Vol. 2May 2026

Sách

Thư viện tri thức thế giới miền công cộng

14,981종 중 12,144종 표시

ハワイの色

中谷宇吉郎

ハワイは美しいところである。一番驚くのは、パイナップル畑の土の色であって、本当に真赤な色をしている。日本でいう赤土などとは、まるでちがっていて、文字どおりに真赤である。あの土を採ってきたら、そのまま油画の赤絵具に使えそうな色なのである。 こういう赤土はシンガポールでも前に見たことがある。その時も、熱帯の土地に特有な植物の鮮やかな緑と、目に痛いような真赤な土と

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色彩映画のシナリオ

中井正一

色彩映画のシナリオ 中井正一 私はフィルムが色彩を駆使するにあたって、それを「天然色映画」と名づけているのに、反対である。すでに映画が芸術であるかぎり、映画は、必ずしも天然の色と称するもののみに似ることをのみ標準とする名前をつける必要はないのである。 それは、むしろ簡単に「色彩映画」とよばれるべきであり、シナリオ・ライターは、そのシナリオで作者の意図にしたが

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色彩映画の思い出

中井正一

色彩映画の思い出 中井正一 バンジャマン・クレミュウは『不安と再建』の中で、一九三〇年は、すべての領域で決定的な年であったといっている。世界的な経済危機、ロシアのダンピング、トーキーが欧州を風靡した年である。 それは集団的主張の時代が、個人的主張の時代に代わる年であると彼はいうのである。 わが国でも土橋的トーキーが、この流れにそって、研究され、世界の動きにお

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オパール色の手紙 ――ある女の日記――

平林初之輔

こんなことが信じられるだろうか? でもじっさい妾は自分の眼で見たのだ。あの人が、世界でたった一人の妾の人だと信じきっていたあの人が、全く世間並みの、やくざな、汚らわしい人間であったなんて。 今朝の十時に、妾はあの人の書斎へはいって、書棚からミロッセの『コンフェッション』を探していた。すると、何という偶然の一致だろう。ちょうど、その書物をぬき出すとたんに、オパ

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色町洋食

古川緑波

大久保恒次さんの『うまいもん巡礼』の中に、「古川緑波さんの『色町洋食』という概念は、実に的確そのものズバリで」云々と書いてある。 ところが、僕は、色町洋食なんて、うまい言葉は使ったことがないんだ。僕の所謂日本的洋食を、大久保さんが、うまいこと言い変えて下さったもの。然し、色町洋食とは、又何と、感じの出る言葉だろう。 もっとも、これは関西でないと通じない、東京

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色褪せた書簡箋に

堀辰雄

色褪せた書簡箋に 堀辰雄 まだ發表しないでそのまま何處かへ藏ひ込んでしまつたアポリネエルの飜譯が二三あつたのを思ひ出して、僕は數日前、ごちやごちやになつた手文庫の中を丹念に搜してゐたら、「贋救世主アンフィオン」などの譯稿と一しよに、そんなもののあつたのを僕自身すつかり忘れてゐた、四枚ばかりの色褪せた書簡箋に細かな字で書き込んである、或る一個の覺書が見つかつた

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艶容万年若衆

三上於菟吉

揺るぎ無い御代は枝を吹く風の音も静かに明け暮れて、徳川の深い流れに根をひたした江戸文明の巨木には、豪華艶美を極めた花房が、今をさかりに咲き盛かり、散って萎れる末の世のかなしみの気配をば、まだこればかりも見せぬ元禄時代の、さる年の晩春初夏に、この長物語ははじまります。 それは四月なかばの、とある朝のことでありました。涼やかな軟風にさざなみを立てている不忍池畔の

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艶色落語講談鑑賞

正岡容

艶色落語講談鑑賞 正岡容 売色ところどころ 岡場所の歌 戦火に遭うまで大塚の花街に、私たちはいた。先だって輪禍で死んだ三遊亭歌笑の家のすぐそばにあたろう。 その頃女房が教えていた新舞踊のお弟子はたいてい若い妓ばかりだったが、その中の一人が一日やってきて、 「先生、キミサリンって踊りを教えてください」 「キミサリン? そんな風邪薬みたいな踊り知らないわねぇ」

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佐左木俊郎

芋 佐左木俊郎 福治爺は、山芋を掘ることより外に、何も能が無かった。彼は毎日、汚れた浅黄の手拭で頬冠りをして、使い古した、柄に草木の緑色が乾着いている、刃先の白い坏を担いで、鉈豆煙管で刻煙草を燻しながら、芋蔓の絡んでいそうな、籔から籔と覗き歩いた。 叢の中を歩く時などは、彼は、右手に握った坏で、雑草を掻分けながら、左の手からは、あまり好きでも無い刻煙草を吸う

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芋掘り

長塚節

芋掘り 長塚節 一 小春の日光は岡の畑一杯に射しかけて居る。岡は田と櫟林と鬼怒川の土手とで圍まれて他の一方は村から村へ通ふ街道へおりる。田は岡に添うて狹く連つて居る。田甫を越して竹藪交りの村の林が田に添うて延びて居る。竹藪の間から草家がぽつ/\と隱見する。箒草を中途から伐り放したやうに枝を擴げた欅の木がそこにもこゝにもすく/\と突つ立つて居る。田にはもう掛稻

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芙蓉の花にも似た美しい楊貴妃を

上村松園

芙蓉の花にも似た美しい楊貴妃を 上村松園 帝展の方も大分出品しなかったので今年は思い立って……それも近頃取りかかったばかりで明日辺りから墨を当てようかというところなのです。画題は〈楊貴妃〉それもあの湯上りの美しい肌を柔らかな羅に包んで勾欄に凭れながら夢殿の花園を望んで見ると言った構図で、尤も湯上りと言いますと何だか意気に、そうしてやや下品な様に聞こえますがそ

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芝刈り

寺田寅彦

芝刈り 寺田寅彦 私は自分の住み家の庭としてはむしろ何もない広い芝生を愛する。われわれ階級の生活に許される程度のわずかな面積を泉水や植え込みや石燈籠などでわざわざ狭くしてしまって、逍遙の自由を束縛したり、たださえ不足がちな空の光の供給を制限しようとは思わない。樹木ももちろん好きである、美しい草花以上にあらゆる樹木を愛する。それでもし数千坪の庭園を所有する事が

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ソヴェトの芝居

宮本百合子

ソヴェトの芝居 宮本百合子 ――この頃は、ぼつぼつソヴェト映画が入って来るようだね。「アジアの嵐」なんか猿之助の旗あげにまで利用されて賑やかだった。あれはあっちでも、勿論傑作の部なんだろう? ――そりゃそうさ。はじめてモスクワの「コロス」っていう優秀映画館で公開された時は素敵だった。伴奏は特別作曲された音楽だったし。 帝国主義と植民地とがどういう関係におかれ

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芝居と僕

岸田国士

芝居と僕 岸田國士 一 今更回顧談でもないが、今度「現代演劇論」といふ本を出したあとで、僕は、なんだかこれで一と役すましたといふ気がふとしたことは事実である。これからまだあとにどんな役がひかへてゐるにせよ、それがまた今まで以上に満たされない結果に終るかも知れぬにせよ、ともかく、今日まで十数年の間、僕は、芝居のためにするだけのことはし、僕の能力で齎し得るだけの

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芝居と生活

岸田国士

芝居と生活 岸田國士 「芝居と生活」といふ題をつけましたが、これは非常に突嗟に付けたのでありまして、かういふ表題なら何ういふことでも喋れるだらうと思つたからです。 元来、言葉といふものは時代が進むに従つて、同じ言葉が非常に複雑な意味を持つやうになります。芝居といふ言葉、生活といふ言葉と、かう二つ並べましたが、何れも現代に於いてかなり面倒な言葉になりました。昔

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芝居と見物 売笑的舞台への攻撃

岸田国士

現代日本の文化は、いろいろの部門に於て、もつと厳密な批判が加へられなければならぬと思ふが、私は、社会的に観て、最も時代の空気を反映すると考へられる演劇の立場から、この現状の憂ふべき傾向を指摘してみようと思ふ。 先づ東京だけについて、主なる商業劇場の出し物を調べてみると、「近代の教養ある人々」を楽しませるやうな戯曲を上演してゐることは先づ例外といつてよろしく、

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芝の芽

土田耕平

芝の芽の萌えるころは ふるさとの丘を思ひだす ゆるやかにふわふわと雲の浮かんだ あの丘山を 犬ころが走り 凧があがり ぼくらは寝そべつてゐたつけが 「どこへ行かうかな」 「大きくなつたら」 「海へ――空へ――遠いところへ――」 誰やかれやみんな叫びあつた―― 芝の芽の萌えるころは ふるさとの丘を思ひだす ゆるやかにふわふわと雲の浮んだ あの丘山を ああ誰もか

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芝、麻布

小山内薫

『あばよ、芝よ、金杉よ。』 子供の頃、一緒に遊んでいた町の子達と別れる時、よく私達は歌のように節をつけて、こういった。 私は麹町の富士見町で育った。芝といえば――金杉といえば――大変遠いところのような気がした。 『あばよ、芝よ、金杉よ。』 今でも、この一句を口ずさむと、まだ電灯のなかった、薄暗い、寂しい、人通りの少ない、山の手の昔の夕暮が思い出される。 その

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芥川比呂志

加藤道夫

はやいもので、芥川比呂志との交友もそろそろ十五年になる。初めて逢つたのは慶應の豫科の頃だつたが、その頃彼は蒼白い顏をして詩を書いてゐた。中々いい詩で、今だに頭に殘つてゐるのもある。詩語の選擇が極めて綿密で、ヴィジオンも鮮かだつたし、何か非凡な洗練味があつた。アポリネェルやヴァレリィの詩の飜譯もうまいと思つた。それから間もなく紹介されて逢つた時、ペシミスチック

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芥川竜之介を哭す

佐藤春夫

最後まで理智を友としたやうに見える芥川龍之介を弔ふためには、故人もこれを厭ふたところの感傷の癖をさけて、評論の形を以てこれを爲すことを、僕の友人の良き靈は宥してくれるだらうと思ふ。 「爲す者のみひとりこれを解す」これはニイチエの言葉であるが、僕はまだ一ぺんも自分を殺したものではない。だからこの友人のこの特別な死の消息については到底了解出來ないのは云ふまでもな

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芥川竜之介を憶ふ

佐藤春夫

自分と芥川との交友関係は、江口渙を中間にして始つた。芥川は将に流行児として文壇の檜舞台へ上らうとしてゐる前後であつた。自分はその五六年以前から二三の同人雑誌などに今顧みるときまりが悪いやうな幾つかの詩歌や散文の習作などを活字にして貰つた事があつて芥川の方でも自分の名前位は知つてゐたらしい。自分はその頃文学上の自信をなくし方向を見失つてゐた。さうして斯ういふ状

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(芥川竜之介の書翰に就いて)

堀辰雄

僕はこの頃、芥川龍之介書翰集(全集第七卷)を讀みかへした。そしてちよつと氣のついたことがあるから、それを喋舌つて見たい。 芥川さんは brilliant な座談家だつたさうである。さういふどこか才氣煥發といつたやうな風貌は大正七、八年頃の書翰の中にうかがはれないことはない。しかし、さういふ芥川さんは僕のすこしも知らない芥川さんだ。 又、芥川さんは風流人だつた

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