銭形平次捕物控 051 迷子札
野村胡堂
「親分、お願いがあるんだが」 ガラッ八の八五郎は言いにくそうに、長い顎を撫でております。 「またお小遣いだろう、お安い御用みたいだが、たんとはねえよ」 銭形の平次はそう言いながら、立上がりました。 「親分、冗談じゃない。――またお静さんの着物なんか剥いじゃ殺生だ。――あわてちゃいけねえ、今日は金が欲しくて来たんじゃありませんよ。金なら小判というものを、うんと
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野村胡堂
「親分、お願いがあるんだが」 ガラッ八の八五郎は言いにくそうに、長い顎を撫でております。 「またお小遣いだろう、お安い御用みたいだが、たんとはねえよ」 銭形の平次はそう言いながら、立上がりました。 「親分、冗談じゃない。――またお静さんの着物なんか剥いじゃ殺生だ。――あわてちゃいけねえ、今日は金が欲しくて来たんじゃありませんよ。金なら小判というものを、うんと
野村胡堂
「親分、お願ひがあるんだが」 ガラツ八の八五郎は言ひ憎さうに、長い顎を撫でて居ります。 「又お小遣ひだらう、お安い御用みたいだが、たんとはねえよ」 錢形の平次はさう言ひ乍ら、立ち上がりました。 「親分、冗談ぢやない。又お靜さんの着物なんか剥いぢや殺生だ。――あわてちやいけねえ、今日は金が欲しくて來たんぢやありませんよ。金なら小判というものを、うんと持つて居ま
野村胡堂
銭形平次の見ている前で、人間が一人殺されたのです。それをどうすることも出来なかった平次、この時ばかりは、十手捕縄を返上して、番太の株でも買おうかと思った事件、詳しく話せば、こうでした。 「親分、今年の花見は町内に忌引や取込みがあって、ろくな工夫もなかったが、その代り川開きの晩は、涼み船を出して、大川を芸尽しで漕ぎ廻そうという寸法さ。お役目を抜きにして、その晩
野村胡堂
「八、たいそう手前は粋になったな」 「からかっちゃいけません、親分」 八五郎のガラッ八は、あわてて、膝っ小僧を隠しました。柄にない狭い単衣、尻をまくるには便利ですが、真面目に坐り直すと、帆立て尻にならなければ、どう工面をしても膝っ小僧がハミ出します。 「隠すな、八、ネタはちゃんと挙がってるぜ」 銭形平次は構わずに続けました。 「へッ、へッ、どの口のネタで?」
野村胡堂
「旦那よ――たしかに旦那よ」 「…………」 鬼になった年増芸妓のお勢は、板倉屋伴三郎の袖を掴んで、こう言うのでした。 「ただ旦那じゃ解らないよ姐さん、お名前を判然申上げな」 幇間の左孝は、はだけた胸に扇の風を容れながら、助け舟を出します。 「旦那と言ったら旦那だよ、この土地でただ旦那と言や、板倉屋の旦那に決ってるじゃないか。幇間は左孝で芸妓はお勢さ、ホ、ホ、
野村胡堂
「旦那よ――たしかに旦那よ」 「――」 盲鬼になつた年増藝妓のお勢は、板倉屋伴三郎の袖を掴んで、斯う言ふのでした。 「唯旦那ぢや解らないよ姐さん、お名前を判然申上げな」 幇間の左孝は、はだけた胸に扇の風を容れ乍ら、助け舟を出します。 「旦那と言つたら旦那だよ、この土地で唯旦那と言や、板倉屋の旦那に決つてるぢやないか。幇間は左孝で藝妓はお勢さ、ホ、ホ、ホ――い
野村胡堂
「親分、笑っちゃいけませんよ」 「何だ、八」 「親分もあっしも同じ人間でしょう」 ガラッ八の八五郎はまた変なことを言い出しました。 「その通りだ、眼が二つ、口が一つ、なるほど、こいつは不思議だ。今まで気が付かなかったが、手前の言う通りお互にあんまり変っちゃいないね、八」 銭形平次もこの調子です。 「まぜっ返しちゃいけません。――ね、親分、その同じ人間のあっし
野村胡堂
「親分、変な野郎が來ましたぜ」 ガラツ八の八五郎は、モモンガア見たいな顏をして見せました。秋の日の晝下がり、平次は若い癖に御用の隙の閑寂な半日を樂しんで居る折柄でした。 「変な野郎てえ物の言ひやうがあるかい。お客樣に違ひあるまい」 「さう言へばその通りですが、全く変ですぜ、親分」 「手前よりも変か」 「へツ」 ガラツ八は見事に敗北しました。 「何んて方なんだ
野村胡堂
「親分、変な野郎が来ましたぜ」 ガラッ八の八五郎は、モモンガアみたいな顔をして見せました。秋の日の昼下がり、平次は若い癖に御用の隙の閑寂な半日を楽しんでいる折柄でした。 「変な野郎てえ物の言いようはあるかい。お客様に違いあるまい」 「そう言えばその通りですが、全く変ですぜ、親分」 「手前よりも変か」 「へッ」 ガラッ八は見事に敗北しました。 「なんて方なんだ
野村胡堂
相模屋の若旦那新助は二十一、古い形容ですが、日本橋業平といわれる好い男のくせに、去年あたりからすっかり、大弓に凝ってしまって、大久保の寮に泊り込みのまま、庭ので一日暮すことの方が多くなりました。 主人の喜兵衛はそればかり心配して、親類や知己に頼んで、縁談の雨を降らせましたが、新助はそれに耳を傾けようともしません。 大久保の寮の留守番には、店中の道楽者茂七を置
野村胡堂
相模屋の若旦那新助は二十一、古い形容ですが、日本橋業平といはれる好い男の癖に、去年あたりからすつかり、大弓に凝つてしまつて、大久保の寮に泊り込みのまゝ、庭ので一日暮すことの方が多くなりました。 主人の喜兵衞はそればかり心配して、親類や知己に頼んで、縁談の雨を降らせましたが、新助はそれに耳を傾けようともしません。 大久保の寮の留守番には、店中の道樂者茂七を置い
野村胡堂
ガラッ八の八五郎は、こんないい心持になったことはありません。 親分の銭形平次の名代で、東両国の伊勢辰でたらふく飲んだ参会の帰り途、左手に折詰をブラ下げて、右手の爪楊枝で高々と歯をせせりながら、鼻唄か何か唄いながら、両国橋へ差しかかって来たのは真夜中近い刻限でした。 借着ながら羽織を引っかけて、懐中には羅紗の大紙入、これには親分の平次が、人中で恥を掻いちゃ――
野村胡堂
「親分。お早うございます」 「火事場の歸りかえ。八」 「へエ――」 「竈の中から飛出したやうだぜ」 錢形平次――江戸開府以來と言はれた捕物の名人――と、子分の逸足、ガラツ八で通る八五郎が、鎌倉河岸でハタと顏を合せました。まだ卯刻半過ぎ、火事場歸りの人足が漸く疎らになつて、石垣の上は、白々と朝霜が殘つて居る頃です。 「ところで何處へ行きなさるんで? 親分」 「
野村胡堂
「親分。お早うございます」 「火事場の帰りかえ。八」 「ヘエ――」 「竈の中から飛出したようだせ」 銭形平次――江戸開府以来と言われた捕物の名人――と、子分の逸足、ガラッ八で通る八五郎が、鎌倉河岸でハタと顔を合せました。まだ卯刻半(七時)過ぎ、火事場帰りの人足が漸く疎らになって、石垣の上は、白々と朝霜が残っている頃です。 「ところでどこへ行きなさるんで? 親
野村胡堂
「親分、松が取れたばかりのところへ、こんな話を持込んじゃ気の毒だが、玉屋にとっては、この上もない大難、――聴いてやっちゃ下さるまいか」 町人ながら諸大名の御用達を勤め、苗字帯刀まで許されている玉屋金兵衛は、五十がらみの分別顔を心持翳らせてこう切出しました。 「御用聞には盆も正月もありゃしません。その大難というは一体何で?」 銭形の平次は膝を進めます。往来には
野村胡堂
「親分、松が除れたばかりのところへ、こんな話を持込んぢや氣の毒だが、玉屋に取つては、此上もない大難、――聽いてやつちや下さるまいか」 町人乍ら諸大名の御用達を勤め、苗字帶刀まで許されてゐる玉屋金兵衞は、五十がらみの分別顏を心持翳らせて斯う切出しました。 「御用聞には盆も正月もありやしません。その大難といふは一體何で?」 錢形の平次は膝を進めます。往來にはまだ
野村胡堂
「親分、犬が女を殺すでしょうか」 淡雪の降った朝、八五郎のガラッ八は、ぼんやりした顔で、銭形平次のところへやって来ました。 「咬み殺されたのかい」 「そんな事なら不思議はないが、女が匕首で刺されて死んでいるのに、雪の中の足跡は犬なんだそうで――」 「そんな馬鹿なことがあるものか。犬が匕首を振り廻すなら、猫は出刃庖丁を持出すぜ」 「ね、誰だって一応はそう思うで
野村胡堂
「親分、大変な野郎が来ましたぜ」 ガラッ八の八五郎は、拇指で自分の肩越しに指しながら、入口の方へ顎をしゃくってみせます。 「大変な野郎――?」 銭形の平次は、岡っ引には過ぎた物の本に吸い付いて、顔を挙げようともしません。 「二本差が二人――」 「馬鹿野郎、御武家を野郎呼ばわりする奴があるものか、無礼討にされても俺の知ったことじゃないぞ」 「でもね親分、立派な
野村胡堂
「親分、大變な野郎が來ましたぜ」 ガラツ八の八五郎は、拇指で自分の肩越しに指し乍ら、入口の方へ頤をしやくつて見せます。 「大變な野郎――?」 錢形の平次は、岡つ引には過ぎた物の本に吸付いて、顏を擧げようともしません。 「二本差が二人――」 「馬鹿野郎、御武家を野郎呼ばはりする奴があるものか、無禮討にされても俺の知つたことぢやないぜ」 「でもね親分、立派なお武
野村胡堂
「親分」 ガラッ八の八五郎は息せき切っておりました。続く――大変――という言葉も、容易には唇に上りません。 「何だ、八」 飛鳥山の花見帰り、谷中へ抜けようとする道で、銭形平次は後ろから呼止められたのです。飛鳥山の花見の行楽に、埃と酒にすっかり酔って、これから夕陽を浴びて家路を急ごうという時、跡片付けで少し後れたガラッ八が、毛氈を肩に引っ担いだまま、泳ぐように
野村胡堂
「親分」 ガラツ八の八五郎は息せき切つて居りました。續く――大變――といふ言葉も、容易には唇に上りません。 「何だ、八」 飛鳥山の花見歸り、谷中へ拔けようとする道で、錢形平次は後から呼止められたのです。飛鳥山の花見の行樂に、埃と酒にすつかり醉つて、これから夕陽を浴びて家路を急がうといふ時、跡片付けで少し後れたガラツ八が、毛氈を肩に引つ擔いだまゝ、泳ぐやうに飛
野村胡堂
「親分」 「何だ、八」 「腕が鳴るね」 ガラツ八の八五郎は、小鼻をふくらませて、親分の錢形平次を仰ぎました。 初夏の陽を除け/\、とぐろを卷いた縁側から、これも所在なく吐月峯ばかり叩いてゐる平次に、一とかど言ひ當てたつもりで聲を掛けたのでした。 「腕の鳴る面かよ、馬鹿野郎。近頃お濕りがないから、喉が鳴るんだらう」 「違げえねえ」 平掌で額をピシヤリ。この二三
野村胡堂
「親分」 「何だ、八」 「腕が鳴るね」 ガラッ八の八五郎は、小鼻をふくらませて、親分の銭形平次を仰ぎました。 初夏の陽を除け除け、とぐろを巻いた縁側から、これも所在なく吐月峰ばかり叩いている平次に、一とかど言い当てたつもりで声を掛けたのでした。 「腕の鳴る面かよ、馬鹿野郎、近頃お湿りがないから、喉が鳴るんだろう」 「違えねえ」 平掌で額をピシャリ。この二三日
野村胡堂
「親分」 「何だ八、また大変の売物でもあるのかい、鼻の孔が膨らんでいるようだが」 銭形の平次はいつでもこんな調子でした。寝そべったまま煙草盆を引寄せて、こればかりは分不相応に贅沢な水府煙草を一服。紫の煙がゆらゆらと這って行く縁側のあたりに、八五郎の大きな鼻が膨らんでいるといった、天下泰平な夏の日の昼下がりです。 「大変が種切れなんで、ちかごろは朝湯に昼湯に留