銭形平次捕物控 121 土への愛着
野村胡堂
「親分、良い陽気じゃありませんか。少し出かけてみちゃどうです」 ガラッ八の八五郎が木戸の外から風の悪い古金買いのような恰好で、こう覗いているのでした。 「なんだ八か。そんなところから顎なんか突き出さずに、表から廻って入って来い」 銭形平次は、来客と対談中の身体を捻って、大きく手招ぎました。 「顎――ですかね、へッ、へッ」 ガラッ八は首を引っ込めて、不平らしく
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野村胡堂
「親分、良い陽気じゃありませんか。少し出かけてみちゃどうです」 ガラッ八の八五郎が木戸の外から風の悪い古金買いのような恰好で、こう覗いているのでした。 「なんだ八か。そんなところから顎なんか突き出さずに、表から廻って入って来い」 銭形平次は、来客と対談中の身体を捻って、大きく手招ぎました。 「顎――ですかね、へッ、へッ」 ガラッ八は首を引っ込めて、不平らしく
野村胡堂
「親分、良い陽氣ぢやありませんか。少し出かけて見ちやどうです」 ガラツ八の八五郎が木戸の外から風の惡い古金買ひのやうな恰好で、斯う覗いてゐるのでした。 「何んだ八か。そんなところから顎なんか突き出さずに、表から廻つて入つて來い」 錢形平次は、來客と對談中の身體を捻つて、大きく手招ぎました。 「顎――ですかね、へツ、へツ」 ガラツ八は首を引込めて、不平らしく長
野村胡堂
「親分、變なことがありますよ」 「何が變なんだ。――まだ朝飯も濟まないのに、いきなり飛び込んで來て」 五月のよく晴れた朝、差當つて急ぎの御用もない錢形平次は、八五郎でも誘つて、どこかへ遊びに行かうかと言つた、太平無事なことを考へてゐる矢先、當の八五郎は少しめかし込んだ恰好で、飛び込んで來たのです。 「それがね、親分」 ガラツ八は少し言ひにくさうでもあります。
野村胡堂
「親分、変なことがありますよ」 「何が変なんだ。――まだ朝飯も済まないのに、いきなり飛び込んで来て」 五月のよく晴れた朝、差当って急ぎの御用もない銭形平次は、八五郎でも誘って、どこかへ遊びに行こうかといった、太平無事なことを考えている矢先、当の八五郎は少しめかし込んだ恰好で、飛び込んで来たのです。 「それがね、親分」 ガラッ八は少し言いにくそうでもあります。
野村胡堂
「親分、折角ここまで来たんだから、ちょいと門前町裏を覗いてみましょうか」 銭形平次と子分の八五郎は、深川の八幡様へお詣りした帰り、フト出来心で結改場(楊弓場)を覗いたのが、この難事件に足を踏込む発端でした。 「なんだ、ここまで俺を引っ張って来たのは、信心気かと思ったら、そんな企みだったのかい」 「でもね、親分、楊弓は悪くありませんよ。第一心持が落着いて、腹が
野村胡堂
「親分、折角こゝまで來たんだから、ちよいと門前町裏を覗いて見ませうか」 錢形平次と子分の八五郎は、深川の八幡樣へお詣りした歸り、フト出來心で結改場(揚弓場)を覗いたのが、この難事件に足を踏込む發端でした。 「何んだ、こゝまで俺を引張つて來たのは、信心氣かと思つたら、そんな企みだつたのかい」 「でもね、親分、揚弓は惡くありませんよ。第一心持が落着いて、腹が減つ
野村胡堂
「親分」 「何んだ、八。大層な意氣込みぢやないか、喧嘩でもして來たのか」 錢形平次は氣のない顏を、八五郎の方に振り向けました。 「喧嘩ぢやありませんがね、癪にさはつて癪にさはつて――」 「癪なんてものは、紙入に入れてよ、内懷にしまひ込んで置くもんだ――お前見たいに鼻の先へブラ下げて歩くから、餘計なものにさはるぢやないか」 「へツ、まるで心學の講釋だ。親分も年
野村胡堂
「親分」 「なんだ、八。たいそうな意気込みじゃないか、喧嘩でもして来たのか」 銭形平次は気のない顔を、八五郎の方に振り向けました。 「喧嘩じゃありませんがね、癪にさわって癪にさわって――」 「癪なんてものは、紙入に入れてよ、内懐にしまい込んでおくもんだよ。お前みたいに鼻の先へブラ下げて歩くから、余計なものにさわるじゃないか」 「へッ、まるで心学の講釈だ。親分
野村胡堂
その晩、代地のお秀の家で、月見がてら、お秀の師匠に當る、江戸小唄の名人十寸見露光の追善の催しがありました。 丁度八月十五夜で、川開きから三度目の大花火が、兩國橋を中心に引つ切りなしに打揚げられ、月見の氣分には騷々しいが、その代りお祭り氣分は申分なく滿點でした。 追悼と言つたところで、改まつた催しではなく、阿呆陀羅經見たいなお經をあげ、お互ひに隱し藝を持寄つて
野村胡堂
その晩、代地のお秀の家で、月見がてら、お秀の師匠に当る、江戸小唄の名人十寸見露光の追善の催しがありました。 ちょうど八月十五夜で、川開きから三度目の大花火が、両国橋を中心に引っ切りなしに打揚げられ、月見の気分には騒々しいが、その代りお祭り気分は、申分なく満点でした。 追悼といったところで、改まった催しではなく、阿呆陀羅経みたいなお経をあげ、お互に隠し芸を持ち
野村胡堂
「八、厄介なことになったぜ」 銭形の平次は八丁堀の組屋敷から帰って来ると、鼻の下を長くして待っている八五郎に、いきなりこんなことを言うのです。 「何かお小言ですかえ、親分」 「それならいいが、笹野の旦那が折入っての頼みというのは、――近ごろ御府内を荒らし廻る辻斬を捉えるか、せめて正体を突き止めろというのだ」 「へッ、ヘエ――」 ガラッ八の八五郎さすがに胆を潰
野村胡堂
「八、厄介なことになつたぜ」 錢形の平次は八丁堀の組屋敷から歸つて來ると、鼻の下を長くして待つてゐる八五郎に、いきなりこんなことを言ふのです。 「何にかお小言ですかえ、親分」 「それならいゝが、笹野の旦那が折入つての頼みといふのは、――近頃御府内を荒し廻る辻斬を捉へるか、せめて正體を突き留めろといふのだ」 「へツ、へエ――」 ガラツ八の八五郎さすがに膽を潰し
野村胡堂
「親分、何かこう胸のすくようなことはありませんかね」 ガラッ八の八五郎は薄寒そうに弥蔵を構えたまま、膝小僧で銭形平次の家の木戸を押し開けて、狭い庭先へノソリと立ったのでした。 「胸のすく禁呪なんか知らないよ。もっとも腹の減ることならうんと知ってるぜ。幸いお天気が良いから畳を干そうと思っているんだ。気取ってなんかいずに、尻でも端折って手伝って行くがいい」 「そ
野村胡堂
「親分、何んかかう胸のすくやうなことはありませんかね」 ガラツ八の八五郎は薄寒さうに彌造を構へたまゝ、膝小僧で錢形平次の家の木戸を押し開けて、狭い庭先へノソリと立つたのでした。 「胸のすく禁呪なんか知らないよ。尤も腹の減ることならうんと知つてるぜ。幸ひお天氣が良いから疊を干さうと思つてゐるんだ。氣取つてなんかゐずに、尻でも端折つて手傳つて行くがいゝ」 「そい
野村胡堂
師走に入ると、寒くてよく晴れた天氣が續きました。ろくでもない江戸名物の火事と、物盜り騷ぎが次第に繁くなつて、一日々々心せはしく押し詰つた暮の二十一日の眞夜中。 「おや?」 神田鍋町の呉服屋、翁屋の支配人孫六は、何にか物に脅かされるやうに眼を覺しました。土藏の方から、異樣な物音が聽えて來たのです。 土藏の中には、商賣物の呉服太物と、暮の間に問屋筋への拂ひに當て
野村胡堂
師走に入ると、寒くてよく晴れた天気がつづきました。ろくでもない江戸名物の火事と、物盗り騒ぎがしだいに繁くなって、一日一日心せわしく押し詰った暮の二十一日の真夜中。 「おや?」 神田鍋町の呉服屋、翁屋の支配人孫六は、何か物に脅かされるように眼を覚ましました。土蔵の方から、異様な物音が聴えて来たのです。 土蔵の中には、商売物の呉服太物と、暮の間に問屋筋への払いに
野村胡堂
「親分、あれを御存じですかえ」 ガラッ八の八五郎はいきなり飛び込んで来ると、きっかけも脈絡もなく、こんなことを言うのでした。 「あ、知ってるとも。八五郎が近ごろ両国の水茶屋に入り浸って、お茶ばかり飲んで腹を下していることまで見通しだよ。どうだ驚いただろう」 銭形の平次はこの秘蔵の子分が、眼を白黒するのを、面白そうに眺めながら、こんな人の悪いことを言うのです。
野村胡堂
「親分、あれを御存じですかえ」 ガラツ八の八五郎はいきなり飛び込んで來ると、きつかけも脈絡もなく、こんなことを言ふのでした。 「あ、知つてるとも。八五郎が近頃兩國の水茶屋に入り侵つて、お茶ばかり飮んで腹を下してゐることまで見通しだよ。どうだ驚いたらう」 錢形の平次はこの秘藏の子分が、眼を白黒するのを、面白さうに眺めながら、こんな人の惡いことを言ふのです。 「
野村胡堂
不動明王の木像が、その右手に持つた降魔の利劍で、金貸叶屋重三郎を突き殺したといふ、江戸開府以來の大騷ぎがありました。 八百八町には、その日のうちに呼び賣の瓦版が飛んで、街々の髮結床や井戸端は、その噂で持ちきつた日の夕景、――錢形平次のところに相變らずガラツ八の八五郎が、この情報を持ち込んで來たのです。 「こいつは驚くでせう。誰が何んと言つたつて、運慶とか湛慶
野村胡堂
不動明王の木像が、その右手に持った降魔の利剣で、金貸叶屋重三郎を突き殺したという、江戸開府以来の大騒ぎがありました。 八百八町には、その日のうちに呼び売りの瓦版が飛んで、街々の髪結床や井戸端は、その噂で持ちきった日の夕景、――銭形平次のところに相変らずガラッ八の八五郎が、この情報を持ち込んで来たのです。 「こいつは驚くでしょう。誰がなんと言ったって、運慶とか
野村胡堂
ガラッ八の八五郎はぼんやり日本橋の上に立っておりました。 御用は大暇、懐中は空っぽ、十手を突っ張らかしてパイ一にあり付くほどの悪気はなく、このあいだ痛めたばかりの銭形の親分のところへ行って、少し借りるほどの胆も据わりません。 夕映えの空にくっきりと浮いた富士を眺めながら、歌にも俳諧にも縁の遠い思案をしていると、往来の人はジロジロ顔を見て通ります。どう面喰らっ
野村胡堂
「こいつは可哀想だ」 銭形平次も思わず顔を反けました。ツイ通りすがりに、本郷五丁目の岡崎屋の娘が――一度は若旦那の許嫁と噂されたお万という美しいのが、怪我(事故)で死んだと聴いて顔を出しますと、手代の栄吉がつかまえて、死にように不審があるから、一応見てくれと、いやおう言わさず、平次を現場へ案内したのです。 それは三月の四日、雛祭もいよいよ昨日で済んで、女の子
野村胡堂
「こいつは可哀想だ」 錢形平次も思はず顏を反けました。ツイ通りすがりに、本郷五丁目の岡崎屋の娘が――一度は若旦那の許嫁と噂されたお萬といふ美しいのが、怪我で死んだと聽いて顏を出しますと、手代の榮吉がつかまへて、死にやうに不審があるから、一應見てくれと、厭應言はさず、平次を現場へ案内したのです。 それは三月の四日、雛祭もいよ/\昨日で濟んで、女の子にはこの上も
野村胡堂
「フーム」 要屋の隱居山右衞門は、芝神明前のとある夜店の古道具屋の前に突つ立つたきり、暫くは唸つてをりました。 胸が大海の如く立ち騷いで、ボーツと眼が霞みますが、幾度眼を擦つて見直しても、正面の汚い臺の上に載せた茶碗が、運の惡い人は一生に一度見る機會さへないと言はれた井戸の名器で、しかも夜目ながら、息づくやうな見事さ。總體薄枇杷色で、春の曙を思はせる釉の流れ