絶望
徳田秋声
絶望 徳田秋聲 『オイ/\何處へ行くんだよ。』 とお大と云ふ裏町のお師匠さんが、柳町の或寄席の前の汚い床屋から往來へ聲をかける。 聲をかけられたのは、三人連の女である。孰も縞か無地かの吾妻に、紺か澁蛇の目かの傘を翳して、飾し込んでゐるが、聲には氣もつかず、何やら笑ひさゞめきながら通過ぎやうとする。 『オイ/\、素通は不可いよ。』とお大は一段聲を張あげて憤れつ
公共领域世界知识图书馆
徳田秋声
絶望 徳田秋聲 『オイ/\何處へ行くんだよ。』 とお大と云ふ裏町のお師匠さんが、柳町の或寄席の前の汚い床屋から往來へ聲をかける。 聲をかけられたのは、三人連の女である。孰も縞か無地かの吾妻に、紺か澁蛇の目かの傘を翳して、飾し込んでゐるが、聲には氣もつかず、何やら笑ひさゞめきながら通過ぎやうとする。 『オイ/\、素通は不可いよ。』とお大は一段聲を張あげて憤れつ
萩原朔太郎
魚のやうに空氣をもとめて、 よつぱらつて町をあるいてゐる私の足です、 東京市中の掘割から浮びあがるところの足です、 さびしき足、 さびしき足、 よろよろと道に倒れる人足の足、 それよりももつと甚だしくよごれた絶望の足、 あらゆるものをうしなひ、 あらゆる幸福のまぼろしをたづねて、 東京市中を徘徊するよひどれの足、 よごれはてたる病氣の足、 さびしい人格の足、
豊島与志雄
絶縁体 豊島与志雄 一 市木さんといえば、近所の人たちはたいてい知っていた。それも、近所づきあいをするとか、気軽に話しかけるとか、いうのではなかった。また、市木さんが世間的に有名だからでもなかった。往来で出逢って、会釈し合うこともなかった。だが、市木さんという名前がもちだされると、人々の間に、微笑めいた眼色や、好奇らしい眼色が、自然にかもし出された。というの
高浜虚子
豫て手紙で言つて來て居つた春三郎の兄の佐治文太郎の上京が事實となつて現はれて來た。上野の停車場に文太郎を迎へに行つた春三郎は自分の兄が斯く迄に田舍者だとは思はなかつた。古風な綿ネルのシャツを著て大きな鞄を重さうに提げて人込みの中をうろ/\としてゐた。それから漸く春三郎を見つけて、 「おゝ春三郎か」と言つた人の善ささうな顏には嬉しさが包み切れなかつた。 「私持
中谷宇吉郎
先生は書かれるものには、「とも考えられる」とか、「かも知れない」というような表現を始終用いておられるが、話をされる時には、特に少数の集りの場合には少し熱がはいってくると、随分はっきりと物をいわれたものであった。 僕はこの頃になって、科学者は総ての問題に口を入れて、決して恥しくないという自信を得たよ。この頃ネーチュアに、scientist という言葉がいけない
坂口安吾
続堕落論 坂口安吾 敗戦後国民の道義頽廃せりというのだが、然らば戦前の「健全」なる道義に復することが望ましきことなりや、賀すべきことなりや、私は最も然らずと思う。 私の生れ育った新潟市は石油の産地であり、したがって石油成金の産地でもあるが、私が小学校のころ、中野貫一という成金の一人が産をなして後も大いに倹約であり、停車場から人力車に乗ると値がなにがしか高いの
坂口安吾
続戦争と一人の女 坂口安吾 カマキリ親爺は私のことを奥さんと呼んだり姐さんと呼んだりした。デブ親爺は奥さんと呼んだ。だからデブが好きであつた。カマキリが姐さんと私をよぶとき私は気がつかないふうに平気な顔をしてゐたが、今にひどい目にあはしてやると覚悟をきめてゐたのである。 カマキリもデブも六十ぐらゐであつた。カマキリは町工場の親爺でデブは井戸屋であつた。私達は
坂本竜馬
愈御安全之由、奉レ賀入候。然バ銭之議御申越被レ下候得共、此節一向ニ銭切ニ而困入申候。此間之中ニ田舎より登候ハバ、其節差上可レ申候。 (不明)坂本龍馬 五月廿五日 清井権二郎殿(不明) ●図書カード
坂本竜馬
先便御こしの御文御哥など、甚おもしろく拝見仕候。私事ハ急用これあり、今日江戸へ参り申候間、其御被レ知かた/″\先日の御文御哥さしあげ申候。 ○先日大和国ニてすこしゆくさのよふなる事これあり。其中に池蔵太、吉村虎太郎、平井のあいだがらの池田のをとをと、水通のをさとのぼふずなど、先日皆うちまけ候よし。 これらハみな/\しよふがわるいニつき、京よりうつてを諸藩へお
坂本竜馬
龍馬 謹白黒龍丸の船将云の議論もて、其御船を軍艦となし、大炮を積、数年交代しつゝ、且ハ神戸をも守らむといふ。 軍艦といはゞ江戸の外の物ならぬ心より、 右の論に決せむ。九月拾五日、故に左の愁願をなせり。 ●図書カード
坂本竜馬
其後ハ御物遠奉レ存候。 作日頃より御風気ニ御引籠のよし御大事可レ被レ成、奉レ存候。 然ニ拙儀御国の無二余儀一方ニ文通し申度、独兄ならでハ不レ叶事拝顔仕度奉レ存候。 彼海軍士官被二仰付一候者も、大坂表ニて被二仰付一候時ハ拙者、急下坂仕らねバ彼者とよる所を不レ知と申事ニ相成申候。 早御聞合可レ被レ下候。頓首。 廿二日直陰池蔵太様濤次郎 ●図書カード
坂本竜馬
其後ハ御遠敷奉レ存候 此頃定而御きづかい被レ遊候ハんと奉レ存候。然ニ私共英太郎共皆ぶじニ出勢仕候。 何卒今年中御まち被レ成候得バ、おもしろきはなし御聞ニ入候。当時ハさつまのやしきおり申候。 このころ将軍家大坂ニ参り、長州を征し候儀もあり候へども、大軍唯むへきに日をついやし候のみニて、何の事もあり不レ申候。 池蔵ハ此頃八度の戦段軍功もこれあり、此頃長州ニては遊
坂本竜馬
西町蔵母ハいかゞ、定きづかいなるべし。然レバ蔵ハ此頃相不レ変一軍(四百人計)の参謀となり、戦場ニも鞭をとり、馬上ニて見廻りなど仕候。事なき時ハ自ら好て軍艦ニ乗組候て稽古致し候。勢盛なる事ニて候。先日もはからずあい申候て色大はなし致し候。むかし西町のさハぎなどたがいニ申、実ニおもしろし。かの方へ御申し。 かしこ。 ●図書カード
坂本竜馬
幕の為に論ずれバ、近日要路に内乱起り、相疑相そしり益不レ可レ通と言勢となるべし。 当時実に歎ずべきハ伏水にとりのがしし浪人の取落セし書面を以て、朝廷にもぢいて論にかけ、ついに会津人陽明家をなじり此郷御立腹など在レ之候よし、したしく聞申たり。 是幕中内乱を生じ申べき根本たるべし。 当時ニ在りて幕府をうらみ奉るもの在れバ、天幸の反間と申べし。(彼浪人「其人」)ハ
坂本竜馬
此度のお咄しお、くハ敷成可レ被レ遣候。愚兄の内 此佐井ハ北奉行人町杉山佐井虎次郎幸助方ニて御尋可レ被レ遣、此杉山にも私の咄御 なし可レ被レ遣候。佐井よりハ曽而手紙参りたり、いまだ返書不レ出候得バ、此度の事くハしく御咄し被レ遣、其上彼手紙の礼も御申可レ被レ遣候。 龍馬が乳母此うバわ私しお、きづかいおり候ものゆへ、何卒此ぶじなる事を御直ニ御申、愚兄が家(へ)御出
坂本竜馬
右の本を御こし可レ被レ遣候。太刀のゑがかいてあるナリ。 やどにてかりてあるたんすのひきだしの下タのはしのひきだしに、白ラさやのたんとふがある。 御こし可レ被レ遣候。 才谷梅太郎謹付二貴价一申候。 ●図書カード
坂本竜馬
私事ハ初より少々論がことなり候故、相かハらず自身の見込所を致し候所、皆どふ致し候ても事ができぬゆへ、初に私しおわるくいゝ、私しお死なそふとばかり致し候ものも、此頃ハ皆何となく恋したいてそふだん致し候よふニ相成、実にうれ敷存候。 私ハ近日おふゝニ軍致し、将軍家を地下ニ致候事ができず候時ハ、もう外国ニ遊び候事を思ひ立候。二国三国ハそふだんニおふじ候得へども、何分
坂本竜馬
此つば肥前より送りくれ候ものにて、余程品よろしくと段々申もの御座候。江戸などにてハ古道具やなどほしがり申候なり。何卒御養子のこしニ止り候よふ、希入候。 此頃、外国のおしろいと申もの御座候。 近々の内、さしあげ申候間、したゝか御ぬり被レ成たく存候。御まちなさるべく候。かしこ。 廿四日龍馬春猪御前 ●図書カード
坂本竜馬
さし出し候使の者ハ小曽根英四郎の親類入木や重平番頭の者、与平と申もの、何か此者ニ御尋被レ成、又用向御申聞被レ遣度奉レ願候。 十六日頓首。龍馬 森 様 井藤様 井藤助太夫様 早龍馬其後ハ益御勇壮 龍馬左右 八月十六日 森玄道様 井藤助太夫様 ●図書カード
坂本竜馬
私の志し実ニ十二ぶんもはこび申候間、則大兄ニも兼而御同意の事故、天下の大幸と御よろこび可レ被レ遣候。 何夕方までの内、御咄し仕候。又商会のものも御引合仕候。 四日草々頓首。 九三老兄 御直披龍 ●図書カード
坂本竜馬
舌代一、大極丸の水夫、人を殺し候由。此事ハ西郷より申来リ候ニ付、小弟宜しく引合致し置候。此度毛利、望月が下坂致し候ニ付、諸事頼置候。何のわけも無事なるべしと奉レ存候。 一、昨日ハ御書拝見又別紙ニも大坂の町ぶれなど――より送りくれ候ニ付、其御地の御もよふ能わかり申候。 一、大極丸此頃荷物積込などもすみ候よし。然レバ彼西村源吉方へ頼置候フラフ御受取被レ成、御引替
坂本竜馬
先日も愚書さし出申候。御返書いまだ達し不レ申、然に彼寺田屋のよくめの金於私でふつごふに候間、元と金百両が出来ねば先日さし出候書の如く、去年よりの利金十八両だけなりとも、此使へ御渡し奉レ願候。せめて利なりとも渡しことわり不レ置ては、何分ふつがふに候。御ゆづう可レ被レ下候。其為人さし出申候。但使の名大浜三郎平がさしつかへ居候所へ参り候間、此者へ金御渡可レ被レ下候
辻村伊助
蒼茫として暮れてゆくアルプスの群山を仰げば、あの氷の上を羚羊のごとく跳び廻った日が夢のように遠い。 日に露された蛍光石の闇に光を放つように、身に沁みた歓びを胸底に秘して、眼を閉じて回顧に耽った幾年が、今、こうして染み染みと山に対えば、あたかも果敢ない幻影であったかの如く思われる。僅かに放射する有るか無きかの光、それを以て如何にして太陽の光輝を想い得よう、日に
小島烏水
故辻村伊助の「スウィス日記」と「続スウィス日記」とを、一冊に合刊して、世に出すことになった。「スウィス日記」の方は、日本山岳会設立以来、第十周年に、雑誌『山岳』の記念号を出したとき(大正四年九月、第十年第一号)から掲載し始め、通計四号分に亙って分載されたのを、単行本に纏めて、大正十一年に、紅玉堂書店(横山光太郎氏)から出版したのであったが、此本は、ジュネーヴ