい空 日光浴室 母さん毛糸をほぐします 冬が近くにきてませう 日光浴室 ぼくはベツドで手をのばす おひるのドンがなりました 日光浴室 いちにち白いお部屋です いちにち白いお部屋です ●図書カード
正岡子規
春の花は見るが野暮なり、秋の紅葉は見ぬが野暮なりと独り諺をこしらへて其言ひわけに今年は日光の紅葉狩にと思ひ付きぬ。先づ鳴雪翁をおとづれてしか/″\のよしをいへば翁病の床より飛び起きて我も行かんと勇み給ふ。さらば思ひ立つ日を吉日として上野より汽車を駆り宇都宮に一泊せし日は朝来の大雨盆を傾けていつ晴るべしとも知らぬに何が吉日ぞ。こゝはいくさの跡とてはたごやはまだ
国木田独歩
某法學士洋行の送別會が芝山内の紅葉館に開かれ、會の散じたのは夜の八時頃でもあらうか。其崩が七八名、京橋區彌左衞門町の同好倶樂部に落合つたことがある。 小介川文學士が伴ふて來た一人の男を除いては皆な此倶樂部の會員で、其の一人はオックスホード大學の出身、其一人はハーバード大學の出身など、皆なそれ/″\の肩書を持て居る年少氣鋭、前途有望といふ連中ばかり。卓を圍んで
小川未明
新に越して来た家の前に二軒続きの長屋があった。最初私にはただこんな長屋があるという位にしか思われなかった。 ある新聞社にいる知人から毎日寄贈してくれる新聞がこの越して来てから二三日届かなかったので、私はきっと配達人が此家が分らない為であろうと思った。しかし私には無代価で送ってもらっているということが、わざ/\ハガキを本社に出して転居を報ずるのを差し控えさせた
田山花袋
私達は茣蓙を持つたり、煙草盆を持つたり、茶器を携へたりして、午前の日影のをりをり晴れやかに照りわたる間を土手の方へと行つた。水田の中では水鶏の声が頻りにきこえた。 『コ、コ、ココ、コ、コ』 いかにも水に近い感じであつた。沼はまだそれと見えてはゐなかつたけれども、あたりの地形から押し、土手のさまから押して、それの近いのが私にもそれと知れた。私達はまだいくらか朝
永井荷風
東京市中散歩の記事を集めて『日和下駄』と題す。そのいはれ本文のはじめに述べ置きたれば改めてここには言はず。『日和下駄』は大正三年夏のはじめころよりおよそ一歳あまり、月々雑誌『三田文学』に連載したりしを、この度米刃堂主人のもとめにより改竄して一巻とはなせしなり。ここにかく起稿の年月を明にしたるはこの書板成りて世に出づる頃には、篇中記する所の市内の勝景にして、既
牧野信一
自動車の中で、自分は安倍さんの左側に腰掛けた。自分の左には山口さんが居た。三人は訃報を持つて大井さんの青山の留守宅に走つてゐるのであつた。「安倍さんどうしたらいゝでせう。「――自分の心の中は、たつたそれだけのことで埋つてゐた。安倍さんに頼んだら、大井さんを生き返して呉れるかも知れない、――と自分は実際その時そんなことを思つてゐた。嘘のやうだけどほんとうにそん
牧野信一
たゞぼんやりと――自分は安倍さんの顔を瞶めた、必ずや自分の顔も安倍さんと同じやうに蒼然と変つてゐたに違ひない――大正十年三月五日午後二時十分――ちよつと自分はテーブルを離れて、どこだつたか歩いてゐた、さうしてテーブルのところへ帰らうとして、ストーブの前へ来た時、向方から慌しく駆けて来た安倍さんが、 「アツ……君々、大井君が死んだとさ……」 「えツ?」まさか、
寺田寅彦
日常身辺の物理的諸問題 寺田寅彦 毎朝起きて顔を洗いに湯殿の洗面所へ行く、そうしてこの平凡な日々行事の第一箇条を遂行している間に私はいろいろの物理学の問題に逢着する。そうしていつも同じようにそれに対する興味は引かれながら、いつまでもそのままの疑問となって残っているのである。今試みにその中の二三をここにしるすことにする。 第一は金だらいとコップとの摩擦によって
小川未明
きかん坊主の三ちゃんが、良ちゃんや、達ちゃんや、あや子さんや、とめ子さんや、そのほかのものを引きつれて、日の当たっている門のところへやってきました。 「学校ごっこをしようや、さあ、ここへならんで。」と、三ちゃんは命令をしました。けれど、みんなは、まだ学校へ上がっていないので、よく字を知っておりません。 「気をつけ、番号!」 「一、二、三、四っ、五、六、七っ。
外村繁
妻、素子が退院し、二ヵ月振りでわが家へ帰ったのは、四月中旬のことである。曇った日で、門前の吉野桜の花はすっかり散り落ち、枝には赤い萼が点々と残っている。素子は桜の梢の方へ目を遣ってから、門を入った。玄関では、満八十二になる、私の母が背を円くして、その妻を迎えた。私は運転手と自動車から荷物を運んだ。 素子は乳癌にかかった。その上、発見が遅れたため、癌は腋下から
小山清
末吉は屋台のおでん屋である。ことし四十五になる。大柄で躯つきもがっしりしている。生れつき丈夫な方で、これまであまり病気などしたことはない。しんが丈夫なのであろう。それほど労働で鍛えたという躯でもないが、屋台車をひく分にはさわりはなかった。それでもこの頃は、あまり無理は出来ないと自分でも用心している。 郊外のM町に住むようになってから一年ほどになる。おでん屋を
坂口安吾
日映の思い出 坂口安吾 私は戦争中、日本映画社の嘱託をしていた。一週間に一度出掛けて、試写室でその週のニュース映画と文化映画と外に面白そうなのを見せて貰って、専務と十五分ぐらい話をしてくればよろしいので、だから専務とは十五分ずつ何十回か話を交したわけで、この人は後日映画界の戦犯などゝ云われているが、経営上のことに就ては私は知らないが、映画芸術に対する認識、識
堀辰雄
一九〇六年一月二十五日、ライネル・マリア・リルケはロダン夫妻と同行して、シャアトルの本寺を見物に行つた。そのシャアトル行の状況は、リルケがその妻クララに宛てて其日のうちにシャアトルで書いたのと、その翌日巴里から出したのと、二通の手紙に彷彿としてゐる。リルケの手紙の中でも特に興味深く思へる故、この手帳に全部書きとめて置くことにする。 クララ リルケに シャアト
中谷宇吉郎
日支事變後しばらくして、北支へ行ったことがある。その時たしか北京へ行く車中だったかと思うが、アメリカの大學の教授だという人に會った。 車中の退屈しのぎに雜談をしているうちに「日曜年(サベティック・イエァ)の旅行だ」という話が出た。聞いてみると、アメリカの大學では、六年間勤めると、七年目は、一年間の休暇が貰えるので、その時に旅行をしたり、何處かへ行って研究をし
柏原孝章
維新の後、一異様の日を出現し来れり。その名称いまだ一定せず、曇濁といい、損徳といい、また呑泥という。みな西音の転訛にして、日曜日の義なり。それ日曜は七曜の一にして、毎週の首なり。これをもって毎歳必ず五十日あり。この日や、縉紳先生より開化処士、青年書生に至るまで、柳を訪い、花を尋るの期となせり。ゆえに妓楼、酒店にありては、古のいわゆる門日、物日に比す。 按ずる