工女の歌
丹沢明
六月、湖に油を流して、太陽は照り返り、 煙突は、貪慾に膨れあがり、 山の中腹までのさばった工場の煙に、 青葉は、私達の顔色のように蒼ざめた。 幾万の釜が蒸しかえす熱気のなかで、 何と立ちの悪い繭だろう、 糸屑ばかりが指にからみついて、 今月も稼ぎ高と罰金とが棒引きだ、 女王の「素質改善」は「罰金制度」を作ることだった、 養成工女は毎月国へ手紙を書かされた、
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丹沢明
六月、湖に油を流して、太陽は照り返り、 煙突は、貪慾に膨れあがり、 山の中腹までのさばった工場の煙に、 青葉は、私達の顔色のように蒼ざめた。 幾万の釜が蒸しかえす熱気のなかで、 何と立ちの悪い繭だろう、 糸屑ばかりが指にからみついて、 今月も稼ぎ高と罰金とが棒引きだ、 女王の「素質改善」は「罰金制度」を作ることだった、 養成工女は毎月国へ手紙を書かされた、
寺田寅彦
工学博士末広恭二君 寺田寅彦 昭和七年四月九日工学博士末広恭二君の死によって我国の学界は容易に補給し難い大きな損失を受けた。 末広君の家は旧宇和島藩の士族で、父の名は重恭、鉄腸と号し、明治初年の志士であり政客であり同時に文筆をもって世に知られた人である。恭二君はその次男で、兄は重雄、法学博士で現に京都大学教授である。恭二君は明治十年十月二十四日東京で生れ、芝
岸田国士
歌舞伎劇を欧米の劇壇に紹介することは、たしかに有意義であり、その企てが案外容易に(実際はいろいろ困難もあつたらうが)果されたことは何よりよろこばしいが、露西亜の芸術家が、歌舞伎の実演から何を学び、何を感得したかを知る方法はないだらうか。一二新聞批評らしいものも伝へられはしたが、あんなものは当てにならない。 露西亜人は、他の欧米人に比べて、東洋芸術の真髄に触れ
小川未明
正ちゃんは、左ぎっちょで、はしを持つにも左手です。まりを投げるのにも、右手でなくて左手です。 「正ちゃんは、左ピッチャーだね。」と、みんなにいわれました。 けれど、学校のお習字は、どうしても右手でなくてはいけませんので、お習字のときは妙な手つきをして、筆を持ちました。最初、鉛筆も左手でしたが、字の形が変になってしまうので、これも右手に持つ癖をつけたのです。
坂口安吾
夏川左近は久方ぶりで上京のついで古本あさりに神田へでた。そのときふと思いだしたのは大竜出版社のことだ。終戦後の数年間、左近は密輸船に乗りこんでいた。荒天つづきのつれづれに、そのころの記録をつづり「密輸船」という題をつけて大竜出版社へ送ったままになっている。かれこれ一年ぐらい前のことである。むろん原稿を送りこんでいきなり本にしてもらえると思ってもいないが、ちょ
中井正一
巨像を彫るもの 中井正一 これまで、誰でも図書館とは、寂かな、がらんとした庫のようなシーンとした、け押されるような感じのところとなっていたのである。そこには古い本があればあるほど、威張れたのである。また、その量が十万冊、百万冊と多ければ多いほど、また誇りとされたのである。そして、それは人を威圧するような円天井があって、学問の尊厳があたりを払うようなこころもち
新美南吉
巨男の話 新美南吉 巨男とお母さんの住んでいたところはここからたいへん遠くのある森の中でした。 巨男のお母さんはおそろしい魔女でした。ほら鷲のような高い鼻や、蛇のような鋭い眼を持ったあのおそろしい魔女でした。 それはあるお月夜のことでしたよ。 魔女と巨男がねむりについたころ、だれか家の外から戸をたたきました。巨男が起きていって戸をあけてみると、ふたりの女が、
折口信夫
我々は遊郭の生活は穢いものと思つてゐるが、江戸時代の小説・随筆等を読むと、江戸時代の町人は遊郭生活を尊敬してゐる。段々調べてみるとその生活も訣る。遊びにゆく人達は目的は同じところなのだが、直接に売色に関係した事を目的としてゐない。吉原・新町・島原等に於ける遊郭の本格的な遊びをするお客をだいじんと言ふ語で表してゐる。大尽と書いてゐたが、元は大神と書いたのである
中谷宇吉郎
この寫眞は、昭和四年の夏のものである。巴里のたしかルクサンブールの公園だったかと思うが、そこで撮った北大理學部の教授候補者たちの寫眞である。 後列右端から説明すると、最初が現北大理學部長太泰教授、當時男爵であったが、いかにもノーブルな顏である。次が今立教大學へ移っておられる吉田洋一さん、名著『零の發見』の著者である。三人目が、地質の原田教授、次が地質の鈴木教
永井荷風
巷の声 永井荷風 日々門巷を過る物売の声もおのずから時勢の推移を語っている。 下駄の歯入屋は鞭を携えて鼓を打つ。この響は久しく耳に馴れてしまったので、記憶は早くも模糊として其起源のいつごろであったかを詳にしない。明治四十一年の秋、わたくしが外国から帰って来た時、歯入屋は既に鞭で鼓を打ちながら牛込辺を歩いていたようである。 その頃ロシヤのパンパンと呼んで山の手
坂口安吾
巷談師 坂口安吾 「ヘタな小説が売れなくなって巷談師になったのか。お前の底は見えた。恥を知れ。 一共産党員」 安吾巷談その三「野坂中尉と中西伍長」には全国の共産党員から夥しい反響があった。これも、その一つである。簡にして要を得、秀作である。 「お前の顔は……」このあとは、本人は書きたくない。私の顔に文句をつけるのは筋ちがいだが、「林芙美子との対談の愚劣さよ。
知里真志保
北海道名産の一つに北寄貝がある。標準和名はウバ貝であるが、今はホッキ貝というのが通り名になってしまった。この名の語源については、北の海にしかない貝だから北寄貝だと思っている人もある様だが、北方特産の動植物の名称によくある様に、これももとはアイヌ語から来た名称である。アイヌ語ではこれをポッキセイ(pok-sei)と云い、ポッキは女性の象徴、セイは貝のことである
坂口安吾
巻頭随筆 坂口安吾 山本元帥の戦死とアッツ島の玉砕と悲報つづいてあり、国の興亡を担ふ者あに軍人のみならんや、一億総力をあげて国難に赴くときになつた。 飛行機が足りなければ、どんな犠牲を忍んでも飛行機をつくらねばならぬ。船が足りなければ船を、戦車が足りなければ戦車を、文句はぬきだ。国亡びれば我ら又亡びる時、すべてを戦ひにささげつくすがよい。学校はそのまま工場と
中島徳蔵
私はまだ郷の中學に居た頃に、始めて先生の「心理新説」を讀んだ。其れは木版で印刷された單簡な二册ものであつた。又た殆んど同時に、「西洋哲學史講義」も讀んだ。其れも木版二册もの先生の洋行前の著述で、最後に此の講義の續きは三宅雄次郎君に托して外遊するとのことが記してあつたと記憶する。當時私は乳臭で、とても會得が出來たことではなかつたが、それでも幾分哲學上の術語に接
太宰治
市井喧争 太宰治 九月のはじめ、甲府からこの三鷹へ引越し、四日目の昼ごろ、百姓風俗の変な女が来て、この近所の百姓ですと嘘をついて、むりやり薔薇を七本、押売りして、私は、贋物だということは、わかっていたが、私自身の卑屈な弱さから、断り切れず四円まきあげられ、あとでたいへん不愉快な思いをしたのであるが、それから、ひとつき経って十月のはじめ、私は、そのときの贋百姓
坂口安吾
市井閑談 坂口安吾 (一) やまさん 昔銀座裏に「千代梅」といふおでん屋があつたころ、あそこは奇妙な人物が出入して不思議なところであつたが、桃中軒雲右衛門の妻君といふ婆さんなどと一緒に「やまさん」といふ二十二三の優男が居候してゐた。 「やまさん」は左団次の弟子で女形だつたさうだ。それであそこへ出入する芸者達がおやまの「やまさん」で、さう称んでゐたのである。時
長谷川時雨
市川九女八 長谷川時雨 一 若い女が、キャッと声を立てて、バタバタと、草履を蹴とばして、楽屋の入口の間へ駈けこんだが、身を縮めて壁にくっついていると、 「どうしたんだ、見っともねえ。」 部屋のあるじは苦々しげにいった。渋い、透った声だ。 奈落の暗闇で、男に抱きつかれたといったら、も一度此処でも、肝を冷されるほど叱られるにきまっているから、弟子娘は乳房を抱えて
折口信夫
市村羽左衛門の芸の質についての研究が、此頃やつと初まつたやうである。何にしても、此は嬉しいことだ。歌舞妓芝居のある一つの傾向は、これで追求せられて、その意義がわかつて来るだらうと思ふ。 なぜ、羽左衛門が、権八や菊之助乃至は久我之助・桜丸の類の役柄に扮し勝ちであつたか。又、直次郎や、新三や、さうかと思ふと梅吉(加賀鳶)・佐七の、小善小悪にあがく市井の人々になつ
宮本百合子
市民の生活と科学 宮本百合子 家庭で科学教育をどんな風にしてゆくかということや、科学についての知識を大衆の間にひろめ高めてゆくという文化上の大切なことがらも、現実の問題としては今日いろいろと複雑なものを含んでいるのではなかろうか。一般について云えば、従来日本の女の教育のしきたりでは科学が非常に軽じられていた。そのために、そういう片手おちな教育をうけた若い婦人
宮本百合子
「市の無料産院」と「身の上相談」 宮本百合子 今日、東京朝日新聞を見たら、フトこういう記事に目がとまりました。 近く市が建設する理想的な無料産院 貧しい人々の間に差しのべる温かい救いの施設 これは耳よりな話だ。そう思って読んで見ると、その無料産院というのは、予算十二万円。建物二百坪。コンクリートの二階建て、産院は細民カードに登録された家庭の婦人をお産の前後二
木下杢太郎
市街を散歩する人の心持 木下杢太郎 東京の市街を、土曜日の午後あたり、明日は日曜だといふ安心で、と見かうみ、ぶらぶら歩るくほど楽しみなものはない。たとへば神田の五軒町あたりは、広い道の両側に柳の並木、日にきらめける鉄条の上をけたたましい電車の嵐、と思つて一寸道傍の店先を覗くと赤く汚れた温い硝子戸を越してお七、吉三の古い錦絵、その隣を乳房をあらはに髪を梳る女、
豊島与志雄
ある港町の、港と停車場との間の、にぎやかな街路に、市郎の店はありました。店といっても街路の上の屋台の夜店で、その夜店のほんのかたはしなのです。 そのへんは、船や汽車の旅人がたくさんゆききするところで、また、町の人がたくさんであるくところです。それで、夜になると、いろいろな夜店がたちならびました。 市郎の夜店は、市郎のお母さんが出していたものです。いろいろな絵
坂口安吾
凡そ退屈なるものの正体を見極めてやらうと、そんな大それた魂胆で、私はこの部屋に閉ぢ籠つたわけではないのです。それとは全く反対に、凡そ憂鬱なるものを忘却の淵へ沈め落してしまほふと、それは確かに希望と幸福に燃えて此の旅に発足したのでした。それも所詮単なる決心ではありますが――とにかく其の心掛けは有つたのです。勿論初めのうちは、時々は散歩に出掛ける心持にもなつたも
小川未明
夏の晩方のことでした。一人の青年が、がけの上に腰を下ろして、海をながめていました。 日の光が、直射したときは、海は銀色にかがやいていたが、日が傾くにつれて、濃い青みをましてだんだん黄昏に近づくと、紫色ににおってみえるのでありました。 海は、一つの大きな、不思議な麗しい花輪であります。青年は、口笛を吹いて、刻々に変化してゆく、自然の惑わしい、美しい景色に見とれ