光は影を
岸田国士
長い戦争をはさんで、まる七年目に、京野等志は、変りはてた祖国の土を踏み、漠然と父母兄弟がそのまゝ以前のところに住んでいるなら、という期待だけで、自然に東京へ向つて二昼夜の汽車の旅をつづけて来たのである。彼は途中、ふらふらと大阪で降りた。同行の誰かれが不審がるのを、笑つて理由は言わず、駅からまつすぐに勝手を知つた心斎橋へ地下鉄で出て、焼跡に建ち並んだバラックの
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岸田国士
長い戦争をはさんで、まる七年目に、京野等志は、変りはてた祖国の土を踏み、漠然と父母兄弟がそのまゝ以前のところに住んでいるなら、という期待だけで、自然に東京へ向つて二昼夜の汽車の旅をつづけて来たのである。彼は途中、ふらふらと大阪で降りた。同行の誰かれが不審がるのを、笑つて理由は言わず、駅からまつすぐに勝手を知つた心斎橋へ地下鉄で出て、焼跡に建ち並んだバラックの
岸田国士
葉村ヨシエと佐原あつ子とは、いづれもある官庁の文書課に勤めてゐるタイピストで、二人は採用試験のあつた日にはじめて口をきき、希望がかなつていよいよ役所に顔を出すと、そこでもまたお互に幸運をよろこび合ひ、それ以来まる三年、机を並べて仕事をしてゐる間柄である。 ヨシエの生れは北海道旭川で、父親は林檎と除虫菊の可なり大規模な農園を経営し、彼女が旧制女学校を終へると、
岸田国士
もう、その年の秋も暮れようとしていた。 その年とは、長い戦いがすみ、来たるべきものが来たり、きびしい祖国の運命を告げ知らされた年である。 信州のI市に近い山村の国民学校で、きようも校長を中心に研究会が開かれ、今後の新しい、教育の問題について、まだなんとなく地につかない討論をしたあとで、四五名の教員がストーブを囲んで雑談を続けていた。 「それはそうとね、きよう
岸田国士
父は旅行、母は買物、兄は散歩といふわけで、珍しく民子一人が、縁側で日向ぼつこをしてゐるところへ、取次も乞はず、義一がのつそり庭伝ひにはひつて来た。 「あら、だあれも出なかつた?」 「呼んでもみなかつた。」 「物騒ね。」 「ねらつてゐる奴がゐるからな。」 さう云つて、東義一は、民子の顔をじろ/\見直した。 「へえ、今日は日本の着物を着てるんだな。似合ふよ、なか
岸田国士
弘子はいま幸福の絶頂にあつた。 夫の節蔵は奏任待遇になるし、一人息子の忠は麻疹を軽くすますし、恐る/\かけたパーマネントは自分ながらよく似合ふし、月八円ではじめて傭つた女中は田舎出のわりに気が利くし、家主は二つ返事で畳替をしてくれるし、まつたく、これで月給がもう二十円ほど余計であつたら、この世の中に何の不平もないくらゐであつた。 彼女は、数へ年の二十六であつ
岸田国士
北支の戦線から一年半ぶりで故郷の村へ帰つて来た黒岩万五は、砲兵上等兵の軍服を思ひきりよく脱いで、素ツ裸に浅黄の腹掛けといふ昔どほりの恰好になつた。今日だけは麦藁帽が見つからず、しかたがない、当節誰でもがかぶつてゐる戦闘帽の星をもぎつたのをきちんと頭にのせて出た。 なにはともあれ、立花伯爵の山荘へ挨拶に行かねばならぬ。裏の木戸は押せば開く。勝手口には顔見知りの
岸田国士
郷田梨枝子は、叔母と並んで東京駅のプラット・フォームに立つてゐる。そして、今着いたその汽車から降りて来る筈の父親の顔をちつとも覚えてゐないのである。 「すぐ教へてね、叔母さま……。いやだわ、いろんな人が顔を突き出して……」 「ああ、お待ちなさいつてば……。あたしだつて間違ふかも知れないよ」 心細い話だが、これも十年会はないうちに、兄がどんなに変つてしまつたか
岸田国士
無理やりに父の隣に坐らされた千種は、広い食堂の一隅に設けられた婦人連の席へ、僅かに晴れがましい微笑を投げてゐた。 芝公園の深い木立の中の、古風な、しかし落ちついた西洋料理店である。 羊頭塾三十周年記念祝賀会御席といふ貼紙が、まだ眼に残つてゐる。二百に近い顔が並んでゐるが、三分の二以上は、まるつきり見覚えのない顔である。それが何れも自分の生れる前に、或はまだ自
岸田国士
『博物誌』という題は“Histoires Naturelles”の訳であるが、これはもうこれで世間に通った訳語だと思うから、そのまま使うことにした。 フランスにおける原著の最初の出版は一八九六年で、四十五の項目しかなかった。一九〇四年にフラマリオン社から出たのが、まず当時の決定普及版と言ってよく、七十項目から成っている。この訳はそれに拠ったものである。ボナー
岸田国士
川村節子さんは、未だ嘗て、人のせぬことをしたことはなかつた。それほど、目立つことが嫌ひであり、異を樹てるといふことに趣味はなかつた。 ところが、たつた一つ、今度といふ今度は、人のせぬことを、ついしてしまつた。夫の周作が不機嫌な顔をするのも無理はない。 それは、新聞に、婦人の標準服といふものが図解入りで発表された、その日、川村節子さんは、式服を除いて、持つてゐ
岸田国士
暖地の冬から山国の春へ 岸田國士 私は今湘南小田原の海岸近くに住んでゐるが、予期した通りの暖かさで、先日の大雪の日も、東京で無理をして品川からやつと電車を拾ひ、日が暮れて小田原の駅を降りると、驚いたことに、うつすらとしか雪の降つた形跡がない。 梅の花も熱海や湯河原より少しおくれるだけで、二月にはいるともう見頃はとうに過ぎて、城跡の公園は朝から霜どけの道に悩ま
岸田国士
舞台の言葉 岸田國士 舞台の言葉、即ち「劇的文体」は、所謂、白(台詞)を形造るもので、これは、劇作家の才能を運命的に決定するものである。 普通「対話」と呼ばれる形式は、文芸の凡ゆる作品中に含まれ得る文学の一技法にすぎないが、これが「劇的対話」となると、そこに一つの約束が生じる。それはつまり、思想が常に感情によつて裏づけられ、その感情が常に一つの心理的韻律とな
岸田国士
時計とステッキ 岸田國士 私は、今、時計といふものを持つて歩かない。時間を超越するほど結構な生活をしてゐる訳ではないが、時計を持つてゐなくつても、どうやら用事は足りるのである。そのかはりどこへ行つても、時間を知りたい時には、時計を持つてゐさうな人に、「いま何時?」と問ひかける。時間をきめて人を訪ねる時など、その家の近所へ辿りつくと、軒並みに薄暗い店のなかへ、
相馬愛蔵
私は商業に何の経験もなくて一商店主となったものであります。従って既往幾百年の間に、商人がその経験から受け継いで来た商売の掛引その他については、何の知識をも持っていないのであります。さらに在来の商人が伝来の風習によってかえって商人道の真髄に遠ざかる憾みあることを感じ、むしろ素人を以て誇りとするものであります。 また欧米諸国の商売振りについても、これを会得する機
相馬愛蔵
この書には中村屋創立当時から現在までの推移をほぼ年代を追うて述べているが、店の歴史を語る主意ではない。店員たちに平素抱いている私の考えを取りまとめて話したいと思い、すべて自分の体験に即して商人の道を語ろうとしたので、勢いこの体系をなすに至った。私の店は、累代のしにせでもなければ親譲りの商家でもない。元来私は農家出で、一書生として青年期を送り、たまたま志を商売
須川邦彦
これは、今から四十六年前、私が、東京高等商船学校の実習学生として、練習帆船琴ノ緒丸に乗り組んでいたとき、私たちの教官であった、中川倉吉先生からきいた、先生の体験談で、私が、腹のそこからかんげきした、一生わすれられない話である。 四十六年前といえば、明治三十六年、五月だった。私たちの琴ノ緒丸は、千葉県の館山湾に碇泊していた。 この船は、大きさ八百トンのシップ型
下村湖人
人生は不断の出発 人生は不断の出発であります。生れた時が出発であるばかりでなく、それからの刻一刻が新しい出発であります。眠る時間はそうでもなかろうという人があるかも知れませんが、それも明日を用意しつつあるという意味で、まぎれもなく出発であります。健康な眠りは健康な明日への出発を意味し、不健康な眠りは不健康な明日への出発を意味するのであります。 こうして出発は
下村湖人
東洋を知るには儒教を知らなければならない。儒教を知るには孔子を知らなければならない。そして孔子を知るには「論語」を知らなければならない。「論語」は実に孔子を、従って儒教を、また従って東洋を知るための最も貴重な鍵の一つなのである。 ☆ 「論語」は、孔子の言行を主とし、それに門人たちの言葉をも加えて編纂したものであるが、すべて断片的で、各篇各章の間に、何等はっき
下村湖人
論語は「天の書」であると共に「地の書」である。孔子は一生こつこつと地上を歩きながら、天の言葉を語るようになった人である。天の言葉は語ったが、彼には神秘もなければ、奇蹟もなかった。いわば、地の声をもって天の言葉を語った人なのである。 彼の門人達も、彼にならって天の言葉を語ろうとした。しかし彼等の多くは結局地の言葉しか語ることが出来なかった。中には天の響を以て地
坂口安吾
私は二ヶ月前からゴルフをはじめた。しかしゴルフ道具一式は何年も前から持っていた。ゴルフ靴もボールも何ダースも買いこんで持っていたが、二ヶ月前までゴルフをやらなかったのである。 なぜやらなかったかというとむろん然るべき理由はある。そしてそれは一つの訓戒を守ったためであるけれども、訓戒を守ることは大切だということを、その結果として近ごろ痛感しているのである。 私
坂口安吾
大井広介に始めて会つたのは昭和十五年大晦日午後七時、葉書で打合せて雷門で出会つた。その晩、大井広介は至極大真面目で、自分はインチキ・レビューの愛好家で、女性美はレビューの動きに極致があると信じてゐるから、自分の娘もレビューガールにするつもりである。三つの頃からレビューを見せて仕込んでゐるが、足が長くレビューガール向きの身体のくせに、生れつき踊りの才能がなくて
坂口安吾
――首縊つて死んぢまへ! お前が、さう言つたんぢやないか。早く首縊れつたら。莫迦莫迦莫迦ア! なぜ早く首縊らないのだ―― 家の裏手には一面に、はや年を経た孟宗のひつそりとした林が深い。朝朝の陽射しが水泡のやうにキラキラと濡れて、深い奥にもまばらに零れ、葉が落ちて濡れてふやけた篁の土肌から、いきれた臭気がムウンと顔に噎せながら其処ら一面に澱んでゐる――その篁が
坂口安吾
講談先生 坂口安吾 僕は天性模倣癖旺盛で、忽ち人の感化を受けてしまう。だから、人の影響はのべつ受けてばかりいて、数えあげればキリがない。けれども、この人には負けたくない、というような敵意を持つ場合もあるもので、この人の作品を読むと惹きこまれるから、もう読むまいと決心するようなこともあった。これが本当の影響を与えた人かも知れないが、こういう本当の書斎の中へは他
坂口安吾
その一 加茂五郎兵衛の加茂は古い姓です。加茂の地名や賀茂神社など諸国に見られ、之は上古に於ける加茂族の分布を示すもので、神代の頃加茂族なる一部族があり、後世諸国に分散定住し祖神を祀って賀茂神社と称した。この部族の生業は鍛冶ではなかったか、ということが今日一部の民族学者によって言われておりますが、加茂族だの諏訪族、三輪族など、之等は先ず国神系統の代表的な氏族で