織田信長
坂口安吾
死のふは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの――信長の好きな小唄―― 立入左京亮が綸旨二通と女房奉書をたずさえて信長をたずねてきたとき、信長は鷹狩に出ていた。 朝廷からの使者は案内役の磯貝新右衛門久次と使者の立入とたった二人だけ、表向きの名目は熱田神宮参拝というのである。 信長へ綸旨と女房奉書をだしては、と立入左京亮から話を持ちかけられた万里小
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坂口安吾
死のふは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの――信長の好きな小唄―― 立入左京亮が綸旨二通と女房奉書をたずさえて信長をたずねてきたとき、信長は鷹狩に出ていた。 朝廷からの使者は案内役の磯貝新右衛門久次と使者の立入とたった二人だけ、表向きの名目は熱田神宮参拝というのである。 信長へ綸旨と女房奉書をだしては、と立入左京亮から話を持ちかけられた万里小
太宰治
織田君の死 太宰治 織田君は死ぬ気でいたのである。私は織田君の短篇小説を二つ通読した事があるきりで、また、逢ったのも、二度、それもつい一箇月ほど前に、はじめて逢ったばかりで、かくべつ深い附合いがあったわけではない。 しかし、織田君の哀しさを、私はたいていの人よりも、はるかに深く感知していたつもりであった。 はじめて彼と銀座で逢い、「なんてまあ哀しい男だろう」
北大路魯山人
私の独断によると、織部という陶器は、古田織部という茶人の意匠及び発明に始まるものではない。 古田織部より以前に、織部という陶器は産れておったのだ。もっとも、その当時は織部という名称はなかったろうから、なんとか外の名を言っていたのであろう。今日織部と言いならすところの陶器は、利休時代に有名であった古田織部が、やかましく好んだところから、遂に織部という名を成した
牧野信一
春来頻リニ到ル宋家の東 袖ヲ垂レ懐ヲ開キテ好風ヲ待ツ 艪を漕ぐのには川底が浅すぎる、棹をさすのには流れが速すぎる――そのやうな川を渡るために、岸から岸へ綱を引き、乗手は綱を手繰つて舟をすすめる、これを繰舟の渡しと称ふ。 その娘の家の裏門は川ふちに開いて、繰舟で向ふ岸の街道に渡つた。橋は見霞む川下の村境ひのはてであつたから、その繰舟はあたりの人々にとつてもこの
宮本百合子
繻珍のズボン 宮本百合子 父かたの祖母も母かたの祖母も八十を越えるまで存命だったので、どちらも私の思い出のなかにくっきりとした声や姿や心持ちを刻みのこしているが、祖父となると両方とも大変早く没している。 父かたの祖父は私が生れた時分、もう半身の自由がきかなくなっていて、床の上に坐ったまま初孫である赤坊の私を抱いて、おなごの子でも可愛いものだなあ、と云ったそう
甲賀三郎
罠に掛った人 甲賀三郎 一 もう十時は疾くに過ぎたのに、妻の伸子は未だ帰って来なかった。 友木はいらいらして立上った。彼の痩こけて骨張った顔は変に歪んで、苦痛の表情がアリアリと浮んでいた。 どこをどう歩いたって、この年の暮に迫って、不義理の限りをしている彼に、一銭の金だって貸して呉れる者があろう筈はないのだ。それを知らない彼ではなかった。だから、伸子が袷一枚
ドストエフスキーフィヨードル・ミハイロヴィチ
七月の初め、方図もなく暑い時分の夕方近く、一人の青年が、借家人からまた借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、なんとなく思い切り悪そうにのろのろと、K橋の方へ足を向けた。 青年はうまく階段でおかみと出くわさないで済んだ。彼の小部屋は、高い五階建の屋根裏にあって、住まいというよりむしろ戸棚に近かった。女中と賄いつきで彼にこの部屋を貸していた下宿のおかみは、一
北村透谷
罪と罰(内田不知庵譯) 北村透谷 沈痛、悲慘、幽悽なる心理的小説「罪と罰」は彼の奇怪なる一大巨人(露西亞)の暗黒なる社界の側面を暴露して餘すところなしと言ふべし。トルストイ、ツルゲネーフ等の名は吾人久しく之を聞けども、ドストイヱフスキーの名と著書に至りては吾文界に之を紹介するの功不知庵に多しと言はざる可からず。 露國は政治上に立て世界に雄視すと雖もその版圖の
北村透谷
「罪と罰」の殺人罪 北村透谷 不知庵主人の譯に成りし罪と罰に對する批評仲々に盛なりとは聞けるが、病氣其他の事ありて余が今日までに見たるは僅に四五種のみ、而して其中にも學海先生が國民の友に掲げられし評文は特に見目立ちて見えぬ。余は平生學海居士が儒家らしき文氣と馬琴を承けたる健筆に欽羨するものなるが、罪と罰に對する居士の評文の餘りに居士を代表する事の多きには聊か
カフカフランツ
眞實の道は一本の繩――別に高く張られてゐるわけではなく、地上からほんの少しの高さに張られてゐる一本の繩を越えて行くのだ。それは人々がその上を歩いて行くためよりも、人々がそれに躓くためにつくられてゐるやうに思はれる。
国木田独歩
置土産 国木田独歩 餅は円形きが普通なるわざと三角にひねりて客の目を惹かんと企みしようなれど実は餡をつつむに手数のかからぬ工夫不思議にあたりて、三角餅の名いつしかその近在に広まり、この茶店の小さいに似合わぬ繁盛、しかし餅ばかりでは上戸が困るとの若連中の勧告もありて、何はなくとも地酒一杯飲めるようにせしはツイ近ごろの事なりと。 戸数五百に足らぬ一筋町の東の外れ
楠山正雄
羅生門 楠山正雄 一 頼光が大江山の鬼を退治してから、これはその後のお話です。 こんどは京都の羅生門に毎晩鬼が出るといううわさが立ちました。なんでも通りかかるものをつかまえては食べるという評判でした。 春の雨のしとしと降る晩のことでした。平井保昌と四天王が頼光のお屋敷に集まって、お酒を飲んでいました。みんないろいろおもしろい話をしているうちに、ふと保昌が、
永井荷風
新太郎はもみぢといふ銀座裏の小料理屋に雇はれて料理方の見習をしてゐる中、徴兵にとられ二年たつて歸つて來た。然し統制後の世の中一帶、銀座界隈の景況はすつかり變つてゐた。 仕込にする物が足りないため、東京中の飮食店で毎日滯りなく客を迎へることのできる家は一軒もない。もみぢでは表向休業といふ札を下げ、ない/\で顏馴染のお客とその紹介で來る人だけを迎へることにしてゐ
永井荷風
新太郎はもみじという銀座裏の小料理屋に雇われて料理方の見習をしている中、徴兵にとられ二年たって帰って来た。しかし統制後の世の中一帯、銀座界隈の景況はすっかり変っていた。 仕込にする物が足りないため、東京中の飲食店で毎日滞りなく客を迎えることのできる家は一軒もない。もみじでは表向休業という札を下げ、ないないで顔馴染のお客とその紹介で来る人だけを迎えることにして
ビアスアンブローズ
時が経っても、ハイタの胸の中にある青春の幻想は経験を積んだ者のそれに席を譲りませんでした。彼の考えは純粋で陽気。彼の生活は単純で、彼の魂には野心というものがなかったからです。朝日と共に目覚め、ハスターの礼拝堂に行って祈りを捧げました。ハスターは羊飼いの神様で、祈りを聞こし召してお喜びになっていたのです。この敬虔なる儀式が済むと、ハイタは囲いの門を開け、乳と麦
木暮理太郎
筑摩山脈の武石峠が日本アルプス殊に北アルプスの好展望地であることは、『山岳』五年三号の附録中村清太郎君筆の「冬季信州武石峠より望める日本アルプス略図」に依って世に紹介されてから、山岳の展望に趣味を持つ程の人で知らぬ者は無い位有名になった。実際此山脈の山で千七、八百米の高さがあれば、孰れも眺望がよさ相に思える。中にも美ヶ原は山脈の中央部に位し、且つ其西方に連嶺
北大路魯山人
美味放談 北大路魯山人 上京の頃 僕が初めて東京に出て来た年少時に、京橋のビアホールになにか祝いごとがあってね。ビールが半額なんだ。飲んでやろうと思って行ったが、まず洋食を食おうと思ってね。ところがその時は洋食のことはなにも分らん。ビフテキといっても、それが野菜だか肉だか飲物だか分らん。どうしようかと思って、そこで考えたね。隣のテーブルで命じたものの名前を覚
北大路魯山人
「まずいものを、なんとかしてうまく食う方法を教えてくれ」という注文がときどぎ来るが、まずいものをうまくする……そんな秘法は絶対にない。魔術もなかろう。まずい米は所詮まずい。肉も魚類も菜もみな同様であって、一歩も動くものではない。しかし、うまそうにゴマ化す手はある。それは偽りの美味であって、本来の美味ではない。インチキで小児を騙す手はある。こう答えるよりほかは
北大路魯山人
美味い豆腐の話 北大路魯山人 美味い湯豆腐を食べようとするには、なんといっても豆腐のいいのを選ぶことが一番大切である。いかに薬味、醤油を吟味してかかっても、豆腐が不味ければ問題にならない。 そんなら、美味い豆腐はどこで求めたらいいか? ズバリ、京都である。 京都は古来水明で名高いところだけに、良水が豊富なため、いい豆腐ができる。また、京都人は精進料理など、金
原民喜
ペン・クラブの一行と別れて、私はまだ廣島に滞在しているわけだが、今朝は久振りで泉邸や常盤橋から饒津の方を歩いてみた。泉邸の川岸には頭に白い手ぬぐいをかむって何か働いている人の姿を見かけた。常盤橋の踏切の付近では道路をなおしている人たちを見た。 廣島は絶えず今も刻々に復興の途上にあるのだろう。だが、鶴羽根神社の靜かな濠のところまで來ると、私はこのあたりに眞赤な
西東三鬼
船欄に夜露べつとり逃ぐる旅 私はいつも逃げてばかりゐるやうです。それといふのも、私といふ男は、齢五十をとうに過ぎてゐながら、私と同じ生きものである人間、特に女の人に対する抵抗力が実に弱く、まるで生れたての赤ん坊がたやすく風邪をひくやうに、やられてしまふのです。 はじめ軽いくしやみが一二度出たかと思ふと、アッといふまに肺炎を併発して高熱にうなされるのです。困つ
田中貢太郎
美女を盗む鬼神 田中貢太郎 梁の武帝の大同の末年、欧陽という武人が、南方に出征して長楽という処に至り、その地方の匪乱か何かを平定して、山間嶮岨の地へ入った。そのは陣中に妻を携えていたが、その女は色が白く顔が美しかった。するとその地方の人が、 「君は何故美女を携えてここへ来た、ここには鬼神があって、美女と見れば必ず盗むので、往来の者でこの難に罹る事がある、君も
内田魯庵
丁度この欧化主義の最絶頂に達して、一も西洋、二も西洋と、上下有頂天となって西欧文化を高調した時、この潮流に棹さして極端に西洋臭い言文一致の文体を創めたのが忽ち人気を沸騰して、一躍文壇の大立者となったのは山田美妙斎であった。美妙斎はあたかも欧化熱の人工孵卵器で孵化された早産児であった。 これより先き美妙斎は薩摩の美少年の古い物語を歌った新体詞を単行本として発表
ド・ヴィルヌーヴガブリエル=シュザンヌ・バルボ
むかし昔、ある所に、お金持の商人がいて、三人のむすこと三人のむすめと、つごう六人のこどもをもっていました。商人には、お金よりもこどものほうが、ずっとずっとだいじなので、こどもたちたれも、かしこくしあわせにそだつように、そればかりねがっていました。 三人のむすめたち、たれも、きれいに生まれついてきているなかで、いちばん末の女の子は、きれいというだけではたりない