手紙 011 文久三年七月八日か 村田巳三郎あて
坂本竜馬
唯今肥後邸ニ横井を尋候所、夜前申合候通、伏水ニ相待と申て、今日八ツ時頃、出足ニて候よし。 下拙ニ於ても一言、神戸へまて申遣し度儀も有レ之、又先刻御談申せし儀も有て、薩邸ニも早々参多し。 故ニ今夜伏水ニ下り明朝上京と存付候間、吉井への状一封今夜中、何卒御遣しの程奉レ希。 頓首々八日花押坂本龍馬村田巳三郎様直陰足下 ●図書カード
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坂本竜馬
唯今肥後邸ニ横井を尋候所、夜前申合候通、伏水ニ相待と申て、今日八ツ時頃、出足ニて候よし。 下拙ニ於ても一言、神戸へまて申遣し度儀も有レ之、又先刻御談申せし儀も有て、薩邸ニも早々参多し。 故ニ今夜伏水ニ下り明朝上京と存付候間、吉井への状一封今夜中、何卒御遣しの程奉レ希。 頓首々八日花押坂本龍馬村田巳三郎様直陰足下 ●図書カード
坂本竜馬
此は(な)しハまづ/\人にゆ(言)ハれんぞよ。すこしわけがある。長刀順付ハ千葉先生より越前老公へあがり候人江(へ)、御申付ニて書たるなり。此人ハおさなというなり。本ハ乙女といゝしなり。今年廿六歳ニなり候。馬によくのり劔も余程手づよく、長刀も出来、力ハなみ/\の男子よりつよく、先たとへバうちにむかしをり候ぎんという女の、力料斗も御座候べし。かほかたち平井(加尾
坂本竜馬
家兄より(京)より大坂までおこし候文ニ付て、さし出申候存意、 ○彼養子のつがふハ積年の志願ニて、先年も度々申出候得(共兎角)兄が(心)配ニ相掛候事なれば終に立服致候ほどの事にて候ハ、雅兄ニもよく御存の所ニて候。又兼而雅兄が御論ニも土佐一国にて学問致し候得バ、一国だけの論(に)いで(世界を)横行すれバ、又夫だけの目を開き、自ら天よりうけ得たる知を開かずバならぬ
坂本竜馬
かの小野小町が名哥よみても、よくひでりの順のよき時ハうけあい、雨がふり不レ申。あれハ北の山がくもりてきた所を、内よくしりてよみたりし也。 につただゝつねの太刀おさめてしほの引しも、しほ時をしりての事なり。 天下に事をなすものハねぶともよく/\はれずてハ、はりへハうみをつけもふさず候。 おやべどのハ早、子ができたなどゝ申人あり、いかゞ私しがいゝよるというておや
坂本竜馬
○坂本龍馬ヨリ渋谷彦助へ-将軍上洛ノ件(包紙ウワ書) 「薩州御藩 渋谷彦助様坂本龍馬足下〆」 二白、本文ニ土方楠左(楠左衛門久元)ハ国本(土佐)より出候ものゝ内ニハ一寄咄合て遣候ものニて候よし、時情も存候ものなり。以後御引合在レ之候時ハ必此者がよろしく候、かしこ。 其後益御安泰奉二大賀一候。然バ此度土方楠左衛門上国より下り候。此者の咄、将軍家曽て伝聞の通り既
坂本竜馬
九月六日朝、はからず京師寺町ニ川村盈進入道ニ行合、幸御一家の御よふす承り御機嫌宜奉二大賀一候。二ニ私共初、太郎無二異儀一憤発出勢罷在、御安慮奉レ願候。 一、目今時勢御聞入候。 当時さしつまりたる所ハ、此四月頃宇和島候より長州え送一封の事也。夫ハ此度将軍長征ノ故を、幕史より書付を以て送りタル写也。 其文ニ曰ク、此度進発在ルハ長州外夷と通じ、容易ならざる企有レ之
坂本竜馬
私共とともニ致し候て、盛なるハ二丁目赤づら馬之助、水道通横町の長次郎、高松太郎、望月ハ死タリ。此者ら廿人斗の同志引つれ、今長崎の方ニ出、稽古方仕リ候。御国より出しものゝ内一人西洋イギリス学問所ニいりおり候。日本よりハ三十斗も渡り候て、共ニ稽古致し候よし。実ニ盛なる事なり。 私しハ一人天下をへめぐり、よろしき時ハ諸国人数を引つれ、一時ニはたあげすべしとて、今京
坂本竜馬
時々の事ハ外よりも御聞被レ遊候べし。然ニ先月(初五月ナリシ) 長国下の関と申所ニ参り滞留致し候節、蔵に久しくあハぬ故たずね候所、夫ハ三日路も外遠き所に居候より其まゝニおき候所、ふと蔵ハ外の用事ニて私しのやどへまいり、たがいに手おうち候て、天なる哉/\、きみよふ/\と笑申候。このごろハ蔵一向病きもなく、はなはだたしやなる事なり。中ニもかんしんなる事ハ、いつかふ
坂本竜馬
私がいぜんもつていました、かくなじでかいた烈女伝を、あれをひらがなになほしてゑ入にて、そのゑと申は、本の烈女伝のゑのとふりなり。 誠におもしろし。私がかなになをそふと兼ねてをもいしが、夫を見てやめてしもふたり。夫を(おまへさんになり)おくにへおくりたさにたづね候。けして今時の本やにはなきもの也。故にある女にたのみてかきうつさせより申候。其女と申はげにもめづら
坂本竜馬
去月二十九日上関に薩の小蝶丸にて参りたり。然るに此度の用事は云々、先づ京師のヨフスは去月十五日将軍上洛、二十一日、一、会、桑、暴に朝廷にせまり、追討の命をコフ。挙朝是にオソレユルス。諸藩さゝゆる者なし。唯薩独り論を立たり。其よしは将軍廿一日参内、其朝大久保尹君に論じ、同日二条殿に論じ、非義の勅下り候時は、薩は不レ奉と迄論じ上げたり。されども幕のコフ所にゆるせ
坂本竜馬
二白、今夜も助大夫とのみ呑ており申候。昨夜道路中うかゞい候事件色々相考候所、何レ急成ハかへりて両方の志通じかね候ヘバ、何を申ても共に国家をうれへ候所より成立候論なれば、両方の意味が通達して両方から心配して其よろしきおへらみ候方よろしく、そふなけれバ両方より道也、義也と論を吹合候よふニなれバ、かへりてがいを生じ候べく、談笑中ニともに宜を求め候よふでなけれバ、と
坂本竜馬
一筆啓上仕候。 然ニ私十一月廿四日浪華出帆、同廿六夕上の関ニつき申候。 夫より今日下の関ニ参り其まゝ御とゞけ申上候。いづれ拝顔の上万々。 謹言十二月三日龍馬聿大兄足下印藤様直陰 ●図書カード
坂本竜馬
一筆啓上。 然ニ私ニ非レバたれか上関迄出し候心積ニ候所、此頃御国より相廻り候船、下の関ニ参候時節、人なく幸ニ黒田了介殿御出ニ候得共、今少し御留りの儀故ニ無二是非一候。私とても了介殿御同伴上坂も致候。芸永井主人が事ハ兼而長州の政府の論の如ク相辨候所、永井曰ク、然レバ諸隊頭立候者ニ面会可レ致と、則諸隊頭立候もの面会せり。 案ズルニ永井ハ諸隊の者と政府の論と、甚こ
坂本竜馬
昨日山口より中島四郎、能間百合熊、福原三蔵外要路の人山田宇右衛門とか申人被レ参候。いまだ咄合も不レ仕候所なれども、案ズルニ今日中ニ事すミと相成可レ申か、山口よりハ木圭小五郎よりも長敷手紙参、半日も早く上京をうながされ候。然レ共此度の上京私一人外当時船の乗組一人位の事なるべくたれか京ニ御出しなれバ、はなはだつがふ能しかるべし。 一、山口の方へハ薩州人黒田了介と
坂本竜馬
先刻御面遠御頼申上候。早速御世話被レ遣難レ有次第奉二万謝一候。 然ニ別封桂小五郎先生まで相達申度、何時ニてもよろしく御便の節御送奉レ願候。 何卒宜御願申上候。 正月三日拝稽首。梅太郎久保先生左右才谷梅太郎久保松太郎様 虎皮下龍 ●図書カード
坂本竜馬
池御一同 杉御一同 先日大坂ニい申候時ハ、誠に久しぶりにかぜ引もふし薬六ふく計ものみたれバ、ゆへなくなをり申候。夫が京に参り居候所、又昨夜よりねつありて今夜ねられ不レ申、ふとあとさきおもいめぐらし候うち、私し出足のせつは皆々様ニも誠に御きづかいかけ候計と存じ、此ごろハ杉やのをばあさんハどのよふニなされてをるろふとも思ひ定而、池のをなんハいもばたけをいのししが
坂本竜馬
三吉兄ハ此頃御同行ニて薩邸ニ入候間、御安心可レ被レ遣候。然ニ去月伏見船宿寺田屋ニて一宿仕候節、幕府人数と一戦争仕候。其故ハ此度参ル寺内新右門参候間、御聞取奉レ願候。餘ハ拝顔の上、万。 二月三日謹言。印藤様龍拝 ●図書カード
坂本竜馬
表に御記被レ成候六条ハ、小、西、両氏及老兄、龍等も御同席ニて談論セシ所ニて、毛も相違無レ之候。後来といへども決して変り候事無レ之ハ、神明の知る所ニ御座候。 丙寅二月五日坂本龍 ●図書カード
坂本竜馬
此度の使者村新同行ニて参上可レ仕なれども、実ニ心ニ不レ任義在レ之、故ハ去月廿三日夜伏水ニ一宿仕候所、不レ斗も幕府より人数さし立、龍を打取るとて夜八ツ時頃二十人計寝所ニ押込ミ、皆手ごとニ鎗とり持、口々ニ上意/\と申候ニ付、少論弁も致し候得ども、早も殺候勢相見へ候故、無二是非一彼高杉より被レ送候ビストールを以て打払、一人を打たをし候。何レ近間ニ候得バ、さらにあだ
坂本竜馬
細左馬事、兼而海軍の志在、曽而馬関を龍と同伴ニて上京致候。在レ故て薩に下らんとす。 今幸ニ太郎兄が帰長の事を聞ク。今なれバ彼ユニヲンに左馬をのせ候ても宜かるべく、左馬事ハ海軍の事ニハ今ハ不幸者と雖ども、度戦争致候ものなれバ、随分後にハ頼も敷ものとも相成候べしと楽居候。 もしユニヲンのつがふが宜しいとなれバ、西吉、小大夫の方ハ拙者より申談候てつがふ宜く候。 能
坂本竜馬
谷氏の書状御取持ニて私を御頼被レ遣候よし、定而御用事可レ有レ之と奉二拝察一、今より夕方かけ乙丑丸ニ御待申候間、何卒御来光奉レ願候。稽首。 十六日龍報国隊中品川様坂本龍馬八ツ半頃ニハ必、船にのり候よふ御心積可レ然候。 ●図書カード
坂本竜馬
御別後お郡まで参り候所、下の関ハ又戦争と弟思ふに、どふぞ又やジ馬ハさしてく礼まいかと、早道お急ぎ度、御さしそへの人ニ相談仕候所、随分よろしかるべしとて夜おかけて道お急ぎ申、四日朝関ニ参申候、何レ近日拝顔の時ニ残し申候。 七月四日龍木圭先生 左右猶此度の戦争ハおりから又英船が見物して、長崎の方へ参り候ハおもしろき事ニ候。 追白 先日御咄しの英仏の軍艦の関に参候
坂本竜馬
五大才にハ火薬千金斗云云頼置候。 一、小松、西郷などハ国ニ居申候。大坂の方ハ大久保、岩下がうけ持なりとて、彼レ両人の周旋のよしなり。 一、人数ハ七八百上りたりと聞ユ。 一、幕の翔鶴丸艦ハ長州より帰り、又先日出帆致し、道中ニて船をすにのりかけて、今長崎へ帰りたり。 一、幕ハ夷艦を買入致す事を大ニ周旋、今又、二艘斗取入ニなるよふす。 一、幕船たいてい水夫共何故に
坂本竜馬
何も別ニ申上事なし。然ニ私共長崎へ帰りたれバ又のりかへ候船ハ出来ず水夫らに泣/\いとま出したれバ、皆泣/\に立チ出るも在り、いつ迄も死共に致さんと申者も在候。内チ外に出候もの両三人計ナリ。おゝかたの人数ハ死まで何の地迄も同行と申出で候て、又こまりいりながら国につれ帰り申候。 幕の方よりハ大ニ目おつけ、又長崎でも我々共ハ一戦争と存候うち、又幕吏ら金出しなどして