同志下司順吉
槙村浩
―――同志よ固く結べ 生死を共にせん ―――いかなる迫害にも あくまで屈せずに ―――われら若き兵士プロレタリアの それは牢獄の散歩の時間だった 独房の前で彼のトランクを小脇に抱えているむかしの友 同志下司と彼の口笛に七年ぶりで出あったのは! 彼は勇敢な、おとなしい、口笛の上手な少年だった だが夏の朝の澄明さに似たあわたゞしい生活が流れてから 境遇と政治
Biblioteca de conocimiento mundial de dominio público
槙村浩
―――同志よ固く結べ 生死を共にせん ―――いかなる迫害にも あくまで屈せずに ―――われら若き兵士プロレタリアの それは牢獄の散歩の時間だった 独房の前で彼のトランクを小脇に抱えているむかしの友 同志下司と彼の口笛に七年ぶりで出あったのは! 彼は勇敢な、おとなしい、口笛の上手な少年だった だが夏の朝の澄明さに似たあわたゞしい生活が流れてから 境遇と政治
槙村浩
彼は越知の狭い町はづれの小作兼自作農の家に生れたそしてこんな南国の山麓の息子たちがそうであるように十八の彼は嶺を越え花崗岩のはすに削られた灰青色の岬の燈台をぐっと海のはてに斜めに回転させそして戸畑の炭坑にスコップをとった 彼は間もなくたくましい労働組合の一員だった彼の上にはすぐれた同僚今村恒夫氏がいた彼等の突撃隊は耳朶の後にピストルを聞きながら断崖のきりぎし
豊島与志雄
同感 豊島与志雄 私は動物が好きだ。金と余暇と土地とがあったら、出来得る限りさまざまの動物を飼いたい。それも、狭い檻や籠や水器にではない。少くとも見た目に彼等の不自由を感じないほどの場所に、伸びやかに放ち飼いにして、その中に自分をも置きたい。――そういうことを云うと、誰でも大抵は賛成する。そういう欲求は、誰でも大抵持っているものとみえる。ところが、二三の友人
太宰治
自分と同年同月同日に生れたひとに對して、無關心で居られるものであらうか。 私は明治四十二年の六月十九日に生れたのであるが、この「鱒」といふ雜誌の編輯をして居られる宮崎讓氏も亦、明治四十二年の六月十九日に生れたといふ。 七、八年も前の事であるが、私は宮崎氏からお手紙をもらつた。それにはだいたい、次のやうな事柄が記されてあつたと記憶してゐる。 文藝年鑑に依つて、
宮本百合子
ソヴェト同盟の三月八日 宮本百合子 朝 モスクワ煙草工場に働いているニーナは、例によって枕元の眼醒ましの音でハッと目をさました。 いそいで服を着て、水道の冷たい水で顔を洗い、冷水摩擦をやっているうちに、ニーナはだんだんうれしい心持になってきて、思わず小声で「インターナショナル」をうたいだした。 今日は三月八日だ! 女の日だ。世界の働く婦人たちが手をつなぎ、プ
宮本百合子
ソヴェト同盟の音楽サークルの話 宮本百合子 この頃、日本でもあっちこっちで文化サークルや音楽サークルが出来てプロレタリヤ文化の高まりがわかり、実に愉快です。ソヴェト同盟は御承知の通り労働者の勝利した国だからそう云う音楽サークルなどでものびのびと至極便利にやっている。労働者クラブには大抵のところに音楽サークルがある。室を一つちゃんと持って、ドアをあけて入って見
豊島与志雄
同胞 豊島与志雄 恒夫は四歳の時父に死なれて、祖父母と母とだけの家庭に、独り子として大事に育てられてきた。そして、祖父から甘い砂糖菓子を分けて貰い、祖母から古い御伽話や怪談を聞き、母の乳首を指先でひねくることの出来るうちは、別に何とも思わなかったが、小学校から中学校へ進んで、それらのことがいつしか止み、顔に一つ二つ面皰が出来、独り勝手な空想に耽る頃になると、
折口信夫
渡嘉敷守良君が戦争中を無事でゐたことは、何にしても、琉球芸能にとつて幸であつたと思ふ。戦争前に新垣松含が亡くなり、又最幸福さうに見えて、定めて円満な晩年を遂げるだらうと思つてゐた玉城盛重老人が、国頭のどこかの村で、斃れ死んだと聞いてゐる。そんな中に、恰も琉球芸能の命脈を、この程度につゞけて行つてくれると言ふことは、芸能人にとつて、どれ程喜んでよい為事か訣らな
牧野信一
僅々一枚か二枚の六号どうしても書けない、書けないといふ事を誇張するわけではない。書く事はいくらでもあるやうで、憤懣や希望や喜悦や悲哀は少なからず持つてゐるやうだが、それが事実余りに強く余りに見苦しいもののやうな感じさへして、書き度くないと思ふ。他人のそでにすがつても訴へ度い悲しみや……は感じてゐるけれども、「いざ云はう」となると「云つたつて仕様がない」と思つ
宮沢賢治
われはダルケを名乗れるものと つめたく最後のわかれを交はし 閲覧室の三階より 白き砂をはるかにたどるこゝちにて その地下室に下り来り かたみに湯と水とを呑めり そのとき瓦斯のマントルはやぶれ 焔は葱の華なせば 網膜半ば奪はれて その洞黒く錯乱せりし かくてぞわれはその文に ダルケと名乗る哲人と 永久のわかれをなせるなり ●図書カード
野呂栄太郎
名人上手に聴く 野呂栄太郎 もう三、四カ月も前であったと思うが、偶然の機会に、木村八段の将棋講座のラジオ放送を聞いた。飛車落ち定石の説明のようであったが、私の聞いたのはその終わりの五、六分間である。木村八段はそこで、「上手に対して飛車落ち程度でさせるようになると、そろそろ定石を無視して自己流の差し方をするものであるが、それは厳重に慎まねばならぬ。よく人は、こ
中島敦
名人傳 中島敦 趙の邯鄲の都に住む紀昌といふ男が、天下第一の弓の名人にならうと志を立てた。己の師と頼むべき人物を物色するに、當今弓矢をとつては、名手・飛衞に及ぶ者があらうとは思はれぬ。百歩を隔てて柳葉を射るに百發百中するといふ達人ださうである。紀昌は遙々飛衞をたづねて其の門に入つた。 飛衞は新入の門人に、先づ瞬きせざることを學べと命じた。紀昌は家に歸り、妻の
中島敦
名人伝 中島敦 趙の邯鄲の都に住む紀昌という男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。己の師と頼むべき人物を物色するに、当今弓矢をとっては、名手・飛衛に及ぶ者があろうとは思われぬ。百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中するという達人だそうである。紀昌は遥々飛衛をたずねてその門に入った。 飛衛は新入の門人に、まず瞬きせざることを学べと命じた。紀昌は家に帰り、妻の
萩原朔太郎
名は性を現はすといふのは、どういふ所に根拠してゐるのか知らないが、剛蔵必しも剛直人でなく、貞子必しも貞女でないことは、多数の実例によつて明々白々のことである。しかし徳川家康といふ名が、いかにも老獪堅実の政治家を聯想させ、明智光秀といふ名が、いかにも神経質で知性的インテリ武人を聯想させるのは事実である。これは我々仲間の文人でも同じことで、尾崎紅葉、泉鏡花、島崎
黒島伝治
名勝地帯 黒島伝治 そこは、南に富士山を背負い、北に湖水をひかえた名勝地帯だった。海抜、二千六百尺。湖の中に島があった。 見物客が、ドライブしてやって来る。何とか男爵別荘、何々の宮家別邸、缶詰に石ころを入れた有名な奴の別荘などが湖畔に建っていた。 小川米吉は、そこへ便所を建てた。便所は屋根が板屋根で新しかった。「駐在所の且那が、おめえに、一寸、来いってよオ。
小酒井不木
名古屋スケツチ 小酒井不木 はしがき 『名古屋、おきやあせ、すかたらん』 誰が言ひだしたか、金の鯱鉾に、先祖代々うらみを持つた人でもあるまいに、まんざら捨てたものでもない名古屋の方言から、『おきやあせ、すかたらん』を選んで、その代表的のものとするなど、まことにすかたらん御仁と申すべきである。 だが、どうも、その方言の響がミユージカルでないことは、いくら慾目で
国枝史郎
故小酒井不木氏は名古屋市に於ける寵児であった。あらゆる会合へ引っ張り出され、さまざまの講演会へ引っ張り出され、驚くばかりに多方面の人に、訪問をされ、氏に於いてもいろいろの人を訪ねた。新愛知新聞社や名古屋新聞社や、名古屋毎日新聞社などでは、氏を殆ど引っ張り凧にした。かと思うと氏は素人の芝居などの、舞台監督をやられたり、キャフェーへ出かけて談笑したり、諸方面の歓
幸田露伴
名工出世譚 幸田露伴 一 時は明治四年、処は日本の中央、出船入船賑やかな大阪は高津のほとりに、釜貞と云へば土地で唯一軒の鉄瓶の仕上師として知られた家であつた。主人は京都の浄雪の門から出た昔気質の職人肌、頑固の看板と人から笑はれてゐた丁髷を切りもやらぬ心掛が自然その技の上にあらはれて、豪放無類の作りが名を得て、関東関西の取引の元締たる久宝寺町の井筒屋、浪花橋の
新美南吉
南のほうのあたたかい町に、いつもむっつりと仕事をしている、ひとりの年とった木ぐつ屋がありました。目はぞうのように小さく、しょぼしょぼしていましたが、それにひきかえ、鼻とてのひらが、人一ばい大きく、そのうえぶかっこうでした。 けれど、そのぶかっこうな両手が、なんという、かっこうのよい木ぐつを、つぎつぎとつくったことでありましょう。まるで魔法つかいの両手が、小さ
薄田泣菫
名文句 薄田泣菫 米国のボストンにペン先の製造業者がある。数多い同業者を圧倒して、店のペン先を売り弘めようとするには、何でも広告を利用する外には良い方法が無かつた。で、一千弗の懸賞附で、ペンに関する独創的な名文句を募集する事に定めた。 懸賞附の広告が発表せられると、方々から応募原稿が山のやうに集まつて来た。整理係が汗みづくになつて、それを取り調べてゐると、な
喜田貞吉
同じ日本の国土に生を営む一部の人民に対して、「穢多」という極めて同情のない文字を用い始めたのは、いつの頃、何人の仕業であるか、思えば罪の深い事をしたものである。 この文字の為にその仲間の者が社交上蒙る不利益は、実に夥しいものである。非人は足洗をして素人になる道もあるが、エタは人そのものが穢れているからというので、徳川時代に於いては、遠州の或る地方を除いては、
喜田貞吉
自分は昨年一月の本誌神祇祭祀号において少彦名命の研究を発表した中に、説たまたま谷蟆の事から、引いてクグツ(傀儡)の名義にまで一寸及んだ事であった。それには、古事記に少彦名命の事を知っておるものが久延毘古であり、その事を大国主神に申し上げたものが多邇具久であったという、その谷蟆とは傀儡子の事ではなかろうかというのであった。すなわちクグツは蟆人の義ではなかろうか
小川未明
名も知らない草に咲く、一茎の花は、無条件に美しいものである。日の光りに照らされて、鮮紅に、心臓のごとく戦くのを見ても、また微風に吹かれて、羞らうごとく揺らぐのを見ても、かぎりない、美しさがその中に見出されるであろう。 思うに、見出そうとすれば、美は、この地上のどんなところにも存在する。たゞ見る人が謙虚にして、それに対して考うるだけの至誠があれば足りるものだ。
中原中也
名詞の扱ひに ロヂックを忘れた象徴さ 俺の詩は 宣言と作品との関係は 有機的抽象と無機的具象との関係だ 物質名詞と印象との関係だ。 ダダ、つてんだよ 木馬、つてんだ 原始人のドモリ、でも好い 歴史は材料にはなるさ だが問題にはならぬさ 此のダダイストには 古い作品の紹介者は 古代の棺はかういふ風だつた、なんて断り書きをする 棺の形が如何に変らうと ダダイスト