花巻農学校精神歌
宮沢賢治
花巻農学校精神歌 宮澤賢治 (一)日ハ君臨シ カガヤキハ 白金ノアメ ソソギタリ ワレラハ黒キ ツチニ俯シ マコトノクサノ タネマケリ (二)日ハ君臨シ 穹窿ニ ミナギリワタス 青ビカリ ヒカリノアセヲ 感ズレバ 気圏ノキハミ 隈モナシ (三)日ハ君臨シ 玻璃ノマド 清澄ニシテ 寂カナリ サアレマコトヲ 索メテハ 白亜ノ霧モ アビヌベシ (四)日ハ君臨シ カ
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宮沢賢治
花巻農学校精神歌 宮澤賢治 (一)日ハ君臨シ カガヤキハ 白金ノアメ ソソギタリ ワレラハ黒キ ツチニ俯シ マコトノクサノ タネマケリ (二)日ハ君臨シ 穹窿ニ ミナギリワタス 青ビカリ ヒカリノアセヲ 感ズレバ 気圏ノキハミ 隈モナシ (三)日ハ君臨シ 玻璃ノマド 清澄ニシテ 寂カナリ サアレマコトヲ 索メテハ 白亜ノ霧モ アビヌベシ (四)日ハ君臨シ カ
折口信夫
東京の春があらかた過ぎてから、ことしの花はどうだったかと思い出した年があった。自分だけかと思って、恥しいことだとひとりで赭くなって、誰にも言わなかった。五月近くなってから、「ことしの花は、どうだったけなあ」一人言い二人言い、言い出す人が、ちょいちょいあって、不覚人は、私ひとりでもなかったことを知った。併し痛切に感じたのは、やはり私位のものだろう。 その前年も
堀辰雄
私はその日はじめて妻をつれて亡き母の墓まいりに往った。 円通寺というその古い寺のある請地町は、向島の私たちのうちからそう離れてもいないし、それにそこいらの場末の町々は私の小さい時からいろいろと馴染のあるところなので、一度ぐらいはそういうところも妻に見せておこうと思って、寺まで曳舟通りを歩いていってみることにした。私たちのうちを出て、源森川に添ってしばらく往く
堀辰雄
私がまだ子供の時である。 私はよく手文庫の中から私の家族の寫眞を取り出しては、これはお父さんの、これはお母さんの、これは押上の伯父さんのなどと、皆の前で一つづつ得意さうに説明をする。そのうち私はいつも一人の見知らぬ若い女の人の寫眞を手にしてすつかり當惑してしまふ。 いくらそれはお前のお母さんの若い時分の寫眞だよと云はれても、私にはどうしてもそれが信じられない
徳冨蘆花
花月の夜 徳冨蘆花 戸を明くれば、十六日の月桜の梢にあり。空色淡くして碧霞み、白雲団々、月に近きは銀の如く光り、遠きは綿の如く和らかなり。 春星影よりも微に空を綴る。微茫月色、花に映じて、密なる枝は月を鎖してほの闇く、疎なる一枝は月にさし出でゝほの白く、風情言ひ尽し難し。薄き影と、薄き光は、落花点々たる庭に落ちて、地を歩す、宛ながら天を歩むの感あり。 浜の方
新美南吉
むかし、花のき村に、五人組の盗人がやって来ました。 それは、若竹が、あちこちの空に、かぼそく、ういういしい緑色の芽をのばしている初夏のひるで、松林では松蝉が、ジイジイジイイと鳴いていました。 盗人たちは、北から川に沿ってやって来ました。花のき村の入り口のあたりは、すかんぽやうまごやしの生えた緑の野原で、子供や牛が遊んでおりました。これだけを見ても、この村が平
中野鈴子
いくつもの花束をわたされ わたしはうっ伏してしまった 花束をあたまにかぶり 泪はふりあふるる 我が師 友どち 酒をくみ こと挙げて まずしき詩集を祝いいただく 何にたとえん わが生きの日の ●図書カード
田山花袋
順吉は今でもはつきりとその時のさまを思ひ出すことが出来た。右に石垣、その下に柳の大きな樹が茂つて、向うに橋がある――その橋も、殿様のゐる頃には大小を挟んだ侍が通つたり、騎馬の武士が蹄を鳴して勇しく渡つて行つたりしたもので、昔は徒士や足軽の子供などはそこに寄りつけもしなかつたものであつたが、城に草が生えるやうになつてから全く廃たれて、ぎぼしは盗まれ、欄干は破れ
牧野信一
彼は、不断に巨大な都市の建設に余念がない。あの都は何んな細道を覗いても花飾美と瑰奇美と新鮮美に溢れてゐる。あの市長は一個の煉瓦に至るまで恭々しく自らの手で焼き、一つ一つ自分で積みあげて、塔を建て、ビルヂングを建てゝゐる目醒しい努力家だ。たゞの努力ではない、努力だけでは彼の町は出来ない。独特な才能を持つた不思議な市長だ。――御覧な、あの数々のものの、剛健な、あ
正岡子規
神の工が削りなしけん千仞の絶壁、上平に草生ひ茂りて、三方は奇しき木の林に包まれ、東に向ひて開く一方、遙の下に群れたる人家、屈曲したる川の流を見るべし。此處に飛び來れるは、さゝやかに美しき神の子二人、何處よりか採りて來し種々の花を植ゑ試みつゝ、白き羽の一人は黄なる羽の一人に向ひ、 「匂よ。菫、苧環、櫻草、丁字草、五形、華鬘草の類は皆此方に栽ゑて枕元を飾るべし。
宮沢賢治
花椰菜 宮沢賢治 うすい鼠がかった光がそこらいちめんほのかにこめてゐた。 そこはカムチャッカの横の方の地図で見ると山脈の褐色のケバが明るくつらなってゐるあたりらしかったが実際はそんな山も見えず却ってでこぼこの野原のやうに思はれた。 とにかく私は粗末な白木の小屋の入口に座ってゐた。 その小屋といふのも南の方は明けっぱなしで壁もなく窓もなくたゞ二尺ばかりの腰板が
小野佐世男
花模様女剣戟 小野佐世男 1 ドレスの流行のように、映画も演劇も春の虹のように刻々と流行が変って行く。近頃は花が開いたように果然! 女剣戟流行時代と化して、日本全国津々浦々、劇団が乗り込んで来ると、絵看板は女だてらにあられもない、銀蛇の日本刀を颯爽とひらめかし、荒くれ男をバッタバッタとなぎたおす眼もあやなる極彩色にぬりつぶされて行く。 「いやもう驚くほかはあ
永井荷風
午飯の箸を取ろうとした時ポンと何処かで花火の音がした。梅雨も漸く明けぢかい曇った日である。涼しい風が絶えず窓の簾を動かしている。見れば狭い路地裏の家々には軒並に国旗が出してあった。国旗のないのはわが家の格子戸ばかりである。わたしは始めて今日は東京市欧洲戦争講和記念祭の当日であることを思出した。 午飯をすますとわたしは昨日から張りかけた押入の壁を張ってしまおう
太宰治
花火 太宰治 昭和のはじめ、東京の一家庭に起った異常な事件である。四谷区某町某番地に、鶴見仙之助というやや高名の洋画家がいた。その頃すでに五十歳を越えていた。東京の医者の子であったが、若い頃フランスに渡り、ルノアルという巨匠に師事して洋画を学び、帰朝して日本の画壇に於いて、かなりの地位を得る事が出来た。夫人は陸奥の産である。教育者の家に生れて、父が転任を命じ
坂口安吾
私はミン平が皮のジャムパーを着てやつてきた時には、をかしくて困つた。似合はなすぎるのだ。ミン平も、いかにも全身これ窮屈です、といふ様子で、てれきつてゐるから、尚へんだ。 「てれるから変なのだよ。気取つてごらん。ねえ、胸をそらして威張るのよ」 「やだなあ。小学校の時から胸をそらした覚えがないんだよ、オレは」 このジャムパーは私が昨日散歩の道でふと目にとめると、
木村荘八
花火の夢 木村荘八 花火で忘られない記憶は、私の家の屋根へ風船の付いた旗の落ちたことだ。「落ちてゐた」といつた方がいゝかもしれない。旗はガンピの日章旗で、畳三畳敷位ゐの大きさであつたらう。これに相当大きな風船と、細長く紙を幾重にもたゝんで出来た旗竿が付いてゐた。旗竿の部分には鉛がところどころに綴込んであつた。――これが私の見てゐる前で、私の家の屋根瓦へすれす
長谷川時雨
花火と大川端 長谷川時雨 花火といふ遊びは、金を飛散させてしまふところに多分の快味があるのだから、經濟の豐なほど豪宕壯觀なわけだ。私といふ子供がはじめて記憶した兩國川開きの花火は、明治二十年位のことだから、廣告花火もあつたではあらうが、資本力の充實した今日から見れば、三業組合――花柳界の支出費だけで、大仕掛のものはすくなかつた。 江戸時代の川開きとは、納凉船
太宰治
一 祝言の夜ふけ、新郎と新婦が将来のことを語り合っていたら、部屋の襖のそとでさらさら音がした。ぎょっとして、それから二人こわごわ這い出し、襖をそっとあけてみると、祝い物の島台に飾られてある伊勢海老が、まだ生きていて、大きな髭をゆるくうごかしていたのである。物音の正体を見とどけて、二人は顔を見合せ、それからほのぼの笑った。こんないい思い出を持ったこの夫婦は、末
寺田寅彦
花物語 寺田寅彦 一 昼顔 いくつぐらいの時であったかたしかには覚えぬが、自分が小さい時の事である。宅の前を流れている濁った堀川に沿うて半町ぐらい上ると川は左に折れて旧城のすその茂みに分け入る。その城に向こうたこちらの岸に広いあき地があった。維新前には藩の調練場であったのが、そのころは県庁の所属になったままで荒れ地になっていた。一面の砂地に雑草が所まだらにお
坂口安吾
花田清輝論 坂口安吾 花田清輝の名は読者は知らないに相違ない。なぜなら、新人発掘が商売の編輯者諸君の大部分が知らなかつたからである。知らないのは無理がないので、花田清輝が物を書いてゐた頃は彼等はみんな戦争に行つてゐたのだから。 私は雑誌はめつたに読まない性分だから、新人などに就て何も知らず差出口のできないのが当然なのだが、戦争中「現代文学」といふ同人雑誌に加
坂口安吾
花田清輝の名は読者は知らないに相違ない。なぜなら、新人発掘が商売の編輯者諸君の大部分が知らなかったからである。知らないのは無理がないので、花田清輝が物を書いていた頃は彼等はみんな戦争に行っていたのだから。 私は雑誌はめったに読まない性分だから、新人などに就て何も知らず差出口のできないのが当然なのだが、戦争中「現代文学」という同人雑誌に加わっていたので、平野謙
坂口安吾
「花」の確立 坂口安吾 文学も勿論さうだが、生活も、元来が平時のものである。戦争は特殊な過渡期で、いはゆる非常時だから、戦場に文学はないし、また生活もないと思ふ。 戦勝後の国力の増大、また個人生活の増大、文化も文学も、本来そこに結びついてゐるものだ。 戦前の日本は、なんといつても生活程度が低かつた。日本人は最も素質ある国民で、観念生活は豊富であるにも拘らず、
上村松園
花筐と岩倉村 上村松園 「花がたみ」は第九回文展出品作で、大正四年の制作である。 この絵は、わたくしの数多くの作品中でも、いろんな意味において大作の部にはいるべきもので、制作に当たっては、数々の思い出が残っているが、なかでも、狂人の研究には、今おもい出しても妙な気持ちに誘われるものがある。 この絵も、「草紙洗小町」や、「砧」などと同じく謡曲の中から取材したも
寺田寅彦
からすうりの花と蛾 寺田寅彦 ことしは庭のからすうりがずいぶん勢いよく繁殖した。中庭の四つ目垣のばらにからみ、それからさらにつるを延ばして手近なさんごの木を侵略し、いつのまにかとうとう樹冠の全部を占領した。それでも飽き足らずに今度は垣の反対側のかえでまでも触手をのばしてわたりをつけた。そうしてそのつるの端は茂ったかえでの大小の枝の間から糸のように長くたれさが