枯菊の影
寺田寅彦
少し肺炎の徴候が見えるようだからよく御注意なさい、いずれ今夜もう一遍見に来ますからと云い置いて医者は帰ってしまった。 妻は枕元の火鉢の傍で縫いかけの子供の春着を膝へのせたまま、向うの唐紙の更紗模様をボンヤリ見詰めて何か考えていたが、思い出したように、針を動かし始める。唐縮緬の三つ身の袖には咲き乱れた春の花車が染め出されている。嬢やはと聞くと、さっきから昼寝と
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寺田寅彦
少し肺炎の徴候が見えるようだからよく御注意なさい、いずれ今夜もう一遍見に来ますからと云い置いて医者は帰ってしまった。 妻は枕元の火鉢の傍で縫いかけの子供の春着を膝へのせたまま、向うの唐紙の更紗模様をボンヤリ見詰めて何か考えていたが、思い出したように、針を動かし始める。唐縮緬の三つ身の袖には咲き乱れた春の花車が染め出されている。嬢やはと聞くと、さっきから昼寝と
永井荷風
○ おのれにも飽きた姿や破芭蕉 香以山人の句である。江戸の富豪細木香以が老に至って家を失い木更津にかくれすんだ時の句である。辞世の作だとも言伝えられている。 ある日わたくしは台処の流しで一人米をとぎながら、ふと半あけてあった窓の外を見た時、破垣の上に隣の庭の無花果が枯葉をつけた枝をさし伸しているのを見て、何というきたならしい枯葉だろう。と思った。枯葉の中にあ
永井荷風
○ おのれにも飽きた姿や破芭蕉 香以山人の句である。江戸の富豪細木香以が老に至つて家を失ひ木更津にかくれすんだ時の句である。辞世の作だとも言伝へられてゐる。 或日わたくしは台処の流しで一人米をとぎながら、ふと半あけてあつた窓の外を見た時、破垣の上に隣の庭の無花果が枯葉をつけた枝をさし伸してゐるのを見て、何といふきたならしい枯葉だらう。と思つた。枯葉の中にあん
北条民雄
心の中に色々な苦しいことや悩しいことが生じた場合、人は誰でもその苦しみや懊悩を他人に打明け、理解されたいといふ激しい慾望を覚えるのではないだらうか? そして内心の苦しみが激しければ激しいほど、深ければ深いほど、その慾望はひとしほ熾烈なものとなり、時としてはもはや自分の気持は絶対に他人に伝へることは不可能だと思はれ、そのために苛立ち焦燥し、遂には眼に見える樹木
仲村渠
初夏ともなれば百円ぐらゐのパナマ帽がいたについて見ばえのある風格をみよちと遊びに来給へと名刺をくれるのだ名刺といへばかれもまた一流の名士にして普く八方に疎通してあますところは無いのであるさつそく鄭重な御供物をおくり盛大な葬儀に列してゐるを見る門札をうつて居を構へてゐるその収入の道その収入のほどは 否 税務署の吏員氏さへ難渋するのだから 今 これを窺ふべくもな
国枝史郎
染吉の朱盆 国枝史郎 一 ぴかり! 剣光! ワッという悲鳴! 少し間を置いてパチンと鍔音。空には満月、地には霜。 切り仆したのは一人の武士、黒の紋付、着流し姿、黒頭巾で顔を包んでいる。お誂え通りの辻切仕立、懐中手をして反身になり、人なんかァ殺しゃァしませんよ……といったように悠然と下駄の歯音を、カラーンカラン! 立てて向うへ歩いて行く。 切り仆されたのは手代
内藤湖南
染織に關する文獻の研究 内藤湖南 織物の發達は、世界の古い國々に於ても、支那は其の最も勝れた國であつて、殊に蠶絲の發達が古代からあつて、之を西洋の方にも輸出したのは前漢頃からでもあらうかと思はれ、日本に輸出されたのは後漢頃からではあるまいかと思はれる。兎も角絹の生産地として大變古い歴史を持つて居るのである。其の文獻に現はれたのも隨分古いので、先秦の古書と謂は
富田常雄
「日本人の柔道なんて、あれは小人の蹴合いみたいなものさ。ほんとに人がぽんぽん投げられるものか。まして、われわれアメリカ人のこの堂々たる重いからだが、ちッぽけな腕で投げられるはずがないよ。」 「ところが、モンクス。あの柔道の教師トミタの道場には、アメリカ人の弟子も相当あるぜ。」 「ふん、そりゃものずきだな。一つおれの鉄腕でのばしてやろうか。いったい日本人の柔道
長谷川時雨
ものの真相はなかなか小さな虫の生活でさえ究められるものではない。人間と人間との交渉など、どうして満足にそのすべてを見尽せよう。到底及びもつかないことだ。 微妙な心の動きは、わが心の姿さえ、動揺のしやすくて、信実は書きにくいのに、今日の問題の女史をどうして書けよう。ほんの、わたしが知っている彼女の一小部分を――それとて、日常傍らにある人の、片っぽの目が一分間見
国枝史郎
柳営秘録かつえ蔵 国枝史郎 1 天保元年正月五日、場所は浅草、日は午後、人の出盛る時刻であった。大道手品師の鬼小僧、傴僂で片眼で無類の醜男、一見すると五十歳ぐらい、その実年は二十歳なのであった。 「浅草名物鬼小僧の手品、さあさあ遠慮なく見て行ってくれ。口を開いて見るは大馬鹿者、ゲラゲラ笑うはなお間抜け、渋面つくるは厭な奴、ちんと穏しく見る人にはこっちから褒美
北大路魯山人
柳さんの書かれた手紙の字、すなわち、その書というものは、遺憾ながら私の見たところによると、いわゆる氏の理想とされる民芸の感覚からは遠く離れたものである――と断ぜざるを得ない。 民芸の美はなんといっても無邪気で、素直であるというところにある。有心の影を宿してはいけない。作意の濁りがあってはならない。柳さんの書、果して無邪気であるだろうか、素直であるだろうか、ま
木村荘八
角力の頃になると両国界隈がトピックになるやうである。両国界隈の風致景物の中でも柳橋などは特に角力の頃でなくとも話題になつたものだつた。今では反対に角力の国技館は周知されてゐても、柳橋なんぞの存在は年中殆ど忘れられてゐることの方が多いかも知れない。 柳橋は今も昔の通り神田川筋の「……東の大川口にかゝるを柳橋と号く。柳原堤の末にある故に名とすとぞ」、かう「江戸名
田中貢太郎
柳毅伝 田中貢太郎 唐の高宗の時に柳毅という書生があった。文官試験を受けたが合格しなかったので、故郷の呉に帰るつもりで川の畔まで帰ってきたが、その川の北岸に同郷の者が住んでいた。毅はまず知人の許へ立ち寄り、やがて別れて六七里も行ったところで、路傍におりていた鳥の群がばたばたと立って飛んだので、馬がその羽音に驚いて左へそれて走った。そして六七里も矢のように行っ
宮沢賢治
柳沢 宮沢賢治 林は夜の空気の底のすさまじい藻の群落だ。みんなだまって急いでゐる。早く通り抜けようとしてゐる。 俄に空がはっきり開け星がいっぱい耀めき出した。たゞその空のところどころ中風にでもかかったらしく変に淀んで暗いのは幾片か雲が浮んでゐるのにちがひない。 その静かな微光の下から烈しく犬が啼き出した。 けれども家の前を通るときは犬は裏手の方へ逃げて微かに
宮本百合子
その柵は必要か 宮本百合子 こんにち、「勤労者文学」の問題が、とくべつの関心のもとにとりあげられるということは、全体として民主主義文学運動が、一つの新しい発展の段階にふみだして来ていることを語ると思う。この課題について、わたしは自分として一定の見解を主張するというよりは、むしろ、みんなの手近にある『新日本文学』『文学サークル』『勤労者文学』などを見直して、そ
土田耕平
私の村は「柿の木の村」でした。家といふ家のまはりには、大きな小さな柿の木が、立ち並んでゐました。 夏は、村ぢゆうが深い青葉につゝまれ、秋はあざやかな紅葉に染りました。紅葉がちつてうつくしく色づいた実が、玉をつづつてゐるのを見るのは、どんなにたのしかつたでせう。 私の家の庭には、大きな柿の木が幾本もありましたので、家内だけで食べつくすわけにはいきません。山浦の
林芙美子
柿の実 林芙美子 隣家には子供が七人もあつた。越して来た当座は、私のうちの裏庭へ、枯れた草酸漿が何時も一ツ二ツ落ちてゐて、檜の垣根の間から、その隣家の子供達が、各々くちの中で酸漿をぎゆうぎゆう鳴らしながら遊びに来た。 風のよく吹く秋で、雲脚が早くて毎日よく落葉がお互ひの庭に溜つていつた。 「おばさまおちごとですか?」 下から二番目の淵子ちやんと云ふ西洋人形の
壺井栄
フミエと洋一の家には、裏に大きな柿の木が一本あります。それは子どもの一かかえもあるほどりっぱな木でした。小さい木は幾本もありましたが、とびぬけて大きいのは一本だけです。柿のあたり年は、普通一年おきだということですが、この柿は毎年なるのでおじいさんが生きている時分にはじまんのたねでした。こんな柿は村に二本とないからです。その実の大きくてうまいことといったら、三
海野十三
柿色の紙風船 海野十三 「おや、ここに寝ていた患者さんは?」 と林檎のように血色のいい看護婦が叫んだ。彼女の突っ立っている前には、一つの空ッぽの寝台があった。 「ねえ、あんた。知らない?」 彼女は、手近に居た青ン膨れの看護婦に訊いた。 「あーら、あたし知らないわよ」 といって編物の手を停めると、グシャグシャにシーツの乱れているその寝台の上を見た。 「あーら、
宮本百合子
栄蔵の死 宮本百合子 (一) 朝から、おぼつかない日差しがドンヨリ障子にまどろんで居る様な日である。 何でも、彼んでも、灰色に見える様に陰気な、哀れっぽい部屋の中にお君は、たった独りぽっちで寝て居る。 白粉と安油の臭が、プーンとする薄い夜着に、持てあますほど、けったるい体をくるんで、寒そうに出した指先に反古を巻いて、小鼻から生え際のあたりをこすったり、平手で
田畑修一郎
栄螺 田畑修一郎 私はもう何年か夏の海に遠ざかっている。海で泳ぐ快味は忘れはしないが段々縁がなくなるようだ。私は日本海沿岸に近い所に生れたので、幼い時から夏になると殆ど毎日のように海へ入った。 私の生れた地方は中国地方の花崗岩の地質のためか、海岸はいわゆる白砂で、水もきれいだ。東京で羽田の潮干狩に行って汚いのにこりた。そのためもあるが、東京に住みついてから十
上村松園
栖鳳先生を憶う 上村松園 さあ明治二十七、八年頃ですか、楳嶺先生や竹堂さんや吉堂さんなんどの方々がまだ生きていられ、栖鳳先生も三十歳になるやならずでその時分の絵の展覧会を今と比べて見ると、なんとのうのんびりとしていたようどす。その時分私が二十二歳で桃割髪に鹿の子を懸けて、ある人の手引で栖鳳先生に教えて頂くようになりましたのどす。その時分に何だかの寄付画であっ
長塚節
栗毛虫 長塚節 風邪でも引いたかといふ鹽梅に頭がはつきりしないので一旦目は醒めたがまた寢込んでしまつた、恐らく眠りも不足であつたのらしい、みんなはもう野らへ出たのであらう家の内はまことにひツそりして居る、 霖雨つゞきの空は依然として曇つて居るが、いつもよりは稍明るいのであるから一日は降らないかも知れぬと思ひながらぼんやりと眺めて居つた、 「サブリだもの屹度後
岡本綺堂
栗の花 岡本綺堂 栗の花、柿の花、日本でも初夏の景物にはかぞえられていますが、俳味に乏しい我々は、栗も柿もすべて秋の梢にのみ眼をつけて、夏のさびしい花にはあまり多くの注意を払っていませんでした。秋の木の実を見るまでは、それらは殆ど雑木に等しいもののように見なしていましたが、その軽蔑の眼は欧州大陸へ渡ってから余ほど変って来ました。この頃の私は決して栗の木を軽蔑