Vol. 2May 2026

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日月ボール

小川未明

孝ちゃんの、近所に住んでいる自動車屋の主人は、変わった人でした。ぼろ自動車を一台しか持っていません。それを自分が、毎日運転して、町の中を走っているのでした。 この自動車も、もとは、りっぱなものでした。主人の清さんが、若い時分、金持ちの運転手を長くつとめていて、やめるときに、金持ちが、その自動車をくれたのでした。それから、何年たったでしょう。 欲のない清さんは

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日月様

坂口安吾

日月様 坂口安吾 私が精神病院へ入院しているとき、妙な噂が立った。私が麻薬中毒だというのである。警視庁から麻薬係というのが三人きて、私の担当の千谷先生や、係の看護婦がひどい目にあったらしい。二時間にわたってチンプンカンプンの応接に苦しんだということをきいた。さすがに東大病院は、患者に会わせるようなことはしない。会えば誤解は一度に氷解するが、麻薬中毒とは別の意

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日本ライン

北原白秋

日本ライン 北原白秋 1 舟は遡る。この高瀬舟の船尾には赤の枠に黒で彩雲閣と奔放に染め出したフラフが翻つてゐる。前に棹さすのが一人、後に櫓を榜ぐのが一人、客は私と案内役の名鉄のM君である。私は今日初めて明るい紫紺に金釦の上衣を引つかけてみた。藍鼠の大柄のスボンの、このゴルフの服は些か華美過ぎて市中は歩かれなかつた。だが、この鮮麗な大河の風色と熾烈な日光の中で

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日本のこころ

中谷宇吉郎

もう二十年くらいも昔の話であるが、大学を出てすぐの頃、私は理化学研究所(現在の科学研究所)へはいった。そして寺田先生の助手として、三年間先生の実験室で働いた。 その頃の理化学研究所、というよりも理研といった方が通りがよいのであるが、その理研には、大学を出たての若い仲間がたくさんいた。同期の藤岡(由夫)君や、一年あとの菊池(正士)君、それに相対性理論でアインシ

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日本三文オペラ

武田麟太郎

白い雲。ぽつかり広告軽気球が二つ三つ空中に浮いてゐる。――東京の高層な石造建築の角度のうちに見られて、これらが陽の工合でキラキラと銀鼠色に光つてゐる有様は、近代的な都市風景だと人は云つてゐる。よろしい。我々はその「天勝大奇術」又は「何々カフェー何日開店」とならべられた四角い赤や青の広告文字をたどつて下りて行かう。歩いてゐる人々には見えないが、その下には一本の

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日本上代史の研究に関する二、三の傾向について

津田左右吉

近ごろ、いろいろな意味で世間の注意が国史の上に向けられ、上代史についても種々の方面において種々の考察が行われている。種々の立場からの種々の見解が提出せられることは、全体として学問の進歩を助けるものであるのみならず、ともすれば凝滞の弊に陥り易い学界を刺戟し、あるいはそれに新問題を与え、新しい観点からの研究を誘発する意味においても、喜ぶべきである。そうしてまた実

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日本上古の状態

内藤湖南

從來日本史の研究は、何れの時代を問はず、本國の側から觀察するが常であつた。たまに松下見林の異稱日本傳の如く、他國の側からこれを見たものもあるけれども、これは極く稀な例であつて、殊に徳川の中世以後、國學が發達してから、其の研究法が當時の漢學者に比して寧ろ進歩して居り、學術的に近い爲に、その日本中心主義の研究法をます/\一般に是認せしむる傾向を強めた。それで藤貞

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日本上古の硬外交

国枝史郎

インドネジアン族、インドチャイニース族の集合であるところの熊襲が大和朝廷にしばしば叛いたのは新羅が背後から使嗾するのであると観破され、「熊襲をお討ちあそばすより先に新羅を御征伐なさいますように」と神功皇后様が仲哀天皇様に御進言あそばされたのは非常な御見識と申上げなければならない。 しかるに御不幸にも仲哀天皇様には、熊襲及び土蜘蛛を御征伐中に御崩御あらせられた

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日本アルプスの五仙境

木暮理太郎

これから私が茲に述べようとする日本アルプスの仙境というのは、其処に仙人が住んでいたとか、又は現に住んでいるらしいとかいう訳で、仙境と称するのでは勿論ありません。単に仙人でもいそうな所だというだけであって、景色はすぐれていても、霧を啖い霞を吸って生きて行く術を知らない人間には、たかだか一月位しか住めない所ばかりです。 日本アルプスの中で景勝の地といえば、南北を

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日本人に就て ――中島健蔵氏へ質問――

坂口安吾

健蔵兄、作品社から「中島健蔵氏へ質問」といふものを書けといふことで、文学には多々疑惑のみ溢れがちな日常ではあり渡りに舟と引受けたのですが、さて引受けてみて吃驚しました。なるほど疑問は次から次へとあるやうですが、さてそれを謙虚な質問といふ形に表はしてみやうとすると、これが非常にむづかしいのです。自分では疑問のつもりでゐるものが、質問の形に表はしてみやうとすると

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日本人の自然観

寺田寅彦

日本人の自然観 寺田寅彦 緒言 「日本人の自然観」という私に与えられた課題の意味は一見はなはだ平明なようで、よく考えてみると実は存外あいまいなもののように思われる。筆を取る前にあらかじめ一応の検討と分析とを必要とするもののようである。 これは、日本人がその環境「日本の自然」をいかに見ていかに反応するか、ということ、またそれが日本人以外の外国人がそれぞれの外国

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日本再建と科学

仁科芳雄

日本再建と科學 仁科芳雄 1.緒言 現在の我が國は,虚脱状態にあると謂はれる.全くその通りである.これは敗戰國の常として怪しむに足りない.殊にあれだけの無茶な戰爭をした後としては急に立ち直ることを注文する方が無理であらう.然し終戰後既に半年を過ぎても荒漠たる燒野原は依然としてその儘であり,燒け殘つた工場の煙突からはいつ迄經つても殆んど煙は擧らない.そして次か

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日本出版協会論

嶋中雄作

「あなたの方の出版協会というのはいつもゴタ/\揉めているようですが、どうしたというんですか?」 こういって訊ねる人もある。しかしそういう人はどういうものかおおむね素人に限られているようである。素人に解ってもらうのは並大抵のことではないし、内容が複雑すぎるものだから、心苦しいが言葉を濁していつも逃げるよりほかなかった。ところで不思議なことに、多少とも文化とか出

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日本史上の奥州

原勝郎

日本史上の奧州 原勝郎 抑も奧州地方は、多くの場合に於て出羽と併稱し、奧羽と云ひならされて居るのであるけれど、しかし日本海を負ふ所の出羽と、太平洋に面して居る奧州とは、歴史上必ずしも一概に論じ難い點が多いのである。北陸道からして海傳ひに開けた出羽と、主として常陸下野から陸路拓殖を進めて行つた奧州との間には、日本文明波及の點に於て少からぬ遲速の差のあつたこと明

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日本における史前時代の歴史研究について

喜田貞吉

闇の夜に、鳴かぬ烏の声聞けば、生れぬ先の父ぞ恋しきということがある。われらがもし史前時代の歴史を研究したいなどとでも言おうものなら、それはあたかも生れぬ前の父を恋しがってみたり、真暗闇の夜に鳴きもせぬ烏の声を尋ねんとするようなもので、歴史家の仕事というよりも、むしろ禅学者の公案にでもした方がよいだろうと言われるかも知れぬ。少くも日本においては、近いころまでい

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日本品詞論

折口信夫

日本品詞論 折口信夫 (一)語根 日本品詞組織の考察は動詞の解体からのを便利とする。先づ其の構造の基礎的要素として語根語尾の二部を対立せしめることに付いては、誰も異存の無いはずである。ところが、此の両者の結合の工合に両様の状態がある。 (一)語根×語尾 (二)語根+語尾 と云ふ風な体製を見るのである。(一)は語根と語尾とが融合してをつて二部に分つことの出来ぬ

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日本国憲法

日本国

日本国憲法 日本国憲法 施行、昭和二二年・五・三 朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。 御名御璽 昭和二十一年十一月三日 内閣総理大臣兼 外務大臣        吉田  茂 国務大臣     男爵 幣

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日本国憲法

日本国

朕は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。 御名  御璽 昭和二十一年十一月三日 (内閣總理大臣兼外務大臣)    吉田  茂 國務大臣 男爵 幣原喜重郎 司法大臣    木村篤太郎 内務大臣    大村 

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日本国民の文化的素質

内藤湖南

今日申します演題は「日本國民の文化的素質」斯う云ふ風な事を申上げることに致しましたのですが、私は此の問題は前から種々考へて居りますけれども、もう少し悠り考へを纏めようと思ひまして、今日迄何處でも之に就いて講演したこともありません。此の中の極一部分の事に就ては、多少言つたことはありますけれども、大體此の問題に就いては講演したことはありません、勿論まだ私の考へも

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日本国見在書目録に就いて

狩野直喜

日本國見在書目録に就いて 狩野直喜 古典の研究で尤大切なものは、或時代に編纂された書籍目録である。學者が千歳の後に生れて、古書の佚存を知り、或程度まで學術の源委と、時代の學風とを窺ふことの出來るのは、目録に負ふ所が多い。殊に支那の如き秦皇の焚書によつて經籍殘缺したと云ふ事實があり、それから後世に至るまで書籍の散佚が多いと同時に古書の僞作も亦盛んに行はるゝ所に

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日本大地震

斎藤茂吉

西暦一九二三年九月三日。うすら寒く、朝から細かい雨が降つた。日の暮に Spatenbru 食堂の隅の方に行つてひとり寂しく夕餐をした。七月十九日にミユンヘンに著いて以来、教室では殆ど休なく為事を励んだのであつたが、いまだに自ら住むべき部屋が極まらない、極まりかけては南京虫に襲はれ襲はれしていまだに極まらずにゐる。それも教室の方の為事を休んで部屋を捜すのではな

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日本天変地異記

田中貢太郎

日本天変地異記 田中貢太郎 序記 国土成生の伝説 大正十二年九月一日の大地震及び地震のために発したる大火災に遭遇して、吾吾日本人は世界の地震帯に縁取られ、その上火山系の上に眠っているわが国土の危険に想到して、今さらながら闇黒な未来に恐怖しているが、しかし考えてみれば、吾吾は小学校へ入った時から、わが国土が地震と火山とに終始していて、吾吾国民の上には遁れること

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日本の女形 ――三代目中村梅玉論――

折口信夫

今の梅玉が、福助から改名した披露の狂言は、その当時、親をがみに正月郷家に帰つてゐて、見ることが出来た。「石田ノ局」を出し物とし、ほかに主立つた役では今一つ「安達原」の袖萩を勤めてゐた。折も折、彼自身長く女房役をつとめて来た鴈治郎が、危篤で、出てゐなかつた。何やら、やがて来る大阪芝居の寂しさがきざしてゐるやうで、晴々とした印象が残つてゐない。 それより卅年前、

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日本媼

斎藤茂吉

媼の名は、Marie Hillenbrand といふ。媼がまだ若くて体に弾力のあつた頃から、その母親と共に多勢の日本留学生の世話をした。当時の日本留学生は概ね三年ぐらゐ居たのであり、一つの都市に居ついて其処で勉強するのを常としたから、都市の人々と留学生との間に、おのづと心の交渉が成立ち、それが今時と較べて余程親密なものであつたと見える。そこで、この媼は娘のと

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