平次放談
野村胡堂
江戸のよさということを、いまの人は忘れていると思います。江戸というものは、いいものだし、たいしたものでした。 当時、両国にはたいへん猥褻な見世物があって、いまのストリップ・ショーなんか、とても追いつくものではなかったというんですね。 ところが、そこに行くのは、折助とか、やくざとか、田舎から出てきた江戸見物の人たちで、江戸の堅気の人たちは、決してそこに近づかな
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野村胡堂
江戸のよさということを、いまの人は忘れていると思います。江戸というものは、いいものだし、たいしたものでした。 当時、両国にはたいへん猥褻な見世物があって、いまのストリップ・ショーなんか、とても追いつくものではなかったというんですね。 ところが、そこに行くのは、折助とか、やくざとか、田舎から出てきた江戸見物の人たちで、江戸の堅気の人たちは、決してそこに近づかな
野村胡堂
「銭形平次」を書き始めて、もう二十七年になる。自分が生きている間は書きつづけてゆくつもりでいたが、五、六年前から眼疾が急に悪化して、どうしても筆をもつことが不可能になってしまった。二度、三度と手術をし、どうにかして書きつづけたいと努力してみたが、何分にも七十六歳の老体のことゆえ回復もむずかしかったのだろう、最近ではすっかり気力も失ってしまった。 そんなわけで
三島霜川
此の日も周三は、畫架に向ツて、何やらボンヤリ考込むでゐた。モデルに使ツてゐる彼の所謂『平民の娘』は、小一時間も前に歸ツて行ツたといふに、周三は尚だ畫架の前を動かずに考へてゐる。何を考へてゐたかといふと、甚だ漠然としたことで、彼自身にも具體的に説明することは出來ない。難然考へてゐることは眞面目だ、少し大袈裟に謂ツたら、彼の運命の消長に關することである。 『平民
新渡戸稲造
先達中本誌の余白を借りてデモクラシーに関して一言するところがあった。今回計らずもデモクラシーの本家本元なる米国に渡るを好機会として、自分の述べた事が他人の、ことに先輩の説くところとどれほど符合するか、また背馳するかを見たい心掛である。 横浜を出帆する際、親類を見送りに来られた文学博士遠藤隆吉君に甲板上で遇うたら、同君が『社会及国体研究録』の第一号を手渡しつつ
久生十蘭
普賢菩薩のお白象 チャッチャッチキチ、チャッチキチ、 ヒイヤラヒイヤラ、テテドンドン…… 「夏祭だ」 「夏祭だ」 「天下祭でい」 「御用祭だ」 「練って来た、練って来た。あれが名代の諫鼓鶏……」 「お次は南伝馬町の猿の山車」 「日吉鷲平の猿の面。あの山鉾ひとつで四千五百両とは豪勢なものでござります」 ……三番は、平河町の騎射人形、……四番は、山王町の剣に水車
久生十蘭
十六日の朝景色 薄い靄の中に、応挙風の朱盆のような旭がのぼり、いかにもお正月らしいのどかな朝ぼらけ。 出尻伝兵衛、またの名を「チャリ敵」の伝兵衛ともいう、神田鍋町の御用聞。 正月の十六日は、俗にいう閻魔の斎日。 商売柄、閻魔参りなどに行く義理はない。 谷中の方にチト急な用があって、この朝がけ、出尻をにょこにょこ動かしながら、上野山内の五重の塔の下までやってく
久生十蘭
朱房銀の匕首 源内先生は旅姿である。 旅支度と言っても、しゃらくな先生のことだから道中合羽に三度笠などという物々しいことにはならない。薄茶紬の道行に短い道中差、絹の股引に結付草履という、まるで摘草にでも行くような手軽ないでたち。茶筅の先を妙にへし折って、儒者ともつかず俳諧師ともつかぬ奇妙な髪。知らぬ人が見たら医者が失敗って夜逃をする途中だと思うかも知れない。
岡本綺堂
平造とお鶴 岡本綺堂 N君は語る。 明治四年の冬ごろから深川富岡門前の裏長屋にひとつの問題が起った。それは去年の春から長屋の一軒を借りて、ほとんど居喰い同様に暮らしていた親子の女が、表通りの小さい荒物屋の店をゆずり受けて、自分たちが商売をはじめることになったというのである。 母はおすまといって、四十歳前後である。娘はお鶴といって、十八、九である。その人柄や言
野呂栄太郎
拝啓 前略、 その後平田兄、羽仁兄等と相談の結果 各部会を別々に開くと各部に関係のある者が何度も会合のために煩わされるから、もう少し仕事が進行するまでは共同部会にしてはどうかというので、一応全体を次の四部に分けて見ました。 第一部 明治維新史(幕末史、維新変革史) 土屋、羽仁、久保、服部、平野、山田(勝)、山田(盛)、野呂、玉城、長谷川第二部 資
野呂栄太郎
御手紙ありがたく拝見仕りました。結構なる御見舞品まで賜わり御厚情の程感謝申し上げます。早速いただきましたが風味もよく非常に結構でございます。 編集会議にも研究会にもたびたび欠席仕り、何とも申訳ございません。御蔭でようやく熱も下りましたから、分担の分だけは期日通りに脱稿したいと思っております。しかしまだ予後がハッキリいたしませんから年内の上京は不可能だと思いま
野呂栄太郎
後れて申訳ありません。 全体として異議ありません。ただ次の点をもう少し強調する必要はないでしょうか? それは明治維新後の資本の原始的蓄積の現実的過程の特質によって「農業の生産行程における資本主義の発展、資本制大経営、したがって、これに伴う資本主義的階級分化が阻まれ」た点を指摘すると共に、それにもかかわらず、農業生産が直接間接に資本の支配下に従属せしめられ、農
野呂栄太郎
御手紙拝見いたしました。 一、編集人の件、なるべくなら他の講座同様岩波氏にしていただいた方、万事好都合と思いますので、極力そうしてもらうよう交渉すべきだと存じます。岩波氏としては本講座は出筆者の顔ぶれから見て出版法違反にでも問われることがあってはというようなことを懸念されるのだと思いますが、そのような懸念はほとんど杞憂でしょうし、他のものが編集名義人となって
野呂栄太郎
拝復 たびたび御手紙賜わりありがたく存じます。その都度御返事申し上ぐべきところ延引仕り何とも申訳ございません。御蔭でいよいよ第一回配本を了したこと喜びと感謝にたえません。 井汲、逸見両兄の方へは督促の手紙を出しておきましたが、なお積極的に促進するや二十五頃上京して両兄に直々会って後日後れさせぬよう協力することにいたしました。 羽仁兄も丁度来られたので至急脱稿
野呂栄太郎
御手紙拝見いろいろと御尽力感謝します。 御申越しの要項は御忘れになってゆかなかったようです。細川氏の原稿は今月中旬までには必ず脱稿して送るとの確答を得ております。玉城氏の方を至急御督促願います。氏のはすでに一端できた原稿について、小生及び羽仁氏から数度に亘って詳細な批判と指示を与えてあり、三月中にでき上る約束で稿料も前渡ししてあるのですから、幕末史の報告がな
野呂栄太郎
御手紙拝見仕りました。いろいろと御尽力を感謝申し上げます。編集会議の模様についてはその都度井汲君から伺っています。 小倉氏の自然科学史に岡氏が協力する点については岡氏の政治的立場(というよりは氏の周囲の政治的傾向)から判断して、私は最初から危虞の念をもっており、羽仁氏や貴下にも多分その意をもらしたように記憶しております。で、もし、自然科学史が殆んど岡氏によっ
野呂栄太郎
その後は講座のことも、四半期報のことも全く放棄の形で何とも申訳ございません。またまた十日ばかり前から盲腸炎を再発致しましたので、また当分絶対安静を余儀なくされてしまいました。講座及び「資本論」の方何卒よろしく御願いします。私担当分の講座原稿は一応の準備ができておりますから臥床中執筆、第六回配本に間に合わすよういたします。 なお帯刀貞代氏(旧姓織本氏)から同封
林不忘
平馬と鶯 林不忘 鶯の宿 麗かな春の日である。 野に山に陽の光が、煙のように漂うのを見るともなしに見ながら、平馬は物思いに沈んで歩いていた。振り返ると、野路の末、雑木林の向うの空に、大小の屋根が夢の町のように浮んで、霞に棚引いているのが見える。平馬の藩である。行手にもまたほかの町が見えていたが、平馬はべつにそこへ行くためにこの春の野の一本道を辿っているわけで
小川未明
年ちゃんの友だちの間で、ハーモニカを吹くことが、はやりました。はじめ、だれか一人がハーモニカを持つと、みんながほしくなって、つぎから、つぎへというふうに、買ったのであります。けれど、みんなは、それを吹き鳴らすことを覚えないうちに、やめてしまったけれど、年ちゃんだけは、べつに教わりもせずに、いろいろの歌を吹けるようになりました。 「学校のことが、そういうふうに
三遊亭円朝
年始まはり 三遊亭円朝 私は昨年の十二月芝愛宕下桜川町へ越しまして、此春は初湯に入りたいと存じ、つい近辺の銭湯にまゐりまして「初湯にも洗ひのこすや臍のあか」といふのと、「をしげなくこぼしてはいる初湯かな」と二句やりました。板の間には余り人が居りませぬで、四五人居りました。此湯は昔風の柘榴口ではないけれども、はいる処が一寸薄暗くなつて居ります。板の間に留桶を置
堀辰雄
ミュンヘンに出づ。既に「人生と小曲」(Leben und Lieder, 1894)「家神奉幣」(Larenopfer, 1896)等の詩集を出版せしも未だ世間の視聽を集めるに足らず。それ等の詩風は概ねスラヴ民謠風のものなり、又ハイネを思はしむるもの少からず。この頃丁抹の作家ヤコブセンの作品を知りて私淑す。
原田義人
一八八三年 七月三日、当時オーストリア帝国領であったプラーク(現在のチェコ首都プラハ)に生まれる。一家はチェコ土着のドイツ語を使うユダヤ系商人であった。父ヘルマン・カフカはシュトラコニッツ在の小村に生まれ、奮闘してプラークで手広く小間物卸商を営むにいたった人物。この父は、生来敏感でこまやかな気質のフランツの感嘆の的であったが、同時に嫌悪と違和感をも抱かずには
寺田寅彦
年賀状 寺田寅彦 友人鵜照君、明けて五十二歳、職業は科学的小説家、持病は胃潰瘍である。 彼は子供の時分から「新年」というものに対する恐怖に似たあるものを懐いていた。新年になると着なれぬ硬直な羽織はかまを着せられて親類縁者を歴訪させられ、そして彼には全く意味の分らない祝詞の文句をくり返し暗誦させられた事も一つの原因であるらしい。そして飲みたくない酒を嘗めさせら
北条民雄
思へばここ数年来、年あらたまる毎に私の生活は苦痛を増すばかりであつた。十七の春、小林多喜二氏の「不在地主」を読んで初めて現実への夢を破られた私は、それ以来愚劣な人生と醜悪な現実を友として過して来た。夢は遠く消え失せ、残つたものは冷い鉄くづや、何の役にも立たない石ころばかりであつた。そしてエントロピーが極大限に達した瞬間を想像しては、にやにやと笑ふのであつた。
宮原晃一郎
幸坊の猫と鶏 宮原晃一郎 一 幸坊のうちは、ゐなかの百姓でしたから、鶏を飼つてゐました。そのうちに、をんどりはもう六年もゐるので、鶏としては、たいへんおぢいさんのはずですが、どういふものか、この鳥にかぎつて、わか/\しくしてゐました。まつ白な羽はいつも生えたてのやうに、つや/\して、とさかは赤いカンナの花のやうにまつ赤で、くちばしや足は、バタのやうに黄いろで