ものの影
豊島与志雄
ものの影 豊島与志雄 池、といっても、台地の裾から湧き出る水がただ広くたまってる浅い沼で、その片側、道路ぞいに、丈高い葦が生い茂り、中ほどに、大きな松が一本そびえている。そのへんを、俗に一本松と呼ばれていて、昼間は田舎びた風情があり、夜分はちと薄気味わるい。 この一本松のところを、或る夜遅く、島野彦一は通りかかった。焼酎にしたたか酔って、頭脳はからっぽ、足は
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豊島与志雄
ものの影 豊島与志雄 池、といっても、台地の裾から湧き出る水がただ広くたまってる浅い沼で、その片側、道路ぞいに、丈高い葦が生い茂り、中ほどに、大きな松が一本そびえている。そのへんを、俗に一本松と呼ばれていて、昼間は田舎びた風情があり、夜分はちと薄気味わるい。 この一本松のところを、或る夜遅く、島野彦一は通りかかった。焼酎にしたたか酔って、頭脳はからっぽ、足は
豊島与志雄
影法師 豊島与志雄 一 うしろに山をひかえ前に広々とした平野をひかえてる、低いなだらかな丘の上に、小さな村がありました。村の東の端に、村一番の長者の屋敷がありまして、その塀の外の広場は、子供たちの遊び場所でした。 白く塗った土塀、左手はゆるやかな山すそで、いろんな灌木や草がはえています。前には小さな川が流れていて、魚が泳いでいます。川の向こうと右手の方には、
坂口安吾
この温泉都市でたぶん前山別荘が一番大きな別荘だろう。その隣に並木病院がある。この病院でその晩重大な会議がひらかれていた。集る者、三名。主人の並木先生(五十五歳)剣術使いの牛久玄斎先生(七十歳)一刀彫の木彫家で南画家の石川狂六先生(五十歳)いずれも先生とよばれるほどの三氏である。 「アナタがバカなことを口走るものだから、こういうことになったのですぞ」と並木先生
富永太郎
半缺けの日本の月の下を、 一寸法師の夫婦が急ぐ。 二人ながらに 思ひつめたる前かゞみ、 さても毒々しい二つの鼻のシルヱツト。 生白い河岸をまだらに染め抜いた、 柳並木の影を踏んで、 せかせかと――何に追はれる、 揃はぬがちのその足どりは? 手をひきあつた影の道化は あれもうそこな遠見の橋の 黒い擬宝珠の下を通る。 冷飯草履の地を掃く音は もはや聞えぬ。 半缺
桜間中庸
俊坊はをぢさんの手にぶら下りながら、夜の街通りをゆきました。 海岸へつゞいてゐる通りはアスフアルトの上に打ち水がしてあつて海から吹いてくる風がそのまゝ街の灯にぬれながら凉しく通つてゆきました。 散歩の人たちで街は賑はつて居りました。 常設館からは樂隊の音が流れ出て居りました。お菓子を釣る起重機が二つ、お菓子屋さんの店さきに並んでゐて、白い帽子をかむつた子供が
徳田秋声
芸術論や人生論をやる場合にも劣らぬ否寧ろそれよりもかに主観的に情熱の高まつて来るのは、彼が先輩G――の愛人I子の噂をする時の態度であつたが、その晩彼は彼自身の恋愛的事件について、仄かな暗示をG――に与へたのであつた。G――はI子とちよつと遠ざかつてゐるやうな場合に、I子に関して、共鳴を惜しまない、彼と語るのが一つの慰安であり救ひであつた。彼とはG――の最も愛
末弘厳太郎
役人学三則 末弘厳太郎 ××君 いよいよお役所勤めをされるようになったそうでまことに結構です。ご両親もさだめしお喜びのことと思います。ところでお手紙によると、役人として必要な心得をきかせろというご注文ですが、不幸にしていわゆる役人生活の経験をもたない私には、とうてい官海游泳術その他手近にお役に立つようなことを申し上げる資格がありませんから、ただ平素外部から役
末弘厳太郎
役人の頭 末弘厳太郎 「法治主義」の研究は、現代の国家および法律を研究せんとする者にとって、きわめて大切である。私がそのことをいろいろと考えていた際、たまたま東京日日新聞社から何か書けという依頼を受けて、ふと筆をとったのがそもそも本稿の出来上った由来であって、内容は主として法治国と官僚主義との関係を取り扱ったものである。書いた時期は大正一一年の六月下旬である
折口信夫
役者の一生 折口信夫 一 沢村源之助の亡くなったのは昭和十一年の四月であったと思う。それから丁度一年経って木村富子さんの「花影流水」という書物が出た。木村富子さん、即、錦花氏夫人は今の源之助の継母かに当る人であるから、よい書物の筈である。此には「演芸画報」に載った源之助晩年の芸談なる「青岳夜話」を其儘載せてある。これには又、彼の写真として意味のあるのを相当に
折口信夫
沢村源之助の亡くなつたのは昭和十一年の四月であつたと思ふ。それから丁度一年経つて木村富子さんの「花影流水」といふ書物が出た。木村富子さん、即、錦花氏夫人は今の源之助の継母かに当る人であるから、よい書物の筈である。此には「演芸画報」に載つた源之助晩年の芸談なる「青岳夜話」を其儘載せてある。これには又、彼の写真として意味のあるのを相当に択んで出してゐる。成程、源
木村荘八
役者の顔 木村荘八 羽左衛門を失ったことを転機として――戦争を転機としてと云えば早いが、それではニベも無い――俳優の「顔」も変ったと思います。「俳優」もここには主として歌舞伎(旧劇)畑を云いますが、「顔」を材料にとって述べれば、自然歌舞伎俳優が主となるのは定法でもありましょう。 羽左衛門は、思えば寂しい中で亡くなりました。羽左衛門の死については、文壇で云えば
徳田秋声
彼女の姉だといふ人が、或る日突然竹村を訪ねて来た。 竹村には思ひがけない事であつたが、しかし彼女に若し姉とか兄とかいふ近親の人があるなら、その誰かゞ彼を訪ねてくるのに不思議はない筈であつた。それほど「彼女」は不幸な位置に立たせられてゐた。 彼女といふのは、竹村の若い友人大久保の細君奈美子のことであつた。或ひは世間で言ふ内縁の妻と言つた方が適当かも知れなかつた
宮本百合子
わたしは、もう久しい間、いつかはそのような仕事もしてみたいと思っている一つのたのしみがある。それは、ロマン・ロランによって描かれている魅力のふかい多勢の女性たちについて、こまかくよみくらべ、おどろくような多様さでいのちづけられている彼女たちの存在の意味をこんにちの歴史の中で明瞭にしてみたいという考えである。 一九一七年に、そのころ後藤末雄氏によって訳された「
牧野信一
井伏鱒二の作と人。 斯の題を得て私は、一昨夜彼のこれまでの作品――主として「鯉」から「シグレ島叙景」まで幾篇かの傑作佳作に就いて感ずるところを誌して見た。そして、また、昨夜は、それを書き続ける前に――と思つて、彼の単行本「夜ふけと梅の花」及び「なつかしき現実」の二部を取りあげて読みはじめたところが、凡て雑誌に発表された当時読んだものばかりでありながら、更に感
太宰治
彼は昔の彼ならず 太宰治 君にこの生活を教えよう。知りたいとならば、僕の家のものほし場まで来るとよい。其処でこっそり教えてあげよう。 僕の家のものほし場は、よく眺望がきくと思わないか。郊外の空気は、深くて、しかも軽いだろう? 人家もまばらである。気をつけ給え。君の足もとの板は、腐りかけているようだ。もっとこっちへ来るとよい。春の風だ。こんな工合いに、耳朶をち
浜尾四郎
若し私があなた方のような探偵小説作家だったら、之からお話しようとする事件を一篇の興味深い探偵小説に仕組んで発表するでしょう。然し単に一法律家に過ぎぬ私が、憖じ変な小説を書けば世の嗤いを招くにすぎないでしょうから、私は今、あなた方の前に事件を有りの儘にお話して見ましょう。そうして最後に、未だ世に発表された事のない不思議な手記を読んでお聞かせします。勿論私は、法
小川未明
あてもなくさ迷い歩くというが、やはり、真実を求めているのだ。また美を求めているのだ。なぜなれば、人間は、この憧憬がなければ、生きていられないからだ。 あわれなる流浪者よ、いったい、どこに、その真実が見出され、美が見出されるというのか? そして、いつになったら、汝の流浪の旅は終るというのか? 人間が、この地上に現われた時より、同じく、憧憬は、生れた。南から北へ
宮本百合子
彼等は絶望しなかった 宮本百合子 チェホフやウェルサーエフや、現代ではカロッサ、これらの作家たちが医師であって同時に作家であったことは、彼等にとって比類のない仕合わせ、人類にとっては一つの慰安となっている。 彼等はいずれもそれぞれの時代、それぞれの形で、人間は不合理と紛乱と絶望の頁を経験したが、それでも猶、窮極に人間は絶望しきらず、非合理になりきらず、人生は
浜尾四郎
彼は誰を殺したか 浜尾四郎 一 男でもほれぼれする吉田豊のやすらかな寝顔を眺めながら中条直一は思った。 「こんな美しい青年に妻が恋するのは無理はないことかも知れない。どう考えても俺は少し年をとりすぎている。ただ妻の従弟だと思ッて近頃まで安心していたのは俺の誤りだッた。明日はどうしてもあれを決行しよう」 中条はこんなことを思い耽りつつ、海辺の宿屋の小さい一室で
下川儀太郎
四月十六日! 彼はいなくなった 彼は俺達の眼から消されて行った 寝床は靴に破られ 天井も床下もごみ片迄もさらわれた 昨日まで…… 勝利を背負っていた彼 凱歌のときめきに 闘争に胸をおどらしていた彼 六十三名のブル候補の中に ただ一人の俺達の代表に出た彼 町の労働者と村の農民の勝利の声を背負った彼 彼……労農同盟選出静岡市会議員! 俺達はおどった ゴマかしだら
宮本百合子
往復帖 宮本百合子 要件(婦人部会へ) 四月二十六日(金) 一、出版プランについて (A)婦人のための問答集 二冊 これはもう出版部とお話がついているのでしょうか。※労働組合における婦人組織。 これを第二次に出したく思います。 内容。日本、各国、国際労働会議における各国婦人組織。 誰が執筆者によいでしょうか。※エンゲルス、「家族、私有財産、国家の発生」
竹内浩三
街はいくさがたりであふれ どこへいっても征くはなし 勝ったはなし 三ヶ月もたてばぼくも征くのだけれど だけど こうしてぼんやりしている ぼくがいくさに征ったなら 一体ぼくはなにするだろう てがらたてるかな だれもかれもおとこならみんな征く ぼくも征くのだけれど 征くのだけれど なんにもできず 蝶をとったり 子供とあそんだり うっかりしていて戦死するかしら そ
木村好子
うす暗い長屋のすみで、毎日、 私と坊やは糊まみれ、 糊にまみれてせっせと渋団扇を張るけれど 戦争にあなたを奪われた私の生活 張っても張っても追っつかない 苦しい暮しの真ただ中で――おお早や五月 闘いのメーデーが来る! おお戦争と白テロの渦巻く中 今年のメーデーはどんなにすごかろう それにつけても忘れられぬあなた! 去年、あのだらしない葬式行列に 組合の人達と
太宰治
待つ 太宰治 省線のその小さい駅に、私は毎日、人をお迎えにまいります。誰とも、わからぬ人を迎えに。 市場で買い物をして、その帰りには、かならず駅に立ち寄って駅の冷いベンチに腰をおろし、買い物籠を膝に乗せ、ぼんやり改札口を見ているのです。上り下りの電車がホームに到着するごとに、たくさんの人が電車の戸口から吐き出され、どやどや改札口にやって来て、一様に怒っている