「満洲国各民族創作選集」選者のことば
岸田国士
「満洲国各民族創作選集」選者のことば 岸田國士 満洲に文学が生れようとしてゐる。多くは満洲の文学を生まうとする人たちの手によつてである。 私は先年満洲のところどころを歩いて、そこで新しい国が興り、いくつかの民族のまつたく異つた伝統と生活のうちから、どこでも万人共通の歴史がすでに呼吸しはじめてゐるのを感じ、これがやがて民族の特殊性を超えたのつぴきならぬ国民的意
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岸田国士
「満洲国各民族創作選集」選者のことば 岸田國士 満洲に文学が生れようとしてゐる。多くは満洲の文学を生まうとする人たちの手によつてである。 私は先年満洲のところどころを歩いて、そこで新しい国が興り、いくつかの民族のまつたく異つた伝統と生活のうちから、どこでも万人共通の歴史がすでに呼吸しはじめてゐるのを感じ、これがやがて民族の特殊性を超えたのつぴきならぬ国民的意
中谷宇吉郎
八月の下旬思い立って、満洲へ出かけて見た。ちょっと急いでいたので、往きは航空会社の旅客機で、東京から奉天〔瀋陽〕まで飛んだ。 今度の満洲行は、私たちがこの十年近く手を染めている低温科学の色々な問題に関連して、厳寒の満洲の野に働く人たちから、実地の問題について教えを乞い、今後の連絡にも資しようというつもりであった。それでその方面の研究に前から着手している満鉄の
牧野信一
苗字は省きますが満里子君は私の少数の女友達のうちで、数年以来変らぬ親愛と信頼とを惜みなく持ち続けてゐる可憐で快活な人です。満里子君も亦私に対して満腔の尊敬と敬愛とを捧げてゐます。つい此間満里子君は私の、これも亦満里子君同様に、私は親愛を、彼は敬愛を互ひに譲り合つた験しもないといふいとも円満な交遊を持ち続けてゐる私の年下の友達のR君と華燭の典を挙げました。 そ
太宰治
満願 太宰治 これは、いまから、四年まえの話である。私が伊豆の三島の知り合いのうちの二階で一夏を暮し、ロマネスクという小説を書いていたころの話である。或る夜、酔いながら自転車に乗りまちを走って、怪我をした。右足のくるぶしの上のほうを裂いた。疵は深いものではなかったが、それでも酒をのんでいたために、出血がたいへんで、あわててお医者に駈けつけた。まち医者は三十二
宮本百合子
その源 宮本百合子 二三日前の夜、おそく小田急に乗った。割合にすいていて、珍しく腰をおろした。隣りに大柄な壮年の男のひとがいて、書類鞄から出した本を、しきりに調べている。その隣りの席に黒い外套に白いマフラーをつけ、縁なしの眼鏡をかけた三十歳がらみの洋装の婦人がいて、好奇心を面にあらわし、男のひとの本の頁を横から見ている。その様子に、何か目をひくものがあった。
国木田独歩
源おじ 国木田独歩 上 都より一人の年若き教師下りきたりて佐伯の子弟に語学教うることほとんど一年、秋の中ごろ来たりて夏の中ごろ去りぬ。夏の初め、彼は城下に住むことを厭いて、半里隔てし、桂と呼ぶ港の岸に移りつ、ここより校舎に通いたり。かくて海辺にとどまること一月、一月の間に言葉かわすほどの人識りしは片手にて数うるにも足らず。その重なる一人は宿の主人なり。ある夕
岡本綺堂
源之助の一生 岡本綺堂 田圃の太夫といわれた沢村源之助も四月二十日を以て世を去った。舞台に於ける経歴は諸新聞雑誌に報道されているから、ここにはいわない。どの人も筆を揃えて、江戸歌舞伎式の俳優の最後の一人であると伝えているが晩年の源之助は寄る年波と共に不遇の位地に置かれて、その本領をあまりに発揮していなかった。 源之助が活動したのは明治時代の舞台で、大正以後の
沖野岩三郎
源八栗 沖野岩三郎 一 もうりい博士は、みなとの汽船会社から、こまりきつたかほをして、かへつて来ました。それは、午後一時に、出るはずの汽船が、四時にのびたからです。 もうりい博士は今晩の八時から、次の町でお話をする、やくそくをしてあるのです。だから、四時のおふねにのつては、十時すぎにしか、次の町へつくことが出来ないのです。 ふねにのらないとすれば、三十きろの
喜田貞吉
往時「エタ」と呼ばれておった不幸なる人々は、本来いかなる性質のものか、またいかなる事情からかくの如き気の毒なる境遇に落ちたか。この解決は自分の日本民族史研究上、最も必要なる事項であるのみならず、この人達と一般社会との真の融和を得る上にも、まず以て是非とも知っておかなければならぬ問題であると信ずる。 それについて自分は、「穢多」という同情なき文字の使用に甚だ多
斎藤茂吉
この息もつかず流れている大河は、どのへんから出て来ているだろうかと思ったことがある。維也納生れの碧眼の処女とふたりで旅をして、ふたりして此の大河の流を見ていた時である。それは晩春の午後であった。それから或る時は、この河の漫々たる濁流が国土を浸して、汎濫域の境線をも突破しようとしている勢を見に行ったことがある。それは初冬の午後であっただろうか。そのころ活動写真
豊田喜一郎
私は過去四年間を自動車と寢食を共にして、四六時中唯それのみを考へつゞけて來ました。所が此處に發令されました自工法案の實施に當り、弊社が逸早く特許許可會社の指令を受けた事は身に餘る感激事でありますが之と同時に今迄の樣に單に自動車の事を考へるばかりではすまされない重大責任を擔ふに至つたのであります。國家に對する義務として當然一日も早く自動車の大量生産を實現して國
豊島与志雄
溺るるもの 豊島与志雄 一 或る図書館員の話 掘割の橋のたもとで、いつも自動車を乗り捨てた。 眼の届く限り真直な疏水堀で、両岸に道が通じ、所々に橋があって、黒ずんだ木の欄干が水の上に重り合って見える。右側は大きな陰欝な工場、左側は小さな粗末な軒並……。その軒並の彼方、ぼうっとして明るみの底、入り組んだ小路の奥に、燐光を放ってる一点があった――彼女がいた。 燐
原民喜
溺死・火事・スプーン 原民喜 父に連れられて高松から宇治への帰航の途中だった。号一は一人で甲板をよちよち歩き廻って、誰もゐない船尾へ来ると、舵へ噛みつく波のまっ白なしぶきを珍しがって眺めてゐた。それは白熊のやうな恰好になったり、時には巨人の貌になった。あたりの海は凡て穏かに煙ってゐたのに、号一が視凝めてゐる部分だけが怒り狂ってゐた。号一はその渦のなかに巻込ま
嘉村礒多
滑川畔にて 嘉村礒多 北鎌倉で下車して、時計を見ると十時であつた。驛前の賣店で簡單な鎌倉江の島の巡覽案内を買ひ、私とユキとは地圖の上に額と額とを突き合せて、圓覺寺の所在をさがしても分らなかつた。 「圓覺寺といふのは、どちらでございませうか?」 ユキが走つて行つて、そこの離々と茂つた草原の中の普請場で鉋をかけてゐる大工さんに訊いて見てから、二人は直ぐ傍の線路を
原民喜
雁江の病室には附添ひの看護婦がゐた。彼女と同じ位の年輩だったが、看護婦の方が遙かに大人びてゐた。長い患ひが、この頃やうやく癒えて来ると、雁江は身体だけでなく心までがすっかり変って来るやうな気がした。病室には早咲きのシクラメンがあった。看護婦は四六時中雁江の部屋にゐた、もう一カ月あまりその部屋の空気を一緒に呼吸して来たのだった。病気に罹ると云ふことを雁江はもと
今井邦子
瀧を見ることはたのしいことです。 瀧は私はどんな小さい瀧でも、たとへば行きずりに見るほどのものでも、必ず一寸立ち止まつてその水の音をきゝ、碎け落つる白泡を見て一瞬たのしい心になる程好きなのであります。 私は近年、夏を郷里の信濃下諏訪町のカメヤホテルといふ古風な旅館にすごす事に定つてしまひましたが、それはその家の人々が家族的に親切であるといふ事も大きい原因です
萩原朔太郎
みどりをつらぬきはしる蛇、 瀬川ながれをはやみゆき、 ゆめと流れて瀧はおつ、 たうたうたる瀧の水音、 音なみさえ、 主も遠きより視たまへば、 銀の十字をかけまつる、 我しもひとり瀧水の、 若葉に靴を泳がして、 念願せちに涙たる、 念願せちに涙たる。 ●図書カード
尾崎士郎
瀧は没落の象徴である。その没落がいかに荘厳であるかということについて説こう。 私は一日天城の峻嶺を越え、帰途、山麓の雑木林の中の細径に、しめやかな落葉のにおいを踏んで浄簾の瀧の前に立った。 冷々とした水煙を頬に感じながら、私は夕暮るる大気の中を白々といろどる瀧を眺めた。私の心は幾度びとなく瀧とともに没落した。すると、ある自暴自棄な感慨が私を圧えつけた。私は眼
高山樗牛
やがて來む壽永の秋の哀れ、治承の春の樂みに知る由もなく、六歳の後に昔の夢を辿りて、直衣の袖を絞りし人々には、今宵の歡曾も中々に忘られぬ思寢の涙なるべし。 驕る平家を盛りの櫻に比べてか、散りての後の哀れは思はず、入道相國が花見の宴とて、六十餘州の春を一夕の臺に集めて都西八條の邸宅。君ならでは人にして人に非ずと唱はれし一門の公達、宗徒の人々は言ふも更なり、華冑攝
牧野信一
僕はね、親父たちが何といつたつて、キエ、お前と、結婚するよ……。 三千雄は、はつきりと、いく度もキエの手をとつて、さうはいつてゐたものゝ、キエは、里にかへつて日が経つにつれて、哀しさといふほどのこともなく、むしろ苦笑に似たものを感じた。何か、もう、断ち難い関係でもがあるかのやうに、三千雄の親たちが騒ぎ出したので、キエは自分から先に暇をとつて里に戻つた。自分は
正岡容
私は半生をつうじての貧困の生活を、昭和初世の滝野川と杉並馬橋とでおくつた。場末の洋食店に女給をしてゐた、醜貌の上に無教養至極だつた女との腐れ縁の生活が絶えようとしてはまた続き、常に順環小数のやうな別れ話の繰返しに漸く私の生活は精神物質共に日に/\不如意とはなつて行く許りであつた。その上はじめ西ヶ原の雪中庵ちかくの西洋洗濯店の二階借りをしてゐたのがやがて近傍の
牧野信一
停車場へ小包を出しに行き、私は帰りを、裏山へ向ふ野良路をたどり、待ち構へてゐた者のやうにふところから「シノン物語」といふ作者不明の絵本をとり出すと、それらの壮烈な戦争絵を見て吾を忘れ、誰はゞかることも要らぬ大きな声を張りあげて朗読しながら歩いてゐた。歩く――と云つても朗読の方へ大方の注意を込めてゐたから、一間すゝむと其処に五分間も立ちどまつて、神妙に首をひね
マクラウドフィオナ
シェーン婆さんは青々した草原の向うのほそい流れで馬鈴薯の皮むきに使う板を洗うとやがて自分の小舎に帰って来て泥炭の火の前に腰を下ろした。 婆さんはもうひどく年をとっていた。それに、真夏の日のいちにち、陽はよく当っていたけれど、山風は肌さむかった。泥炭の火の前で休むのはうれしいことだった。 婆さんの小舎は山の斜面にあって南に向いていた。北も南も東も西も、ほかの山
宮原晃一郎
漁師の冒険 宮原晃一郎 いつの頃でしたか、九州の果の或海岸に、仙蔵と次郎作といふ二人の漁師がをりました。 或日二人はいつものとほり小さな舟にのつて沖へ漁に出ますと大風が吹いて、とほくへ流されました。けれども運よく舟も沈まず、怪我もしないで、とある島へ流れつきました。二人はお腹がすいてゐるものですから、早く人家のあるところへ出て、御飯をたべさして貰はうと、奥の