ディカーニカ近郷夜話 前篇 04 イワン・クパーラの前夜
ゴーゴリニコライ
フォマ・グリゴーリエッチには一種奇妙な癖があつた。あの人はおなじ話を二度と繰りかへすのが死ぬほど嫌ひだつた。どんなことでも、もう一度はなして貰ひたいなどと言はうものなら、きまつて、何か新事実をつけ足すか、でなければ、まるで似ても似つかぬものに作りかへてしまふのが、いつもの伝であつた。ある時のこと、一人の紳士が、――とはいへ、われわれ凡俗にはああした人たちをい
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ゴーゴリニコライ
フォマ・グリゴーリエッチには一種奇妙な癖があつた。あの人はおなじ話を二度と繰りかへすのが死ぬほど嫌ひだつた。どんなことでも、もう一度はなして貰ひたいなどと言はうものなら、きまつて、何か新事実をつけ足すか、でなければ、まるで似ても似つかぬものに作りかへてしまふのが、いつもの伝であつた。ある時のこと、一人の紳士が、――とはいへ、われわれ凡俗にはああした人たちをい
ゴーゴリニコライ
高らかな歌声が×××村の往還を川水のやうに流れてゐる。それは昼間の仕事と心遣ひに疲れた若者や娘たちが、朗らかな夕べの光りを浴びながら、がやがやと寄りつどつて、あの、いつも哀愁をおびた歌調にめいめいの歓びを唄ひだす時刻であつた。もの思はしげな夕闇は万象を朦朧たる遠景に融かしこんで、夢見るやうに蒼空を抱擁してゐる。もう黄昏なのに歌声はなほ鎮まらうともしない。村長
ゴーゴリニコライ
ぢやあ、もつとわしの祖父の話を聴かせろと仰つしやるんで?――よろしいとも、お伽になることなら、なんの、否むどころではありませんよ。ああ、何ごとも昔のこと、昔のこと! 遠い遠い、年代や月日のほども聢とはわかりかねる大昔にこの世にあつた話を聴く時の、嬉しさ娯しさといつたら! ましてやそれが、祖父とか曾祖父といつた自分の身内の者の登場してくる話ででもあらうものなら
ゴーゴリニコライ
さていよいよ二冊目の本を御覧に入れる、いや二冊目といふよりは寧ろ最後の本といつた方がよい! ありやうは、これも公にするのは全く不本意なことなんで。実際、もういい加減に身の程を知つてもいい頃ぢや。実を言へば、そろそろ村でも、わしのことを哂笑ひだしをつたのぢや。その言ひ草が、ほいほい、老爺さんもすつかり耄けてしまつたよ。あの高齢をからげて、こんな子供だましみたい
ゴーゴリニコライ
降誕祭まへの最後の日が暮れた。冬の、よく澄みわたつた夜が来た。星はキラキラと、輝やきはじめ、月は、善男善女が楽しく★讚仰歌を流しまはつて基督を頌へることの出来るやうに、あまねく下界を照らすため、勿体らしく中空へと昇つた。寒気は朝よりもひとしほ厳しくなつたが、そのかはり、靴の下で軋む凍てた雪の音が半露里もさきまで聞えるほど物静かな夜である。まだ若い衆連の群れは
ゴーゴリニコライ
キエフの街はづれで、わいわいと騒々しい物音が聞えてゐる。それは哥薩克の大尉、ゴロベーツィが、息子の婚礼の祝宴を張つてゐるのであつた。大尉の邸へは夥しい来客が詰めかけてゐた。昔は何かといへば鱈腹つめこんだものだ。鱈腹つめこむといふよりは、うんと飲んだものだ。うんと飲むといふよりは、羽目を外してドンチャン騒ぎをやつたものだ。ザポロージェ人のミキートカも栗毛の駒に
ゴーゴリニコライ
これは、ガデャーチからよくやつて来たステパン・イワーノッチ・クーロチカに聞いた物語ぢやが、これには一つの故事来歴がついてゐる。ところで、元来このわしの記憶といふやつが、何ともはやお話にならぬ代物で、聞いたも聞かぬもとんとひとつでな。いはば、まるで篩の中へ水をつぎこんだのと変りがないのぢや。我れながら、それを百も承知なので、わざわざ彼にその物語を帳面へ書きつけ
ゴーゴリニコライ
いや、まつたく、もう話には倦きてしまつた! あなた方はどうお考へかしらんが、ほんとにうんざりしてしまふ。あとからあとから話せ話せで、捉まつたが最後、とんと、逃げ出すことも出来はせぬ。ぢや、まあ、お話をするが、もう金輪際、これがほんとのおしまひですよ。さて、あなた方のお説では、人間の力で、いはゆる悪霊を制御することが出来る、と言はれるのぢやが、それあもう、無論
小川未明
今年の夏になってからのことでした。私は庭のありを全滅してしまわなければならぬと考えました。日ごろから、ありは多くの虫のなかで、もっとも利口であり、また組織的な生活を営んでいる、感心な虫であることは、知っていましたが、木や、竹に、油虫をはこび、せっかく伸びた芽をいじけさせて、その上、根もとに巣をつくり、幹に穴などをあけるのでは、客観的にばかり、ながめてもいられ
中原中也
近頃芸術が不振かどうか、それからして既に軽々と決めてかゝることは出来ない。だが作家等が昔日のやうに、楽々と筆を執つてゐないことだけは事実である。そして、さうした事態を脱がれようとするものの如く、後から後から新しい主義主張が簇出しつつあることも事実である。而してそれらの新しい主義主張は、何か新しく云ひたいことが鬱勃とした所から発生してゐるといふよりも、事態の貧
太宰治
返事 太宰治 拝復。長いお手紙をいただきました。 縁というのは、妙なものですね。(なんて、こんな事を言うと、非科学的だといって叱られるかしら。うるさい時代が過ぎて、二三日、ほっとしたと思ったら、また、うるさい時代がやって来ました。縁などというのは迷信である。必然的と言わなければならぬ、なんて、一言一言とがめられる、あの右翼のやっかい以前の左翼のやっかい時代が
岸田国士
お手紙の趣旨は第一に、この苦難と不安に満ちた現実生活を、芝居の世界で、つまり、舞台の上で、どんな風に取扱つたらいいかといふこと、ですね。われわれが日常、真剣に取組んでゐる問題を、そのまま、芝居に仕組んで見せるといふやり方にはおのづから限度があると思ひます。 私はこんどゴーリキイの『どん底』を演出するについても、「どん底」生活の惨めさ、暗さを、虐げられた人々の
種田山頭火
述懐 種田山頭火 ――私はその日その日の生活にも困っている。食うや食わずで昨日今日を送り迎えている。多分明日も――いや、死ぬるまではそうだろう。だが私は毎日毎夜句を作っている。飲み食いしないでも句を作ることは怠らない。いいかえると腹は空いていても句は出来るのである。水の流れるように句心は湧いて溢れるのだ。私にあっては生きるとは句作することである。句作即生活だ
中原中也
筆が折れる それ程足りた心があるか だつて折れない筆がありますか? 聖書の綱が 性慾のコマを廻す 原始人の礼儀は 外界物に目も呉れないで 目前のものだけを見ることでした だがだが 現代文明が筆を生みました 筆は外界物です 現代人は目前のものに対するに その筆を用ひました 発明して出来たものが不可なかつたのです だが好いとも言へますから―― 僕は筆を折りませう
岸田国士
星野少尉 臼田軍曹 小西上等兵 兵卒A 同B 同C 同D 荒物屋の主人 その妻 その娘 大正二三年頃の秋 ある歩兵聯隊の夜間演習が東京近在の農村を中心として行はれる。 小銃の音が二三発、遠くで聞える。 やがて、小砂利を蹈む七八人の靴音。 星野少尉 此の将校斥候の任務、わかつたね。富岡、云つて見ろ。兵卒A はい。――星野将校斥候は、前哨中隊の前方約千五百米
上村松園
迷彩 上村松園 ○ この間私はある方面から質のいい古い唐紙を手に入れましたので、戯れに興味描きを試みまして、知合いの人にも贈ったりしました。唐紙の古いのは、ガサガサした塵埃が脱けているような気がして大そう筆の運びがいいように思います。紙もそうですが、画絹も質のよし悪しで、仕上がった後に画品への関係がよほどあるように思います。画絹の質は、人によっていろいろ好き
小川未明
二郎は昨夜見た夢が余り不思議なもんで、これを兄の太郎に話そうかと思っていましたが、まだいい折がありません。昼過ぎに母親は前の圃で妹を相手にして話をしていたから、裏庭へ出て兄を探ねると、大きな合歓の木の下で、日蔭の涼しい処で黙って考え込んでいるのであります。二郎は心配そうに傍に寄り添うて、 「兄さん、何を其様に考えているんです、何処か悪いんでありませんか。え、
原民喜
先頃、この四五年間の手紙を整理してゐると、井上五郎・澄田廣史・兒玉孤舟君など、故人になつた人の書簡が出て来て感慨を新たにされた。澄田廣史君など死ぬる前まで、希望に満ち計画に溢れた、元気のいい端書であつた。若くして死ぬる人は、大概気が頑りつめて居る絶頂なのかもしれない。さう云へば、黒川俊子嬢の封筒も四五通出て来て、更に儚い気持がした。家内宛の手紙であるが、綺麗
素木しづ
追憶 素木しづ また秋になつて、まち子夫婦は去年とおなじやうに子供の寢てる時の食後などは、しみ/″\と故郷の追憶にふけるのであつた。 今年もとう/\行かれなかつたと、お互に思ひながらも、それがさしてものなげきでなく、二人の心にはまた來年こそはといふ希望が思浮んでゐるのであつた。 まち子の夫の末男は、偶然にも彼女とおなじ北海道に生れた男であつた。彼女はそれを不
萩原朔太郎
若山氏の死について、遺族の方から御通知がなかつた爲、僕はずつと遲く、最近になつて始めて知つたわけであつた。明治大正の歌壇にかけて偉業を殘した、このなつかしい巨匠を失つたことは、個人としての友情以外に、深く痛惜に耐へないことである。 僕が始めて牧水氏を知り、文學上での交遊關係を結んだのは、以前の雜誌「創作」の頃からだつた。當時僕は、室生犀星君と共に詩壇に出て、
神西清
辻野久憲君が亡くなつたのは一九三七年の九月九日である。早いものだ、それからもう十二年になる。 忘れえぬ友といへば、僕の生涯にもはやかなりの数にのぼる。なかでも年少の友の死は一しほ痛々しい。けれどその死者の記憶が、いつまでも鮮らしい傷口を開いてゐるやうな場合は、かならずしも多くはない。辻野君の死が、僕にとつてその稀な場あひの一つだつた。いやそればかりか、傷口は
寺田寅彦
子供の時分の冬の夜の記憶の中に浮上がって来る数々の物象の中に「行燈」がある。自分の思い出し得られる限りその当時の夜の主なる照明具は石油ランプであった。時たま特別の来客を饗応でもするときに、西洋蝋燭がばね仕掛で管の中からせり上がって来る当時ではハイカラな燭台を使うこともあったが、しかし就寝時の有明けにはずっと後までも行燈を使っていた。しかも古風な四角な箱形のも
寺田寅彦
子供の時分に世話になった医師が幾人かあった。それがもうみんなとうの昔に故人になったしまって、それらの記念すべき諸国手の面影も今ではもう朧気な追憶の霧の中に消えかかっている。 小学時代にかかりつけの家庭医は岡村先生という当時でももう相当な老人であった。頭髪は昔の徳川時代の医者のような総髪を、絵にある由井正雪のようにオールバックに後方へなで下ろしていた。いつも黒
チェーホフアントン
『先生』と綽名のついた老人のセミョーンと、誰も名を知らない若い韃靼人が、川岸の焚火の傍に坐っていた。残る三人の渡船夫は小屋のなかにいる。セミョーンは六十ほどの老爺で、痩せて歯はもう一本もないが、肩幅が広くて一見まだ矍鑠としている。彼は酔っていた。もう夙から寝たくてならないのだが、ポケットには酒瓶があるし、小屋の若者達にヴォトカをねだられるのも厭だった。韃靼人