黒猫
ポーエドガー・アラン
私がこれから書こうとしているきわめて奇怪な、またきわめて素朴な物語については、自分はそれを信じてもらえるとも思わないし、そう願いもしない。自分の感覚でさえが自分の経験したことを信じないような場合に、他人に信じてもらおうなどと期待するのは、ほんとに正気の沙汰とは言えないと思う。だが、私は正気を失っている訳ではなく、――また決して夢みているのでもない。しかしあす
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ポーエドガー・アラン
私がこれから書こうとしているきわめて奇怪な、またきわめて素朴な物語については、自分はそれを信じてもらえるとも思わないし、そう願いもしない。自分の感覚でさえが自分の経験したことを信じないような場合に、他人に信じてもらおうなどと期待するのは、ほんとに正気の沙汰とは言えないと思う。だが、私は正気を失っている訳ではなく、――また決して夢みているのでもない。しかしあす
島木健作
黒猫 島木健作 病気が少しよくなり、寝ながら本を読むことができるようになった時、最初に手にしたものは旅行記であった。以前から旅行記は好きだったが、好きなわりにはどれほども読んでいなかった。人と話し合って見ても旅行記は案外読まれていず、少くともある種の随筆などとはくらべものにはならぬようであった。自分にとって生涯関係のありそうにもない土地の紀行など興味もなし、
田山花袋
この作は非常に面白い。しかし何故面白いのか。何故かう心を惹くのか。さう思つて考へて見ても、何うしてもその理由がわからないやうな場合がよくある。例の芭蕉の『昼見れば首筋赤きほたるかな』などもその一つである。非常に面白いけれど、その面白い理由が、説明しようとしても容易に出来ない。(不思議なもんだなア、芸術は?)かう私は思はずにはゐられなかつた。 『かへつて、説明
田山花袋
× 知識は堆積し且つ貯蔵して置くことが出来るが、芸術にはそれが出来ぬ。何故なら、芸術は飽くまでも刹那的で且つ醗酵的であらねばならないからである。 × 曾ては、かういふことを人も言ひ自分も言つた。四十、五十になつたら、ちつとは世の中のこともわかるだらう。少しはすぐれたものも書けるだらうと。想像は全く反対であつた。経験などは決して貯めて置くことの出来るものではな
薄田泣菫
黒猫 薄田泣菫 「奥さん、謝れなら謝りまんが、それぢやお宅の飼猫だすかいな、これ」 荷車曳きの爺さんは、薄ぎたない手拭で、額の汗を拭き拭き、かう言つて、前に立つた婦人の顔を敵意のある眼で見返しました。二人の間には、荷車の轍に轢き倒された真つ黒な小猫が、雑巾のやうに平べつたくなつて横たはつてゐました。 六月のむしむしする日の午後でした。私は大阪のある場末の、小
坂口安吾
天正十八年真夏のひざかりであつた。小田原は北条征伐の最中で、秀吉二十六万の大軍が箱根足柄の山、相模の平野、海上一面に包囲陣をしいてゐる。その徳川陣屋で、家康と黒田如水が会談した。この二人が顔を合せたのはこの日が始まり。いはゞ豊臣家滅亡の楔が一本打たれたのだが、石垣山で淀君と遊んでゐた秀吉はそんなことは知らなかつた。 秀吉が最も怖れた人物は言ふまでもなく家康だ
中谷宇吉郎
一八六八年は、日本が中世の封建制度から脱却して、近代世界へはいった年として、日本の歴史の上で、一番重要な年である。われわれは、これを明治維新といっている。 明治政府が、その創設と同時に着眼したのは、北海道である。北海道は、その他の日本全土の三分の一の面積をもつ大きい島であって、当時はエゾと呼ばれていた。このエゾの島は、全島が千古の密林におおわれ、沿岸の海は豊
服部之総
黒田清隆の伝記があれば、だれか教えていただきたい。東大史料編纂所では、みつからない。北海道には手がかりがあろうかとおもって、この小文を思いたったしだいである。 北海道開拓次官となって樺太に発つのが明治三年七月二十七日(『大久保利通日記』)、井上清氏の労作『日本の軍国主義』につぎの記載がある。 「政府は七〇年二月樺太開拓使を置いた。ついで五月に黒田清隆を開拓使
太宰治
津輕に疎開中、黒石町にいちど遊びに行つた事があります。黒石民報の中村さんのところへ遊びに行つたのです。中村さんは、縞ズボンをはいてゐました。いつも、はにかんで、赤面し、微笑してゐました。頭のいいひとは、たいてい、こんな表情をしてゐるものです。中村さんは、私に字を書かせました。さうして私の書いてゐるのを傍で見てゐながら、「こなひだ、××さんにも書いてもらつたが
服部之総
鉄で船を造ることは、技術的には、ヘンリー・コートが鉄板製造法を発明したことで(十八世紀末)可能になった。だがその後も長いあいだ、水に沈む代物で船が造れるもんかという意見が支配していた。いまだからこそ一口噺にでもありそうな気がするのだが、十九世紀十年代のはなしとして、英国王室造船所の技師長が、有名な造船業者スコット・ラッセルにむけて、 「鉄造船のはなしは聞きた
服部之総
阿片戦争(一八四〇―四二)で中国が開国した後は極東の一角日本を開けばこれで旧文明国を資本主義世界に開放する事業が完成するわけである。だから南京条約で、この次は日本の番だということはイギリスを先頭とする資本主義列強の常識であったばかりではなく、日本にとっても常識であった。しかもその客がどんな客人であるかはインドや中国を開国させた実績にてらして日本の愛国者にはよ
田中貢太郎
義直は坂路をおりながらまた叔父のことを考へた。それは女と一緒にゐた時にも電車の中でも考へたことであつたが、しかしそれは、叔父が自分の帰りの遅いのを怒つて待つてゐるだらうと云ふことであつたが、あの時のはその叔父が自分の家へ来て坐つてゐるやうな感じが加はつてゐた。義直は困つたなと思つた。 (行つて来ましたが、和尚さんが留守でしたから、念のために明日の朝早くも一度
坂口安吾
矢車凡太が黒谷村を訪れたのは、蜂谷龍然に特殊な友情や、また特別な興味を懐いてゐたためでは無論ない。まして、黒谷村自体に就ては、その出発に先立つて、已に絶望に近いものを感じてゐたのだが、それでも東京に留まるよりはましであると計算して、厭々ながら長い夜汽車に揺られて来たのだ。 夏が来て、あのうらうらと浮く綿のやうな雲を見ると、山岳へ浸らずにはゐられない放浪癖を、
木暮理太郎
地質学者の説に拠ると、今日普通に日本北アルプスの名で広く世に知られている飛騨山脈は、凡南十度西より東十度北即ち南南西から東北東に向って並走して居る数条の連脈から成っているということである。さもあらばあれ高い山のみを渇仰の標的として、峰から峰へと縦走する気儘な山岳の巡礼は、勝手に是等の山脈を二にも三にも胴切にして、低い山はそれが主脈であっても、草鞋の先に突懸っ
木暮理太郎
我国の一大峡流である黒部川の全貌が完全に世に紹介されるに至ったのは、誰が何と言っても、これは立山後立山両山脈の山々と其抱擁する谷々とに限りなき興味を有し、就中立山連峰と黒部峡谷とを礼讃して措かざる冠君の数年に亘りて惓むことを知らない努力の結果であることは、動かす可からざる事実であり、又よく人の知っている通りである。されば纔に黒部の片鱗を窺い見たに過ぎない私な
宮本百合子
黒馬車 宮本百合子 時候あたりだろうと云って居た宮部の加減は、よくなるどころか却って熱なども段々上り気味になって来た。 地体夏に弱い上に、此の間どうしたのか頭の工合を悪くして三日ほど床について居た揚句にたべたかつおの刺身がさわったのだと云う事は確な事であった。 「まあほんとに不養生な、 白肉のでさえたべない様にして居るのにねえ。 あんなに云って置いたのをきか
宮本百合子
黒い驢馬と白い山羊 宮本百合子 八月の十五日は、晴れた夜が多いのに、九月の十五夜は、いつも曇り勝だ。 今年は珍しく快晴で、令子も縁側から月見をした。 澄み輝き大らかな月が、ポプラーの梢の上にのぼると、月に浮かされた向う通りの家の書生達が大勢屋根へ出ていろいろな唄を唱った。令子の庭には萩が咲いて居て、やや色づきかけた石榴の実をすべった月かげが地にある。書生達の
近松秋江
黒髪 近松秋江 一 ……その女は、私の、これまでに数知れぬほど見た女の中で一番気に入った女であった。どういうところが、そんなら、気に入ったかと訊ねられても一々口に出して説明することは、むずかしい。が、何よりも私の気に入ったのは、口のききよう、起居振舞いなどの、わざとらしくなく物静かなことであった。そして、生まれながら、どこから見ても京の女であった。もっとも京
堀辰雄
源氏物語の「總角」の卷で、長患ひのために「かひななどもいとほそうなりて影のやうによわげに」、衾のなかに雛かなんぞの伏せられたやうになつたきり、「御髮はいとこちたうもあらぬほどにうちやられたる、枕よりおちたるきはの、つやつやと」した宇治の姫君が愛人の薫の君たちにみとられながら、遂に息を引きとつてしまふ。そのとき薫の君が「夢かとおぼして、御殿油をちかうかかげて見
岸田国士
田中千禾夫君について何か書けといふ座(俳優座)からの註文である。かういふ場所で親しい友人の作品評でもあるまいから、僕の識つてゐる同君の人物紹介をごく寛いだ気持でしてみることにする。 田中君が鳥取の産だといふことは、ごく最近まで知らなかつた。慶応の仏文科在学中から演劇研究を志し、僕たちのやつてゐた研究所へ第一回生としてはいつて来た頃、同君の特徴は、今日と少しも
勝海舟
黙々静観 勝海舟 一個人の百年は、ちやうど国家の一年位に当るものだ。それ故に、個人の短い了見を以て、余り国家の事を急ぎ立てるのはよくないよ。徳川幕府でも、もうとても駄目だと諦めてから、まだ十年も続いたではないか。 時に古今の差なく、国に東西の別はない、観じ来れば、人間は始終同じ事を繰り返して居るばかりだ。生麦、東禅寺、御殿山。これ等の事件は、皆維新前の蛮風だ
宮本百合子
「小説の書けぬ小説家」の後に、「汽車の罐焚き」を読むことが出来たのは、一つの心持よいことである。この感じは作家中野重治の友達である私一人の感情ではなかろうと思う。中野さんが誰かに、もう当分私小説はおやめだ、と云ったというようなことを聞いたが、私小説をやめるということが、この頃文壇の一部で云われているような文学の通俗化の方向をとらず、中野さんの小説で、この作品
田中貢太郎
柳橋の船宿の主翁は、二階の梯子段をあがりながら、他家のようであるがどうも我家らしいぞ、と思った。二階の方では、とん、とん、とん、と云う小鼓の音がしていた。 風の無い晴れきった、世の中がうつらうつらしているようにおもわれる春の日の正午過ぎであった。数多抱えている婢達は、それぞれ旦那衆のお供をして屋根船に乗り込んで、隅田の花見に往っているので家の中はひっそりして
堀辰雄
彼等は鼠のやうに遊んだ。 彼等はある空家の物置小屋の中に、どこから見つけてきたのか、數枚の古疊を運んできて、それを一枚一枚天井の梁の上に敷きつめた。するとそのおかげで、そこには――天井と梁との空間には、一種の部屋のやうなものが出來あがつた。それは祕密好きな子供らが誰にも見つからずに遊ぶためには屈竟な場所だつた。その隱れ場はしかし黴のにほひがした。 そこは、一