Vol. 2May 2026

图书

公共领域世界知识图书馆

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漁師の娘

徳冨蘆花

常陸の国霞が浦の南に、浮島と云って、周囲三里の細長い島がある。 二百あまりの家と云う家はずらり西側に並んで、向う岸との間は先ず隅田川位、おおいと呼べば応と答えて渡守が舟を出す位だが、東側は唯もう山と畠で持切って、それから向うへは波の上一里半、麻生天王崎の大松も、女扇の絵に画く子日の松位にしか見えない。 此の浮島の東北の隅の葭蘆茫々と茂った真中に、たった一軒、

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漁師とそのおかみさんの話

グリムヤーコプ・ルートヴィッヒ・カール

むかしむかし、ひとりの漁師とそのおかみさんがおりました。ふたりは、海のすぐそばの小屋に住んでいました。漁師はまい日魚つりにでかけました。あけてもくれても、魚つりばかりしていました。 あるとき、漁師はつりざおのそばにすわって、きらきらかがやく水のなかをじっとのぞきこんでいました。漁師は、いつまでもすわったきりでした。 と、とつぜん、つり糸が水底ふかくぐんぐんし

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漁村の婦人の生活

宮本百合子

漁村の婦人の生活 宮本百合子 随分昔のことであるけれども、房州の白浜へ行って海女のひとたちが海へ潜って働くのや天草とりに働く姿を見たことがあった。 あの辺の海は濤がきつく高くうちよせて巖にぶつかってとび散る飛沫を身に浴びながら歌をうたうと、その声は濤の轟きに消されて自分の耳にさえよくきこえない。雄大な外洋に向って野島ケ崎の燈台が高く立っている下の浜辺にところ

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漂著石神論計画

折口信夫

漂著石神論計画 折口信夫 1 柳田先生の民俗学的研究上、一大体系をなす石信仰。今新な回顧の時に達した。2 諸国海岸に、古代より神像石の存在した事実。3 神像石の種類。 a 定期或は、臨時に出現するもの。         ┌イ、海岸。 b 常在するもの┤ロ、海岸から稍隔つた地。         └ハ、海中の島又は、岩礁。4 神像石の様態。 a 唯の石であるもの

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演出

野上豊一郎

演出 野上豊一郎 能の芸術価値は、ひとへにそれが舞台芸術としての存在の上に係つてゐるものであるから、演出が殆んど能の全価値であるといつてもよい。 それほど重大な演出の問題が、従来能の研究者の間に於いて等閑視されて来たのは、能の研究といへば多くは文学的に能の台本(謡曲)の訓詁註釈に没頭するとか、原典批判を試みるとか、或ひは、歴史的に能の発生・発展に関する史実の

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演出について

岸田国士

演出について 岸田國士 以前は単に「舞台監督」と呼ばれてゐた者が、今日では「演出者」といふ名称を与へられ、その下に、更に「舞台監督」なるものや、「演出助手」なるものが従属するやうなシステムを、少くとも新劇団体の間で採用してゐるのは、多分、築地小劇場あたりの「独逸流演出法」から範を取つたものだと思はれるが、近代に於ける演劇革命の一特色が、舞台労役の組織化に在つ

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演出者として

岸田国士

演出者として 岸田國士 芸能祭の為の臨時公演として、特に内村直也君の書卸ろした戯曲「歯車」を幹事会の指名によつて私が演出することになつたのだが、私は先づ、この戯曲の主題と形式について研究した。表題の歯車は都会と農村との相関性を象徴すると同時に、社会の有機的な活動単位に於ける「個人」の在り方について一つの暗示を含むものと解釈した。 この作品はかういふ主題を率直

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演出者として

岸田国士

近代劇の古典といわれるゴーリキイの「どん底」を文学座がそのレパートリーのなかに入れたことは、そんなに驚くには当らない。 しかし、私が演出を引受けるについては、自分でもその柄でないような気がしなくもなかつた。 第一に、私はロシア文学について勉強が足りず、原作も原語で読めない弱味は、戯曲演出の場合はまず致命的といつていいからである。 それにも拘わらず、私は、少々

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『演劇』あとがき

岸田国士

本書を編むにあたって、私は、「まえがき」に述べたような精神と内容を盛るために、特にその題目と執筆者の人選に意をくばった。 一、どんな芝居がよい芝居か この問いに答える最も適当な人として、私は、京都大学教授英文学者にして、演劇学者として私の長年にわたる演劇活動を通じての畏友、山本修二君をすぐ頭に浮べた。私の希望はかなえられた。 一、演劇と社会生活 これは、現代

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演劇一般講話

岸田国士

演劇一般講話 岸田國士 演劇の芸術的純化 演劇は最も低級な芸術であるといふ言葉には、一面の真理があります。この言葉は――といふよりも此の事実は、近代の教養ある人士を劇場から遠ざけた。「芝居には行きますか――いゝえ――さう云ふわたしも行きません」――このマラルメの言葉は、殆ど、芸術を尊ぶものより送られた演劇への絶交状であります。 演劇とは何んぞやといふやうな議

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演劇への入口

岸田国士

演劇について語るということは、演劇のある部分について語るということではない。 演劇がいろいろの要素から成っていることはたれにでもわかるが、それらの要素がどんな関係において組み合わされているか、ということは、専門の道にはいってみなければ容易にわからない。 演劇は総合芸術なりという説も、一応は成り立つけれども、文学、美術、音楽というような各種の芸術が、ただ、ある

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「演劇」創刊に当たつて

岸田国士

現代の演劇が純粋に健全に伸び育つためには、まづ、文学芸術の広い領域とのもつと緊密な接触を計り、それぞれの分野の活溌な協力を求めることが必要があるといふ見地に立つて、われわれは、一応、近い周囲に呼びかけ、「雲の会」といふ団体を結成した。会員はそれぞれ、小説家、劇作家、詩人、批評家、美術家、音楽家、舞台及び映画の演出家、俳優などであるが、また同時に、めいめいは新

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演劇アカデミイの問題 国立俳優学校の提唱

岸田国士

一 演劇と映画とはどんな関係にあるか? これを理論的にでなく、実際的に、私は考へてみる。西洋では、演劇が先に生れ育ち、映画は、そこから養分と材料を仕入れたのである。日本では、在来の演劇が、新しい映画に何ものを提供したか? なにも提供してゐないと云つていゝ、若干の橋渡しにしたかも知れぬが、それが却て、今日、日本映画の健全な発達を妨げてゐるのである。といふことは

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演劇の大衆性

岸田国士

演劇の大衆性 岸田國士 文学に於ける大衆性といふ問題が云々される今日、私は私で、一つの意見をもつてゐないでもないが、直接その問題に対する興味からでなく、いはば現代に於けるわが演劇壇の危機に直面して、その道の人達が誰でも考へてゐる空漠とした打開策の上に、私一個の理論を打ち樹ててみようと思ふのである。 そこで先づ、「大衆性」といふ言葉の意味と、その価値について云

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「演劇」巻頭言

岸田国士

「演劇」巻頭言 岸田國士 今日演劇について語らうと思へば、勢ひ日本文化の現在のすがたについて考へてみないわけにいかない。 かつてわが国の演劇の革新運動が、或は単なる「芸術運動」であつたり、或は矯激な「政治運動」の一部であつたりした時代に、これでいゝのだらうかといふ反省は誰の心をも安らかならしめなかつたのである。いはゆる「新劇」の運命は、それが一国一時代の要求

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演劇当面の問題

岸田国士

演劇当面の問題 岸田國士 戯曲不振の理由 「戯曲家は生れながら戯曲家である」といふやうなことも云はれるが、しかしまた、戯曲家が戯曲家たる動機は、小説家が小説家たり、詩人が詩人たる動機と決して異つたものであるとは云へないのであつて、少くとも今日までの歴史を通じてみれば、多くの例が、その点について興味のある事実を語つてゐるのである。 つまり、一人の優れた戯曲家は

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演劇と政治

岸田国士

「演劇と政治」といふ題目を与へられたが、私は「演劇」について語り得るほど「政治」について語ることはできない。自然、この一文は、演劇と政治との関係を、「政治」の側からでなく、「演劇」の立場から述べることになると思ふ。 しかし、「政治」なるものの概念が、近頃では少しづつ「わが国のかくあるべき政治」の概念に引戻されて来たやうであるし、さうなれば、政治技術の面ではと

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わが演劇文化の水準

岸田国士

わが演劇文化の水準 岸田國士 アカデミイなき悲哀 現代日本の各種文化部門を通じて、最も混沌たる状態を示してゐるのは、人々によつて多少見るところも違ふであらうが、恐らく、明治維新の一転機にも拘らず、かの封建的伝統を最も執拗に、かつ濃厚に継承し来たつて、これに代るべき新時代の要求を未だ明確に反映し得ない、ある若干の部門に限られてゐるやうである。 これは、要するに

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演劇より文学を排除すべきか

岸田国士

かういふ標題で、最近のヌウヴェル・リテレエルは、リュシアン・デカアヴの興味ある調査を掲げてゐる。別に結論らしい結論もないから、面白い「事実」だけを拾つてみる。 モオリス・バレスは一八八四年、「墨痕」といふ文芸雑誌を出したが、その創刊号に次の如き宣言を書いた。 「この雑誌は文芸雑誌であるから、滅多に演劇に関する記事は載せないつもりだ」 十年後、彼は、「議会の一

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演劇新潮と築地小劇場

岸田国士

演劇新潮と築地小劇場 岸田國士 僕は、此の一年間、色々な事情で、あまり芝居を観にも行かず、月々発表される脚本も割合に読んでゐないから、劇壇全般に亘る感想といふやうなものは勿論書けない。 殊に旧劇や新派劇に対しては、能やオペラに対すると同様、殆ど批判的な眼を向けたことはない。もう少し生活に落ちつきができたら、自分らの国で、自分らの仕事が、今どういふ位置と関係に

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演劇本質論の整理

岸田国士

演劇本質論の整理 岸田國士 一、弁明 本誌(新潮)八月号に発表された岩田豊雄氏の文章「演劇本質論の検討」を読んで、僕はいろいろのことを感じた。僕自身に関することが、寧ろ厚意的に書かれてゐるものを、穏健妥当などと云つたらそれこそ可笑しなことになるが、率直に云つて、僕は、演劇的同志たる岩田氏のこの一文に対し、敢て弁明を加へたい慾望を禁じ得ないのである。 それは第

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演劇の様式――総論

岸田国士

「演劇」の範囲をどこまでひろげるかという問題は、けつきよく、「演劇」の定義次第であるが、また逆に、「演劇」に一つの定義を与えるとすれば、やはり、「演劇」の範囲をまず決めてかからなければならぬ。 われわれが現在、「演劇」と呼んでいる舞台芸術は、狭い意味では、文学作品としての戯曲の上演を指す。これはもう論議の余地はあるまい。しかし、「戯曲の上演」といつても、そこ

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演劇・法律・文化

岸田国士

演劇・法律・文化 岸田國士 芸術家擁護の現行法 「芸術」と「法律」とはそんなに縁の遠いものではないといふことを、私は近頃いろいろな機会に感じるのであるが、この両者の接近が、どうかすると、一国の精神文化の水準を示してゐるのではないかとさへ思はれることがある。 これは決して、芸術家にも法律の知識が必要であるとか、法律家も芸術に対するひと通りの鑑賞眼を具へてゐても

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演劇漫話

岸田国士

演劇漫話 岸田國士 一、新劇と旧劇 現今、芝居好きと称する人のうちで、旧劇はつまらないと云つて見に行かない人もあるでせう。しかし、それは極少数の「新しがり」に限られてゐると云つてよろしい。之に反して、新劇は見るに堪へないと公言して憚らない人のうちには、相当、見識のある芸術愛好者が、可なり多くあることは事実です。 旧劇は一概につまらないと云ふ側の人々は、旧劇に

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