日本の将来
中谷宇吉郎
しばらく日本をはなれていると、いろいろなことを考えるが、結局のところやはり一番気になるのは、日本の将来という問題である。 何も憂国の感情云々というような、大袈裟な話ではないが、誰でも外国にいると、少しは身仕舞などに心を配るようになる。何か不体裁なことがあったときに、日本ならば、「誰々がどういうことをした」という話ですむが、外国にいると、「日本人がこういうこと
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中谷宇吉郎
しばらく日本をはなれていると、いろいろなことを考えるが、結局のところやはり一番気になるのは、日本の将来という問題である。 何も憂国の感情云々というような、大袈裟な話ではないが、誰でも外国にいると、少しは身仕舞などに心を配るようになる。何か不体裁なことがあったときに、日本ならば、「誰々がどういうことをした」という話ですむが、外国にいると、「日本人がこういうこと
三遊亭円朝
日本の小僧 三遊亭円朝 主「定吉や。定「へえお呼びなさいましたか。主「此の手紙を矢部の処へ持つて参れ、只置いて来れば宜いんだよ返事は入らないから、さア使賃に牡丹餅を遣らう。小「有がたう存じます。主「其処で食べるなよ、帰つて来てから食べなさいな。小「へえ、夫でも是を置いて参りますと、栄どんだの文どんが皆食べて終ひます。主「夫では何処か知れない所へ隠して置け。小
小島烏水
日本山岳景の特色 小島烏水 私たちが学生旅行をした時代には、日本の名山と言えば、殆んど火山に限られたように思われていた、富士山にさえ登り得らるれば、あとはみんな、それよりも低く、浅く、小さい山であるから、造作はないぐらいに考えていた、そのころ、今日でいう日本アルプス系の大山嶺で、私が名を知っていたものは、立山御嶽などいう火山の外には、木曾の駒ヶ岳(大部分黒雲
坂口安吾
日本の山と文学 坂口安吾 (一) 山の観念の変移 我々の祖先達は里から里へ通ふために、谷を渉り、峠を越えはしたものの、今日我々が行ふやうな登山を試みる者はなかつた。 支那の画家、文人等には山から山を遍歴し石涛のやうに山中の仙といふやうな生活ぶりの人達が相当居たといふことであるが、我々の祖先達にも山中歴日無しといふやうな支那の詩句が愛好され、山中に庵を結ぶとい
田中貢太郎
私が最初に怪談に筆をつけたのは、大正七年であつた。それは『魚の妖・蟲の怪』と云ふ、中央公論に載せたもので、『岩魚の怪』と『蠅供養』の二つからなつてゐた。 ところで、幸か不幸か、其の怪談の評判がよかつたので、彼方此方から怪談を頼まれるやうになつて、長い間怪談ばかり書いた。それは私が支那の怪談が好きで、晉唐小説六十種、剪燈新話、聊齋志異などと云ふやうな物を手あた
国枝史郎
二十八歳で博士号を得た、不木小酒井光次氏は、素晴らしい秀才といわざるを得ない。その専門は法医学、犯罪物の研究あるは将に当然というべきであろう。最近同氏は探偵小説の創作方面にも野心を抱き、続々新作を発表している。犯罪物の研究は、今や本邦第一流類と真似手のない点からも、珍重すべきものではあるが、その創作に至っては、遺憾乍ら未成品である。「二人の犯人」「通夜の人々
十返肇
周知のように、松本清張・有馬頼義・菊村到・柴田錬三郎ら、いわゆる純文学系の作家が、推理小説に筆をそめだした結果、これまでの専門作家による探偵小説に、ひとつの照明が、たしかに投げられたのであった。探偵小説という、私などの好きな昔なつかしい名称がすたれ、一般に推理小説という言葉が使用されはじめたのが、この現象と時を同じくしているのは、決して偶然ではなかった。いわ
北一輝
一。此ノ改造法案ハ世界大戰終了ノ後、大正八年八月上海ニ於テ起草セル者ナリ。「極祕」ヲ印シ謄寫ニ附シテ未ダ公刊ニ至ラザル時、九年一月發賣頒布ヲ禁ゼラル。書中「何行削除」トアルハ今囘ノ公刊ニ際シ官憲ノ削除シタル所、行數ハ謄寫本ノ行數ナリ。 二。固ヨリ削除セラレタル一行一句ト雖モ日本ノ法律ニ違反セル文字ニ非ルハ論ナシ。恐クハ單ナル行政上ノ目的ニ出デシト信ズ。從テ何
内藤湖南
文化と云ふ語は、近頃流行し、何ものにでも此の二字が附せられると景氣好く見えるかのやうであるが、しかし、一般世人が文化其の物をどれだけ理解して居るか。文化は國民全體の智識、道徳、趣味等を基礎として築き上げられてゐるのであるが、其の基礎たる智識、道徳、趣味が現代の日本に於て、どれだけの程度に於て在るか。政治、經濟等、人生の需要から生ずる者とせらるゝ事相は、すべて
内藤湖南
もう時間がありませぬので、私が御話申したいと考へました事の眞の骨組だけを、二十分ばかりにザツと御話してしまひたいと思ひます。 私の申上げます事は「日本文化とは何ぞや」といふのでありますが、先づ茲に日本文化といふものは現在有るときめて掛ります。而してその日本文化の現状はどんなものであるか、現在有るところの文化といふものは、社會組織もあり、文學藝術といふやうなも
戸坂潤
文化の混乱や思想の混乱が日本で叫ばれ始めたのは、しばらく前からである。日本に於ける科学的社会主義の思潮の生長以来である。日本の思想や文化を混乱と感じた者は、その際自分自身混乱に陷った所の、特色に乏しい既成の思想の持主と文化意識とであった。社会主義思潮の方は決して日本の思想や文化をただの混乱などとは見なかった。そこには新興の希望に富んだ観念の秩序があった。混乱
内藤湖南
私はお話致します前に、お斷はり致して置きたいのは、一體私は日本歴史の專攻者でありませんので、今までお話になつた三人の方のやうに、皆日本のことを專門に研究して居られるのとは一寸別だといふことであります。それでありますからして、今日のお話は前にお話しになつた三人のお方の方が本統のお話で、私のは餘興だと思つて頂き度い(笑聲起る)。自然餘興でありますから、お話の中に
坂口安吾
僕は日本の古代文化に就て殆んど知識を持っていない。ブルーノ・タウトが絶讃する桂離宮も見たことがなく、玉泉も大雅堂も竹田も鉄斎も知らないのである。況んや、秦蔵六だの竹源斎師など名前すら聞いたことがなく、第一、めったに旅行することがないので、祖国のあの町この村も、風俗も、山河も知らないのだ。タウトによれば日本に於ける最も俗悪な都市だという新潟市に僕は生れ、彼の蔑
折口信夫
父君早世の後、辛い境涯が続いた。物豊かに備つた御殿も、段々がらんとした古屋敷になつて行く。其だけに、教養を積むこともなく、そんな中で唯大きくなつたと言ふばかりの常陸の姫君、家柄は限りもなく高かつた。だが、世馴れぬむつゝりした人のよいばかりの女としか育ちやうがなかつた。其うへ、わるいことには、色の抜けるほど白い代りに、鼻がぬうとして居て、其尖が赤かつた。髪の黒
折口信夫
日本文学の発生 折口信夫 何度目かの日本文学の発生を書くことになつた。此には、別に序説のやうなものがあつて、此文章と殆ど同時に発表することになつてゐるから、具体的なことを、落ちついて書き進めても、さし支へはないのだと言ふ、安堵のやうなものがあつて、之を書くことが、今のうちは、愉しい気がする。どうぞ、この心持ちが、いつまでも続いてくれるやうにと考へながら、書き
折口信夫
日本文学の発生 折口信夫 私は、日本文学の発生について、既に屡書いて居る。その都度、幾分違つた方面から、筆をおろしてゐるのだが、どうも、千篇一律になつて居さうなひけ目を感じる。此稿においては、もつと方面を変へて、邑落の形と、その経済の基礎になつて行くものが、文学の上に、幾分でも姿を見せてゐようと言ふ様な方面に、多少目を向けて行きたく考へる。 日本における文学
折口信夫
(一)河内里(土中下。)右、由レ川為レ名。此里之田不レ敷レ草下二苗子一。所二以然一者、住吉大神上坐之時、食二於此村一。爾、従神等、人苅置草解散為レ坐。爾レ時草主大患訴二於大神一、判二云汝田苗者、必雖レ不レ敷レ草、如レ敷レ草生一。故、其村田于レ今不レ敷レ草作二苗代一。(播磨風土記)(二)復有二兄磯城軍一。布二満於磐余邑一。(磯。此云レ志。)賊虜所レ拠、皆是要害
折口信夫
日本文章の発想法の起り 折口信夫 一 古代の文章の特徴と云ふと、誰しも対句・畳句・枕詞・譬喩などを挙げる。私はかういふ順序で話して行きたい。 対句―――畳句 ↓ 譬喩 → 枕詞 ← 序歌 ↑ └──────┐ │ 矚目発想――待想独白――象徴 畳句は不整頓な対句であつて、対句は鮮やかに相等を感ぜさせる畳句である。其起りは神憑きの狂乱時の言語にあることは、他に
谷崎潤一郎
クラフト・エビングによって「マゾヒスト」と名づけられた一種の変態性慾者は、いうまでもなく異性に虐待されることに快感を覚える人々である。従ってそういう男は、――仮りにそれが男であるとして、――女に殺されることを望もうとも、女を殺すことはなさそうに思える。しかしながら、一見奇異ではあるけれども、マゾヒストにして彼の細君または情婦を、殺した実例がないことはない。た
津田左右吉
こんどの支那事変が起ってからたれしも深く感ずることは、支那についての日本人の知識があまりにも足りなさすぎるということであろう。日本人が支那についての研究をあまりにも怠っていたということであろう。支那文字をつかうことがあまりにも好きであり、支那を含む意味で東洋ということを何につけてもいいたがる日本人が、その支那についての知識をあまりにも有たなさすぎることが、こ
折口信夫
日本書と日本紀と 折口信夫 一 紀といふことばの意義 今後、機会のある毎に、釈いて行つて見たいと思ふ、日本書紀と言ふ書物に絡んだ、いろんな疑念の中、第一にほぐしてかゝらねばならぬのは、名義とその用法とである。 一体、此書物の二通りの呼び名「日本紀」・「日本書紀」のどちらが、元からの題号であるか、と言ふ事からして、既に問題であつた。日本紀は、日本書紀の略称とき
寺田寅彦
日本楽器の名称 寺田寅彦 楽器の歴史は非常に古いものである。そして、現在ある国民やある民族に固有であるらしく見えるものでも実際はかなり複雑な因果の網目を伝わって遠い外国の楽器と親族関係になっているものらしい。もっともこれは楽器に限らずあらゆる人間の文化の産物について共通な事であって言語風俗等いずれについても同様であるには相違ないが、原始的な器械的発明としての
牧野信一
(第一日)快晴――私は八時に起床して、いでたちをとゝのへ、首途の乾杯を挙げ、靴を光らせ、そして妻の腕を執り、口笛の、お江戸日本橋――の吹奏に歩調を合せながら、この武者修業のテープを切つた。麗かな朝陽のなかには、もう春の気合ひが感ぜられる。 これから旅へ向はうとする気色ばんだ汽関車、終夜の旅を終へて眠りの庫に入らうとする車達の入り乱れた響きを脚下に感じながら八
長谷川時雨
日本橋あたり 長谷川時雨 その時分、白米の價が、一等米圓に七升一合、三等米七升七合、五等米八升七合。お湯錢が大人二錢か一錢五厘といふと、私は、たいした經濟觀念の鋭い小娘であつたやうであるが、お膳の前へ坐ると、頂きますとお辭儀をするし、お終ひになると、御馳走さまといつたり、さうでもないと、默つて一禮して、お膳を下げてもらうといつた、お行儀はよいが、世の中のこと