西林図
久生十蘭
冬木が縁の日向に坐って、懐手でぼんやりしているところへ、俳友の冬亭がビールと葱をさげてきて、今日はツル菜鍋をやりますといった。 「ツル菜鍋とは変ってるね」 「ツル菜じゃない、鶴……それも、狩野流のリウとした丹頂の鶴です。鶴は千年にして黒、三千年にして白鶴といいますが、白く抜けきらないところがあるから、二千五百年くらいのやつでしょう」 「そんなものなら自慢する
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久生十蘭
冬木が縁の日向に坐って、懐手でぼんやりしているところへ、俳友の冬亭がビールと葱をさげてきて、今日はツル菜鍋をやりますといった。 「ツル菜鍋とは変ってるね」 「ツル菜じゃない、鶴……それも、狩野流のリウとした丹頂の鶴です。鶴は千年にして黒、三千年にして白鶴といいますが、白く抜けきらないところがあるから、二千五百年くらいのやつでしょう」 「そんなものなら自慢する
夏目漱石
西洋にはない 夏目漱石 俳諧の趣味ですか、西洋には有りませんな。川柳といふやうなものは西洋の詩の中にもありますが、俳句趣味のものは詩の中にもないし、又それが詩の本質を形作つても居ない。日本獨特と言つていゝでせう。 一體日本と西洋とは家屋の建築裝飾なぞからして違つて居るので、日本では短冊のやうな小さなものを掛けて置いても一の裝飾になるが、西洋のやうな大きな構造
三遊亭円朝
西洋の丁稚 三遊亭円朝 エー若春の事で、却つて可笑みの落話の方が宜いと心得まして一席伺ひますが、私は誠に開化の事に疎く、旧弊の事ばかり演つて居りますと、或る学校の教員さんがお出でで、お前はどうも不開化の事ばかり云つて居るが、どうか然うなく開化の話をしたら宜からう、西洋の話をした事があるかと仰しやいました、左様でございます、マア続いた事は西洋のお話もいたしまし
岸田国士
西洋映画は何故面白いか? 岸田國士 かういふ問題はどういふ範囲の人々に興味があるかわからぬが、本誌「トツプ」の読者は、映画の専門家でないにしても、相当高級映画フアンであらうと思ふし、さうなら、日本映画の優秀作が、西洋の普通の水準にまで達してゐないことを万々気付いてをられる筈であるから僕と一緒にひとつこの問題を考へていただきたい。 今はそんなことを実際に考へて
中谷宇吉郎
アルゼンチンから来ている氷河学者から、南米インディアンの料理の話を聞いた。クラントウというのだそうで、原理からいえば、鯛の浜焼のようなものであって、別に珍しい話ではないかもしれないが、ただ規模の大きいところが、ちょっと変っている。これは野外で、大勢の仲間があつまって食事をする場合に限られている。アルゼンチンの草原の広々としたところが舞台である。 まず地面に大
スミスコードウェイナー
一人の火星人と 三人の共産主義者の 出任せ話でございます 火星人は御影石の小さな断崖の上に座っていた。そよ風を楽しめるように小ぶりな樅の木の形態を取っている。尖った常緑樹の葉の間を風が気持ちよく吹いていった。 崖下に一人のアメリカ人が立っていた。火星人が目にした初めてのアメリカ人である。 アメリカ人はポケットから魅惑的なまでに巧妙な装置を取り出した。金属製の
野上豊一郎
「西洋見學」はしがき 野上豐一郎 昭和十三年(一九三八年)十月一日、郵船靖國丸でヨーロッパへ向つて神戸を出帆し、翌十四年(一九三九年)十一月十八日、郵船淺間丸でアメリカから横濱に入港した。 旅行の目的は、イギリスの諸大學で、交換教授として、能の藝術理論を中心として日本文化の特質について講義することであつた。講義したのは、ケインブリヂ、オクスフォド、ロンドン、
田中貢太郎
西湖主 田中貢太郎 陳弼教は幼な名を明允といっていた。燕の人であった。家が貧乏であったから、副将軍賈綰の秘書になっていた。ある時賈に従って洞庭に舟がかりをしていると、たまたま大きな猪婆龍が水の上に浮いた。賈はそれを見て弓で射た。矢はその背に中った。他に小さな魚がいて龍のしっ尾を銜んで逃げなかった。そこで龍とその魚を獲って、じょうをおろして帆柱の間に置いてあっ
海野十三
西湖の屍人 海野十三 1 銀座裏の酒場、サロン船を出たときには、二人とも、ひどく酩酊していた。 私は私で、黄色い疎らな街燈に照らしだされた馴染の裏街が、まるで水の中に漬っているような気がしたし、帆村のやつは帆村のやつで、黒いソフトを名猿シドニーのように横ちょに被り、洋杖がタンゴを踊りながら彼の長い二本の脛をひきずってゆくといった恰好だった。 私はそれでも、ロ
国枝史郎
私の負傷は癒えなかったけれど、故郷を出てから六月目に、それでもマドリッドへ帰って来た。 私は誰にも逢わなかった。又逢いたいとも思わなかった。しかし、親友のドン・ムリオだけには逢って見たいような気持がした。 「カスピナに逢うのも悪くはない。私は誰でも構わない。慰めてくれる人が欲しいのだ」 ドン・ムリオの一人の妹、十九のカスピナが久しい前から、私を愛してくれてい
佐藤春夫
フラテ(犬の名)は急に駆け出して、蹄鍛冶屋の横に折れる岐路のところで、私を待っている。この犬は非常に賢い犬で、私の年来の友達であるが、私の妻などは勿論大多数の人間などよりよほど賢い、と私は信じている。で、いつでも散歩に出る時には、きっとフラテを連れて出る。奴は時々、思いもかけぬようなところへ自分をつれてゆく。で近頃では私は散歩といえば、自分でどこへ行こうなど
永井荷風
持てあます西瓜ひとつやひとり者 これはわたくしの駄句である。郊外に隠棲している友人が或年の夏小包郵便に托して大きな西瓜を一個饋ってくれたことがあった。その仕末にこまって、わたくしはこれを眺めながら覚えず口ずさんだのである。 わたくしは子供のころ、西瓜や真桑瓜のたぐいを食うことを堅く禁じられていたので、大方そのせいでもあるか、成人の後に至っても瓜の匂を好まない
岡本綺堂
西瓜 岡本綺堂 一 これはM君の話である。M君は学生で、ことしの夏休みに静岡在の倉沢という友人をたずねて、半月あまりも逗留していた。 倉沢の家は旧幕府の旗本で、維新の際にその祖父という人が旧主君の供をして、静岡へ無禄移住をした。平生から用心のいい人で、多少の蓄財もあったのを幸いに、幾らかの田地を買って帰農したが、後には茶を作るようにもなって、士族の商法がすこ
牧野信一
滝が仕事を口にしはじめて、余等の交際に少なからぬ変化が現れて以来、思へば最早大分の月日が経つてゐる。それは、未だ余等が毎日海へ通つてゐた頃からではないか! それが、既に蜜柑の盛り季になつてゐるではないか! 村人の最も忙しい収穫時である。静かな日には早朝から夕暮れまで、彼方の丘、此方の畑で立働いてゐる人々の唄声に交つて鋏の音が此処に居てもはつきり聞える。数百の
三木清
西田先生のことども 三木清 一 大正六年四月、西田幾多郎博士は、東京に来られて、哲学会の公開講演会で『種々の世界』という題で、話をされた。私は一高の生徒としてその講演を聴きに行った。このとき初めて私は西田先生の謦咳に接したのである。講演はよく理解できなかったが、極めて印象の深いものであった。先生は和服で出てこられた。そしてうつむいて演壇をあちこち歩きながら、
坂口安吾
西荻随筆 坂口安吾 丹羽文雄の向うをはるワケではないが、僕も西荻随筆を書かなければならない。どうしても、西荻随筆でなければならないようである。 西荻窪のTという未知の人から手紙がきた。ひらいてみると、約束の日にいらっしゃいませんでしたが、至急都合をつけて来て下さい、という意味の文面で、日蝕パレス(仮名)女給一同より、となっている。 私は、西荻窪という停車場へ
下村湖人
憤怒に打ち克つもの、それはただ慈心のみである。世に、対立を超越したものほど、尊く、高く、かつ強きものはない。 平安朝もおわりに近いころ、北面の武士から、年わかくして仏門にはいった二人の偉丈夫があった。その一人は佐藤義清、もう一人は遠藤盛遠である。義清は二十三歳、盛遠は十八歳で剃髪した。前者は一所不住の歌人西行、後者は高雄神護寺の荒行者文覚である。 おなじく仏
中谷宇吉郎
子供の頃読んだ本の中で、一番印象に残っているのは、『西遊記』である。 もう三十年も前の話であり、特に私たちの育った北陸の片田舎には、その頃は子供のための本などというものはなかった。 子供たちは、大人の読み古した講談本などを、親に叱られながら、こっそり読んでいた。その頃盛に出ていた小波氏の「世界お伽噺」のようなものも滅多に手に入らなかった。 あの一冊十銭かの本
牧野信一
「西部劇通信」に収めた諸篇――「川を遡りて」から「出発」まで――は、私のこの五年間の、主なる作品である。私は、在りのまゝの生活、観たまゝの世界を、そのまゝに描く写実派の作家ではありませぬが、作品が生活の反影――私にとつては寧ろ生活が作品の反影とも云ひたい――であることは勿論で、斯うして一まとめにして見ると今更ながら様々な感慨に打たれます。 私が、この前の東京
牧野信一
「西部劇通信」に収めた諸篇――「川を遡りて」から「出発」まで――は、私のこの五年間の、主なる作品である。私は、在りのまゝの生活、観たまゝの世界を、そのまゝに描く写実派の作家ではありませぬが、作品が生活の反影――私にとつては寧ろ生活が作品の反影とも云ひたい――であることは勿論で、斯うして一まとめにして見ると今更ながら様々な感慨に打たれます。 私が、この前の東京
ジェンナーエドワード
親しいわが友へ 科学研究の現代において、牛痘のように特別な性質をもつ病気が最近にこの州および近くの州に出現したのに、長期にわたって特別に注目されていないのは驚くべきことである。この問題について、我々と同じ専門の人たちやその他の人たちが極めて無知であり決定的でないことを見出し、事実は全く不可思議なものであり役に立つことを感じたので、私はこの地方の状態が許す範囲
中原中也
その日はカラリと晴れた、やはらかい日射しの、秋の一日だつた。私は暫く麦のよく稔つた田園を歩いた後、フト玉を突いてみたい欲望を抱いた。別にしたいこととてもないその午後に、一つの欲望が湧いたといふことはひどく私を有頂にした。 やがて最初に目に入つた玉屋に這入ると、部屋は明るくガランとしてゐて、温室のやうだつた、客の腰掛場になつてゐる、畳二枚を縦に並べた場所の、そ
小山清
こないだ電車の中で新国劇の「大菩薩峠」上演の広告ビラを見かけた。中里介山居士追善興行としてあった。この芝居の上演も久し振りな気がする。介山居士は戦争中、生れ在所の西多摩郡の羽村で急逝された。あれは何年のことであったろうか。救世軍の秋元巳太郎氏が葬儀委員長をされたという簡単な新聞記事を読んだ記憶がある。逝くなられた月日のことを私は覚えていない。また今年は何回忌
田山花袋
西鶴は大阪人ではあるけれども、それ以上に深い処を持つてゐると私は思ふ。西鶴が利己、打算、軽い遊び、さういふものゝ空気の中に一度は浸つた人であることは首肯かれる。又一方幇間らしい軽佻な気分の中にはしやぎ切つた人だとも思はれる。しかしそこに満足してゐることの出来る人ではなかつたことだけは確かである。渠は世間一般の混雑した事実の上に一歩高く身を置いて、或は嗟き、或