Vol. 2May 2026

Sách

Thư viện tri thức thế giới miền công cộng

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書簡 家族・親族宛

原民喜

●昭和十一年四月三十日 千葉市登戸より 村岡敏(末弟・当時明治大学ホッケー部に在籍し、ベルリンオリンピックに代表として派遣された)宛今朝早くから女房が起すのである それから一日中オリンピツクのことを云つて女房は浮かれ たうたう我慢が出来ないと云ふので速達を出すといふのである 大変芽出度いこととワシも思ふのである この上は身躰に注意し晴れの榮冠を擔つてかへつて

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書簡箋

宮本百合子

書簡箋 宮本百合子 中国の書簡箋というものには、いつもケイがある。けれどもなぜケイがあるかは知らなかった。白文体について作人が書いている文章が「魯迅伝」に引用されている。「古文を用いますと、空っぽで内容はなくとも、八行の書簡箋はいっぱいに埋められるわけであります」ははあと、感服した。古い支那の教養とは何という様式化であったろう! こういう極端な様式化が教養の

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書籍の風俗

恩地孝四郎

書籍の風俗 恩地孝四郎 本も時代によって、さまざまな風俗を成す。前述したように本はいつもその時代の趣味好尚を映じ出している。即ち、僧俗時代、貴族時代、そうした時代の本はやはりそうした時代を明示する姿を以て遺されている。燦爛たる光耀を伴うような、神への尊崇と神への敬順を具象化したような宝玉や金属で飾られた寺院本、紋章や唐草や絡み模様などでけんらんと装われた貴族

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リルケ書翰(ロダン宛)

堀辰雄

一九〇二年の秋、巴里にはじめて出かけて行つて、ロダンに親しく接しつつ、遂にロダン論を書き上げ、伯林の一書肆より上梓せしめた後、やや健康を害したリルケは、伊太利ピサの近くのヴィアレジオに赴いて(三月)、靜養してゐた。ヴィアレジオは海に面した、松林の中に居睡りしてゐるやうな、靜かな小さな村であつた。その松林の向うにはピサの町が見えるのであつた。――その村からリル

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書かでもの記

永井荷風

身をせめて深く懺悔するといふにもあらず、唯臆面もなく身の耻とすべきことどもみだりに書きしるして、或時は閲歴を語ると号し、或時は思出をつづるなんぞと称へて文を売り酒沽ふ道に馴れしより、われ既にわが身の上の事としいへば、古き日記のきれはしと共に、尺八吹きける十六、七のむかしより、近くは三味線けいこに築地へ通ひしことまでも、何のかのと歯の浮くやうな小理窟つけて物に

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書記官

川上眉山

書記官 川上眉山 一 笆に媚ぶる野萩の下露もはや秋の色なり。人々は争うて帰りを急ぎぬ。小松の温泉に景勝の第一を占めて、さしも賑わい合えりし梅屋の上も下も、尾越しに通う鹿笛の音に哀れを誘われて、廊下を行き交う足音もやや淋しくなりぬ。車のあとより車の多くは旅鞄と客とを載せて、一里先なる停車場を指して走りぬ。膳の通い茶の通いに、久しく馴れ睦みたる婢どもは、さすがに

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書道習学の道

北大路魯山人

世間、書を説く者は多いが、それは必ず技巧的にのみ観察したものであり、かつ、外見にのみ凝視することに殆ど決定的に偏している。すなわち、書家の書がそれである。ゆえに遠い昔はいざ知らず、近代では書家の書にうまい書があった例は皆無といってよい。全く書を専門に教える習字の先生から尊ぶべき書が生まれた試しはない。この一事実の現われは誰にとっても、うかうかと書家の教えを蒙

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書道と茶道

北大路魯山人

今日は茶の方の話を少し申し上げたいと思うのですが……、なぜ茶の話を申しますかといえば、それはいうまでもなく茶人の書がうまいからだということに帰するのであります。みなさんご承知の通り、ご家庭でもみなさんがお習いでしょうし、また世間で茶道とか、茶人だとかいうことを屡々いうことですが、私が遺憾に思うのは、なんか変なことがある場合に、あれは茶人だからね、というような

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書道を誤らせる書道奨励会

北大路魯山人

書道展覧会など殆ど全部がといって差支えない今の書家風の書、すなわち手先の器用で作り上げる「書」形態は、筆調は体裁上、一寸見に本当の能書と変るところなきものかに見える。が……実は能書のイミテーションだ。今少し手厳しくいえば能書の偽造だ。贋造紙幣製作と同義を持つものだ。例えば真の能書たらんには東に向うべきが当然であるべきを、西方に向って筆心を進めている、これが書

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曼珠沙華

斎藤茂吉

曼珠沙華 齋藤茂吉 曼珠沙華は、紅い花が群生して、列をなして咲くことが多いので特に具合の好いものである。一体この花は、青い葉が無くて、茎のうえにずぼりと紅い特有の花を付けているので、渋味とか寂びとか幽玄とかいう、一部の日本人の好尚からいうと合わないところがある。そういう趣味からいうと、蔟生している青い葉の中から、見えるか見えないくらいにあの紅い花を咲かせたい

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曽我の暴れん坊

坂口安吾

曾我の暴れん坊 坂口安吾 出家の代り元服して勘当のこと ある朝、曾我の太郎が庭へでてみると、大切にしている桜の若木がスッポリ切られている。 「何者のイタズラかな」 しかし切口を見ると、おどろいた。直径二寸五分ほどもある幹を一刀両断にしたもの、実に見事な切口。凡手の業ではない。しかし、かほど腕のたつ大人がこんなイタズラはしそうもない。イタズラしそうな奴といえば

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すり替え怪画 烏啼天駆シリーズ・5

海野十三

ルパン式盗難 その朝、志々戸伯爵は、自分の書斎に足を踏み入れるや、たちまち大驚愕に襲われた。 それは書斎の壁にかけてあったセザンヌ筆の「カルタを取る人」の画に異常を発見したためである。 零落した伯爵の今の身にとって、この名画は、唯一の宝でもあったし、また最高の慰めでもあったのだ。この名画ばかりは、いくら商人から高く買おうといわれても、いつもはっきり断った。

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最上川

斎藤茂吉

最上川 斎藤茂吉 最上川は私の郷里の川だから、世の人のいふ『お国自慢』の一つとして記述することが山ほどあるやうに思ふのであるが、私は少年の頃東京に来てしまつて、物おぼえのついた以後特に文筆を弄しはじめた以後の経験が誠に尠いので、その僅の経験を綴り合せれば、ただ懐しい川として心中に残るのみである。 十三歳の時に上山小学校の訓導が私等五人ばかりの生徒を引率して旅

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最初の出品画 ――四季美人図――

上村松園

今でこそ洋画にしろ日本画にしろ、モデルというものが大きな問題となっているが、今から四、五十年も前の我が画壇をふり返ってみると、そんなものはまるでなかった。 私の最初の展覧会出品画は「四季美人図」であって、これは明治二十三年、東京で開かれた第三回勧業博覧会に出品したもので、当時まだ十六歳の若年であった。 今から思ってみれば、若々しく子供っぽいものであったが、モ

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最初の問い

宮本百合子

最初の問い 宮本百合子 どんな育児の本も、必ずとり落しなく触れている一つのことがあります。それは幼い子供たちが次第次第に智慧づいて来たとき、心の目醒めを告げる暁の声としてきっと、「それは、なあぜ?」「どうしてそうなの?」と熱心に答えを求める。これこそ人間の叡智の芽であるから、決しておろそかに扱ってはならないということです。幼児について云われているこのことは、

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最初の悲哀

竹久夢二

最初の悲哀 竹久夢二 街子の父親は、貧しい町絵師でありました。五月幟の下絵や、稲荷様の行燈や、ビラ絵を描いて、生活をしているのでありました。しかし、街子はたいそう幸福でした。というのは、父親は街子を、このうえもなく愛していたし、街子もまた父親を世の中で一番えらくて好い人だと思っていました。母親が早くなくなったので、街子は小学校を卒業すると、家にいて、父親のた

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最初の苦悩

カフカフランツ

ある空中ブランコ乗りは――よく知られているように、大きなサーカス舞台の円天井の上高くで行われるこの曲芸は、およそ人間のなしうるあらゆる芸当のうちでもっともむずかしいものの一つであるが――、はじめはただ自分の芸を完全にしようという努力からだったが、のちにはまた横暴なほどになってしまった習慣から、自分の生活をつぎのようにつくりあげてしまった。つまり、一つの興行で

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最初の訪問

佐藤春夫

某年某月某日――この日づけは當時の彼の手紙を見ればはつきりわかる。その頃の手紙は二通か三通――全集にも未收のものが保存してある――ただ北海道にゐる弟が珍重して持つて行つてしまつて返却しない。手もとに置く必要があると幾度も言つてやるのに今だに返却しない。甚だ困る不都合千萬である。この男は何でも人のものを欲しがつて困る。本號にもこの手紙のうつしでも提供すれば有益

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最小人間の怪 ――人類のあとを継ぐもの――

海野十三

この秘話をしてくれたN博士も、先々月この世を去った。今は、博士の許可を得ることなしに、ちょっぴり書き綴るわけだが、N博士の霊魂なるものがあらば、にがい顔をするかもしれない。 以下は、N博士の物語るところだ。 私は大正十五年十二月二十六日の昼間、霧島の山中において、前代未聞の妖怪に出会った。 当時私は、冬山における動物の生態研究をつづけていたのだ。 私はキャン

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最後の事件

ドイルアーサー・コナン

気が重いけれども私は今、愛用のペンを取ってこれを認める――わが友人シャーロック・ホームズ氏を傑物たらしめるあの非凡な才能を書き留める最後の言葉として。これまでとりとめもなく、(重々自覚しているが)まったく力不足にも、私は友人とともに経験した怪事件の数々を、いくぶんなりとも記録しようと努めてきた。偶然ふたりが出会った『緋のエチュード』のあの頃から、国家間の深刻

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最後の勝利者は誰ぞ

北村透谷

最後の勝利者は誰ぞ 北村透谷 人生は戦争の歴史なり。刀鎗銃剣は戦争にあらず。人生即ち是れ戦争。世を殺せし者必らずしも虚栄に傲る勝利者のみにはあらじ、力ある者は力なき者を殺し、権ある者は権なき者を殺し、智ある者は智なき者を殺し、業ある者は業なき者を殺し、世は陰晴常ならず、殺戮の奇巧なるものに至つては、晴天白日の下に巨万の民を殺しつゝあるなり。銃鳴り剣閃めき、戦

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最後の大杉

内田魯庵

大杉とは親友という関係じゃない。が、最後の一と月を同じ番地で暮したのは何かの因縁であろう。大杉が初めて来たのは赤旗事件の監房生活から出獄して間もなくだった。淀橋へ移転してから家が近くなったので頻繁に来た。思想上の話もしたし、社会主義の話もしたが、肝胆相照らしたというわけでもないから多くは文壇や世間の噂ばなしだった。 大杉は興味がかなり広くて話題にも富んでいた

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最後の手紙

仲村渠

氷になつて午后一時 A広場のまんなかで消えてしまう。 贈つてもらつた独逸製の目醒し時計の中に隠れるから燈台の尖へあがつていつて海の方へ力いつぱい抛つてくれたまへ。 太平洋のまんなかには、ちツちやくて綺麗な魚はゐないだらうかかならず僕を喰べてほしい、豆になつて跳びこむから。 せツちやん。君は僕のいふことを聞いてはくれぬ故、僕は以上三ツのいづれかを実行します。で

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