翻訳のむずかしさ
神西清
飜訳のむずかしさ 神西清 飜訳文芸が繁昌だそうである。一応は結構なことだ。あの五十年という制限の網の目がだいぶ緩められて、生きのいい魚がこっちの海へも泳いできて、わが文化の食膳にのぼせられる。悪かろうはずはないが、物事には必ず善悪の両面がある。水から揚がるのは、いい魚ばかりとは限らない。お客さんは腹が空いているから何でも食う。そこで料理人は転手古舞で、材料の
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神西清
飜訳のむずかしさ 神西清 飜訳文芸が繁昌だそうである。一応は結構なことだ。あの五十年という制限の網の目がだいぶ緩められて、生きのいい魚がこっちの海へも泳いできて、わが文化の食膳にのぼせられる。悪かろうはずはないが、物事には必ず善悪の両面がある。水から揚がるのは、いい魚ばかりとは限らない。お客さんは腹が空いているから何でも食う。そこで料理人は転手古舞で、材料の
岸田国士
翻訳劇と翻案劇 岸田國士 翻訳劇といふ名称を私は好まぬ。翻訳は方便にすぎぬ。外国劇或は西洋劇で沢山だ。翻訳といふ言葉に妙に力を入れるのは、文化の幼稚さを証拠立てるやうなものだ。 翻訳劇といふものが、しかし、日本では新劇の一種目になつた観がある。演劇として最も不自然な演劇を指す。 先づ第一に、白に生命がない。第二に、日本人中、最も国際化されてゐない俳優によつて
神西清
飜訳の生理・心理 神西清 飜訳について何か書けということだが、僕の飜訳は専門ではなくて物好きの方らしいから、別にとり立てて主義主張のあるわけでもない。ただ近ごろはやりの単色版的飜訳ということでちょっと感じたことがあるので、それでも書いて見よう。 単色版的飜訳というのは、いうまでもなく野上豊一郎氏の提唱にかかるもので、「原物の意味だけを理知的に伝える」ことだけ
幸徳秋水
翻訳の苦心 幸徳秋水 翻訳で文名を売る位ひズルいことはない、他人の思想で、他人の文章で、左から横に書たものを、右から堅に器械的に引直すだけの労だらう、電話機や、写字生と大して相違する所はない、と語る人がある、少しも翻訳をしたことのない人、殊に外国文を読まぬ人にコンな考へを持つ者が多い。 是れ大なる謬りである、思想は別として、単に文章を書く上から云へば、翻訳は
戸川秋骨
翻訳製造株式会社 戸川秋骨 器械を一とまはしガタリと動かすと幾個かの字が出て来る、また一とまはしガタリと動かすと、また幾個かの字が出て来る、幾度かそれを繰りかへして居ると、沢山の字が集つて来るから、それを並べると、立派な学問が出来上る。これが誰れでも知つて居るガリヴア巡島記で、スヰフトが書いて居るラガトオの大学の記事である。が、これにも増して容易にまた簡単に
神西清
飜訳遅疑の説 神西清 滝井孝作氏の筆になる『志賀直哉対談日誌』というのを読んでいたら、偶然次のような一節にぶつかった。 「文体は必ず斯うだと限定出来ないネ、例え調子が不可んと言ったって調子がつかなければ何うにも出せない感じの場合もある、(中略)作品は一つ一つ各々違った文体を持つのが当然だネ、結局文体はどうでもいいのだ、此方の態度が文体を定めるのだ、文体など何
宮本百合子
スモーリヌイに翻る赤旗 宮本百合子 レーニングラードへ 夜十一時。オクチャーブリスキー停車場のプラットフォームに、レーニングラード行の列車が横づけになっている。 麻袋。樺の木箱に繩でブリキやかんをくくりつけたもの。いろんな服装の群集は必要以上にせき込み、頸をもち上げて前の方ばっかり見ながら押し合った。 三等車は鋼鉄だ。暗い緑色に塗ってある。プラットフォームの
小川未明
西の山のふもとの森の中に、からすが巣を造っていました。そして、毎日、朝はまだ、空の明けきらないうす暗いうちから、みんなのからすは列をなして、東の空を指して高く飛んでゆきました。 その時分、村では、起きた家もあれば、まだ寝ている家もありました。からすは、こうして餌を探しに出るのでした。 一日、町の裏や、圃や、また河の淵や、海浜など、方々で食を求めるのでした。一
太宰治
老ハイデルベルヒ 太宰治 八年まえの事でありました。当時、私は極めて懶惰な帝国大学生でありました。一夏を、東海道三島の宿で過したことがあります。五十円を故郷の姉から、これが最後だと言って、やっと送って戴き、私は学生鞄に着更の浴衣やらシャツやらを詰め込み、それを持ってふらと、下宿を立ち出で、そのまま汽車に乗りこめばよかったものを、方角を間違え、馴染みのおでんや
佐々木味津三
老中の眼鏡 佐々木味津三 一 ゆらりとひと揺れ大きく灯ざしが揺れたかと見るまに、突然パッと灯りが消えた。奇怪な消え方である。 「……?」 対馬守は、咄嗟にキッとなって居住いを直すと、書院のうちの隅から隅へ眼を放ち乍ら、静かに闇の中の気配を窺った。 ――オランダ公使から贈られた短銃も、愛用の助広もすぐと手の届く座右にあったが、取ろうとしなかった。刺客だったら、
永井荷風
臼木は長年もと日本橋区内に在った或病院の会計をしていた時分から、株式相場にも手を出し、早くから相応に財産をつくっていたが、支那事変の始ったころ、年も六十近くなったので、葛飾区立石町に引込み、老妻に釣道具と雑貨とを売らせ、自分は裏畠に花や野菜を栽培したり、近くの中川や江戸川へ釣に出たりして老後の日を楽しく送っている。 忰が一人、娘が一人あったが、忰の方は出征す
小山清
小さな川を隔てて、少し遠い処に墓地があった。はじめて来たとき、老人は墓地を好んだ。樹の間がくれに、小さな墓地であった。一度、雨がひどく降るときに、寂しさがあった。明治十三年、慶応二年、文久二年、安政五年、天保十四年、……墓石は苔むしていた。地蔵さまがあったが、顔が欠けていた。そこは一里塚と言った。寺は何処にも見えなかった。上求菩提下化衆生、老人は言葉が言えな
ヘミングウェイアーネスト・ミラー
彼は老いていた。小さな船でメキシコ湾流に漕ぎ出し、独りで漁をしていた。一匹も釣れない日が、既に八四日も続いていた。最初の四〇日は少年と一緒だった。しかし、獲物の無いままに四〇日が過ぎると、少年に両親が告げた。あの老人はもう完全に「サラオ」なんだよ、と。サラオとは、すっかり運に見放されたということだ。少年は両親の言いつけ通りに別のボートに乗り換え、一週間で三匹
小山清
老人は六十二になった。右半身が不自由だった。右腕が痛かった。でも、だんだん少しはよくなった。歩きだしてしばらくすると右の肺が痛かった。熟っとしていると、痛みは消えていった。三十になる頃、心臓が肥大していた。息切れがひどかった。六十になった時には、杖を引いていた。野桜の杖である。ちょっと手頃である。いつか、愛していた。野原の野桜である。 ……ある日突然に倒れた
河井酔茗
吾老いぬれど 仙家に入らず 茶烟軽く 紅塵の裡に住む 柴門を守るは 吾家の月 竹窓に吹くは 隣家の風 人来れば 迎へて会ふ 人去れば 吾座にもどる 眠り足りて 夢なく 起きて 倦むことなし 昼には 昼に書くことあり 夜には 夜に語ることあり 世にあづけたる わが寿は 時来らば 世に返さむ 草の生命は わが生命より短く 樹の年輪は わが年輪より多し わが生命の
黒島伝治
老夫婦 黒島傳治 一 為吉とおしかとが待ちに待っていた四カ年がたった。それで、一人息子の清三は高等商業を卒業する筈だった。両人は息子の学資に、僅かばかりの財産をいれあげ、苦労のあるだけを尽していた。ところが、卒業まぎわになって、清三は高商が大学に昇格したのでもう一年在学して学士になりたいと手紙で云ってきた。またしても、おしかの愚痴が繰り返された。 「うらア始
小川未明
老婆は眠っているようだ。茫然とした顔付をして人が好そうに見る。一日中古ぼけた長火鉢の傍に坐って身動きもしない。古い煤けた家で夜になると鼠が天井張を駆け廻る音が騒々しい。障子の目は暗く紙は赤ちゃけているが、道具というものはこの長火鉢の外に何もなかった。私は終日外に出て家にいることが稀だから、何様ものを食べているか食事するのを見たことがない。私はただ二階の六畳を
坂口安吾
老嫗面 坂口安吾 初夏のうららかなまひるであつた。安川はタツノの着物をつめこんだ行李を背負つて我家へむかつた。安川のうしろには、タツノが小さな手荷物をさげ、うはづつた眼付をしてぼんやり歩いてゐた。タツノのうしろには彼女の三人の朋輩が、一人はあくどい紫色の女持トランクをぶらさげ、あとの二人は異体の知れない大包のみそれぞれ一端をつるしあげながら、からみあつてねり
桑原隲蔵
老子化胡經 桑原隲藏 一 如何なる宗教でも、他の國民の間に傳播して行く際には、その國民の有して居つた舊信仰と衝突するものである。佛教も支那に東漸してから、支那人固有の道教儒教と衝突した。殊に道教とは尤も長く尤も激しく衝突した。 佛教の支那に將來されたのは、普通に東漢の明帝の永平十年(西暦六七)の頃と認められ、『漢法本内傳』(唐の智昇の『續集古今佛道論衡』引く
今野大力
相当にぎやかな街の電柱の下のベンチに 素晴らしい将軍が休んでいる 私は写真を見てそう思った が、この老将軍は 前歴が何だかわからない ただぶくぶくした襟毛つきの厚っぽたい外套をきて 帽子はないが ない方がずっと素晴しい頭髪やヒゲを効果的に見せるし 眉毛でも普通の人間とは凡そ縁遠い 逞ましくゆかりあり気な一人の人物と見える だがこの老将軍は白系露字の新聞売であ
小川未明
崖からたれさがった木の枝に、日の光が照らして、若葉の面が流れるように、てらてらとしていました。さびしい傾斜面に生えた、草の穂先をかすめて、ようやく、この明るく、広い世界に出たとんぼが、すいすいと気ままに飛んでいるのも、なんとなく、あたりがひっそりとしているので、さびしく見られたのであります。 年とった工夫が、うつむきながら、線路に添うて歩いていました。若い時
萩原朔太郎
老いて生きるということは醜いことだ。自分は少年の時、二十七、八歳まで生きていて、三十歳になったら死のうと思った。だがいよいよ三十歳になったら、せめて四十歳までは生きたいと思った。それが既に四十歳を過ぎた今となっても、いまだ死なずにいる自分を見ると、我ながら浅ましい思いがすると、堀口大学君がその随筆集『季節と詩心』の中で書いているが、僕も全く同じことを考えなが
太宰治
所收――「兄たち」「愛と美について」「新樹の言葉」「老ハイデルベルヒ」「おしやれ童子」「八十八夜」「秋風記」「短篇集―ア、秋・女人訓戒・座興に非ず・デカダン抗議」「俗天使」「花燭」 昭和十四年五月に「愛と美について」さうして、昭和十五年四月には「皮膚と心」が共に竹村書房より出版せられ、おのおの初版二千部くらゐを市場に送り、間もなく品切れとなつた樣子であるが、
宮地嘉六
終戦と共に東京の空が急に平穏にかへつたときは誰もがホツとしたであらう。が、それから当分の間、あの遠くでならす朝夕のサイレンの声が空襲警報のやうに聞えて、いやだつた。鳴らすやつもさうした錯覚をねらつて、からかひ半分にやつてゐるやうにさへ思へたものだ――進駐軍が蜿蜒幾十台ものトラックで米大使館の周辺に乗りつけるやトラックから一斉に飛び降りた兵隊らが、いきなり道路