改暦弁
福沢諭吉
此度大陰暦を止て大陽暦となし、明治五年十二月三日を明治六年一月一日と定めたるは一年俄に二十七日の相違にて世間にこれを怪む者も多からんと思ひ、西洋の書を調て彼の國に行はるゝ大陽暦と、古來支那、日本等に用る大陰暦との相違を示すこと左の如し。 大陽とは日輪のことなり。大陰とは月のことなり。暦とはこよみのことなり。故に大陽暦とは日輪を本にして立たるこよみ、大陰暦とは
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福沢諭吉
此度大陰暦を止て大陽暦となし、明治五年十二月三日を明治六年一月一日と定めたるは一年俄に二十七日の相違にて世間にこれを怪む者も多からんと思ひ、西洋の書を調て彼の國に行はるゝ大陽暦と、古來支那、日本等に用る大陰暦との相違を示すこと左の如し。 大陽とは日輪のことなり。大陰とは月のことなり。暦とはこよみのことなり。故に大陽暦とは日輪を本にして立たるこよみ、大陰暦とは
喜田貞吉
本願寺葬儀参列の宝来の事に関連して、前号までに一と通り祇園の犬神人の観察を終った自分は、これに次いでさらに賀茂の葵祭に関連して、「放免」なるものの由来変遷を観察すべき順序となった。 賀茂の葵祭は前例によって去る五月の十五日を以て厳粛に行われた。その祭儀の行列は例によっていかにも古典的のものであった。その参列者の名称から、その服装に至るまでも、大体として平安鎌
中谷宇吉郎
今度のジュネーヴにおける原子力平和利用の會議で、放射能の遺傳に及ぼす障害が問題になった。 日本では放射能の雨や鮪の汚染が大問題になったが、アメリカはじめ諸外國では、今までそう問題にしていなかった。とくにアメリカでは、自國内のネヴァダ州で、何十回となく實驗をしていながら、平氣な顏をしていた。人體には害はないという自國の科學者の言葉を皆が信用していたからであろう
永井荷風
隅田川の両岸は、千住から永代の橋畔に至るまで、今はいずこも散策の興を催すには適しなくなった。やむことをえず、わたくしはこれに代るところを荒川放水路の堤に求めて、折々杖を曳くのである。 荒川放水路は明治四十三年の八月、都下に未曾有の水害があったため、初めて計画せられたものであろう。しかしその工事がいつ頃起され、またいつ頃終ったか、わたくしはこれを詳にしない。
織田作之助
大阪は二ツ井戸「まからんや」呉服店の番頭は現糞のわるい男や、云うちゃわるいが人殺しであると、在所のお婆は順平にいいきかせた。 ――「まからんや」は月に二度、疵ものやしみつきや、それから何じゃかや一杯呉服物を一反風呂敷にいれ、南海電車に乗り、岸和田で降りて二里の道あるいて六貫村へ着物売りに来ると、きまって現糞わるく雨が降って、雨男である。三年前にも来て降らせた
織田作之助
身に覚えないとは言わさぬ、言うならば言うてみよ、大阪は二ツ井戸「まからんや」呉服店の番頭は現糞のわるい男、言うちゃわるいが人殺しであると、在所のお婆は順平にいいきかせた。 ――「まからんや」は月に二度、疵ものやしみつきや、それから何じゃかや一杯呉服物を一反風呂敷にいれ、南海電車に乗り、岸和田で降りて二里の道あるいて六貫村へ着物売りに来ると、きまって現糞わるく
西尾正
放浪作家の冒険 西尾正 私が或る特殊な縁故を辿りつつ、雑司ヶ谷鬼子母神裏陋屋の放浪詩人樹庵次郎蔵の間借部屋を訪れたのは、恰も秋は酣、鬼子母神の祭礼で、平常は真暗な境内にさまざまの見世物小屋が立ち並び、嵐のような参詣者や信者の群の跫音話声と共に耳を聾するばかりの、どんつくどんどんつくつくと鳴る太鼓の音が空低しとばかりに響き渡る、殷賑を極めた夜であった。 樹庵次
里村欣三
放浪の宿 里村欣三 午さがりの太陽が、油のきれたフライパンのように、風の死んだ街を焙りつけていた。プラタナスの街路樹が、その広い掌のような葉身をぐったり萎めて、土埃りと、太陽の強い照りに弱り抜いて見えた。 街上には、動く影もなかった。アスファルトの路面をはげしく照りつけている陽脚に、かすかな埃りが舞いあがっているばかりで、地上はまるで汗腺の涸渇した土工の肌の
岸田国士
二十年ぶりでヨーロッパから帰つて来た旧友のFは、相も変らず話好きで、訪ねて来るたびに、なにかしら突拍子もない話題をひつさげて来る。 彼は生れながらのヴァガボンドである。母の胎内にゐる頃、すでにすまいを三度もかへたといふし、小学校へあがるまで北海道から九州へかけて県庁所在地を転々とし、中学は一年二年を山口、三年を金沢、四年に台北へ移つて、そこでやつと五年を終へ
田中貢太郎
放生津物語 田中貢太郎 一 越中の放生津の町中に在る松や榎の飛び飛びに生えた草原は、町の小供の遊び場所であった。その草原の中央の枝の禿びた榎の古木のしたに、お諏訪様と呼ばれている蟇の蹲まったような小さな祠があったが、それは枌葺の屋根も朽ちて、木連格子の木目も瓦かなんぞのように黒ずんでいた。 初夏の風のないむせむせする日の夕方のことであった。その草原から放生湖
河上肇
数日来残暑甚、羸躯発熱臥床、 枕上成此稿。辛巳八月二十三日。 楓橋に宿りて 宿楓橋 七年不到楓橋寺 客枕依然半夜鐘 風月未須輕感慨 巴山此去尚千重 七年ぶりに来て見れば まくらにかよふ楓橋の むかしながらの寺の鐘 鐘のひびきの悽しくも そそぐ泪はをしめかし 身は蜀に入る客にして 巴山はとほし千里の北 この楓橋は、唐の張継の詩、月落烏啼霜満天、江楓漁火対愁
河上肇
渭南文集五十巻、老学庵筆記十巻、詩に関する 説話の散見するものを、拾ひ集めて此篇を成す。 放翁詩話 (一) 呉幾先嘗て言ふ、参寥の詩に五月臨メバ二平山下路一、藕花無数満ツ二汀洲ニ一と云へるも、五月は荷花の盛時に非ず、無数満汀洲と云ふは当らず、と。廉宣仲云ふ、此は但だ句の美を取る、もし六月臨平山下路と云はば、則ち佳ならず、と。幾先云ふ、只だ是れ君が記得熟す、故
萩原朔太郎
放蕩の蟲は玉蟲 そつと來て心の底で泣く蟲 夜としなればすずろにも リキユールグラスの端を這ふ蟲 放蕩の蟲はいとほしや 放蕩の蟲は玉蟲 青いこころでひんやりと 色街の薄らあかりに鳴く蟲 三味線の撥にきて光る蟲 放蕩の蟲はせんなや ●図書カード
福沢諭吉
政事と教育と分離すべし 福沢諭吉 政治は人の肉体を制するものにして、教育はその心を養うものなり。ゆえに政治の働は急劇にして、教育の効は緩慢なり。例えば一国に農業を興さんとし商売を盛ならしめんとし、あるいは海国にして航海の術を勉めしめんとするときは、その政府において自から奨励の法あり。けだし農なり商なり、また航海なり、人生の肉体に属することにして近く実利に接す
太宰治
政治家と家庭 太宰治 頭の禿げた善良そうな記者君が何度も来て、書け書け、と頭の汗を拭きながらおっしゃるので、書きます。 佐倉宗五郎子別れの場、という芝居があります。ととさまえのう、と泣いて慕う子を振り切って、宗五郎は吹雪の中へ走って消えます。あれを、どうお思いでしょうか。アメリカ人が見たら、あれをどう感ずるでしょうか。ロシヤ人が見たら、何と判断するでしょうか
平林初之輔
コペルニクスは地動説をとなえたが、それを統一的理論によつて説明するためにはニュウトンをまたねばならなかつた。ところが今日の小學生は萬有引力の公式を知つている。だからコペルニクスよりも二十世紀の小學生の方がすぐれている! 石造建築は木造建築よりも進んだ建築である。某々洋食店は石造建築である。法隆寺は木造建築である。だから、某々洋食店の建築は法隆寺の建築よりもす
平林初之輔
コペルニクスは地動説をとなへたが、それを統一的理論によつて説明するためにはニユウトンをまたねばならなかつた。ところが今日の小学生は万有引力の公式を知つてゐる。だからコペルニクスよりも二十世紀の小学生の方がすぐれてゐる! 石造建築は木造建築よりも進んだ建築である。某々洋食店は石造建築である。法隆寺は木造建築である。だから、某々洋食店の建築は法隆寺の建築よりもす
木下尚江
政治の破産者・田中正造 木下尚江 若き人々に語る 若き友よ。 「田中正造」――今日突然にこんな名を呼んでも、君には何事かわからない。すこし古い人ならばわかる筈だ。彼等は「鉱毒の田中」「直訴の田中」かうした記憶を朧ろげながら尚ほ何処かに持つて居るだらう。この人の演説、真に獅子吼の雄弁を必ず思ひ出すであらう。然し、僕が今この人の名を呼ぶのはこれ等古い人達の苔蒸し
三木清
政治の論理と人間の論理 三木清 トハチェフスキー元帥らの銃殺および最近ソヴェートにおける清党工作は世界を驚かせた。元来この事件についてはいまだ正確な事実を知り得ず、伝えられることの多くは臆測の要素を含み、あるいは何らかの為めにする宣伝ですらあるようである。したがってこの事件に対する我々の批評も、単なる感想にとどまらざるを得ない。 この事件によってソヴェート政
三遊亭円朝
政談月の鏡と申す外題を置きまして申し上るお話は、宝暦年間の町奉行で依田豐前守様の御勤役中に長く掛りました裁判でありますが、其の頃は町人と武家と公事に成りますと町奉行は余程六ヶしい事で有りましたが、只今と違いまして旗下は八万騎、二百六十有余頭の大名が有って、往来は侍で目をつく様です。其の時の江戸の名物は、武士、鰹、大名小路、広小路、茶見世、紫、火消、錦絵と申し
小川未明
田舎のおばあさんから、送ってきたりんごがもう二つになってしまいました。 「政ちゃんなんか、一日に三つも、四つも食べるんだもの。」 「僕なんか、そんなに食べやしない。勇ちゃんこそ三つも四つもたべたんだい。」 二人は、いい争いました。そして、残った二つのりんごを、どちらが大きいか、めいめいでにらんでいました。 一つは、いくぶんか大きいが、色が青かったのです。一つ
福沢諭吉
明治元年正月、伏見の変乱、前将軍慶喜公は軍艦に乗て東帰、次で諸方の官軍は問罪として東海東山の諸道より江戸に入り、関東の物論沸くが如く、怒て官兵に抗せんとする者あり、恐れて四方に遁逃する者あり。江戸広しと雖ども、市に売る者なし、家に織る者なし。学者書生の如きもその行く所を知らず、大都会中復た一所の学校を見ず、一名の学士に逢わず。独り我慶應義塾の社中は、偶然の発
豊島与志雄
故郷 豊島与志雄 北海道胆振国に、洞爺湖という湖水がある。全体は殆んど円形に近く、保安林の立並んだ周辺九里、中央に一つ屹立している中島には、水辺より頂まで原生林が欝蒼と茂り、五号色の碧水が、最深度千八百米突まで、深々と湛えている、比類稀なほど円満な湖水である。 この湖水に、姫鱒の養殖が行われている。プランクトンの量多くて、非常によく育つとかいう話。産卵期にな
太宰治
故郷 太宰治 昨年の夏、私は十年振りで故郷を見た。その時の事を、ことしの秋四十一枚の短篇にまとめ、「帰去来」という題を附けて、或る季刊冊子の編輯部に送った。その直後の事である。れいの、北さんと中畑さんとが、そろって三鷹の陋屋へ訪ねて来られた。そうして、故郷の母が重態だという事を言って聞かせた。五、六年のうちには、このような知らせを必ず耳にするであろうと、内心