『美しい話』まへがき
岸田国士
「美しい」ものを「美しい」と感じる心は誰にでもあるはずだが、「ほんたうに美しい」ものと「みかけだけ美しい」ものとの区別がつかなくなつてゐる人はずいぶん多い。それからまた、「美しい」といふことをはきちがへてゐる人、つまり「醜い」部類にはいるやうなものを何時のまにか好きになつてゐて、それが「美しい」のだと思ひこんでゐる人が、これまたなかなか少くないのである。 「
공개저작물 세계 지식 라이브러리
岸田国士
「美しい」ものを「美しい」と感じる心は誰にでもあるはずだが、「ほんたうに美しい」ものと「みかけだけ美しい」ものとの区別がつかなくなつてゐる人はずいぶん多い。それからまた、「美しい」といふことをはきちがへてゐる人、つまり「醜い」部類にはいるやうなものを何時のまにか好きになつてゐて、それが「美しい」のだと思ひこんでゐる人が、これまたなかなか少くないのである。 「
宮本百合子
美しく豊な生活へ 宮本百合子 この雑誌の読者である方々くらいの年頃の少女の生活は、先頃まではあどけない少女時代の生活という風に表現されていたと思います。そしてそれは、そう言われるにふさわしい、気苦労のない、日常生活の進行は大人にまかして、自分達は愉快に学校に通い、友達と遊び、すくすくと生成して行ってよいという生活だったと思います。けれども戦争が始まり、特に大
豊島与志雄
美醜 豊島与志雄 夏の夜、私の書斎は、冬の夜よりも賑かだ。開け放した窓から、灯を慕って、多くの虫が飛びこんできて、乱舞する。電灯を中心に、天井、床、机、私の身体など、所嫌わず、飛び廻る。 虫を嫌う友人などは、そうした私の書斎に、眉を顰める。が私は、一二の人間の気を迎えるために、窓を閉めることもしたくないし、或は、窓に網戸を拵えることもしたくない。また、灯のま
加藤道夫
詩と劇とは元來、本質的に切り離せぬ關係にあるが、「思想」が劇に不可缺のものであるとは特に言ひきれない。我々は「思想」のない劇には飽きる程觸れて來たし、美しいとか面白いとか云ふ點で稱讃もして來た。思想劇と云ふ名稱は或る時期には「退屈」の代名詞の樣にさへ使はれてゐた。美しいのはいい。面白いのはいい。だが、美しいだけでは、面白いだけでは間に合はぬ時代になつてしまつ
佐藤垢石
美音会 佐藤垢石 十一月二十七日夜六時頃、先輩の生駒君と一緒に有楽座の美音会へ行ってみる。招待席は二階正面のやや左に寄った所を三側ばかり取ってあるが、未だ誰も見えていない。しかし、他の席は殆ど満員という有様で、廊下には煙草を口に銜えた人が多勢行ったり来たり、立談している人もあって、その中に、美しく着飾った貴婦人達が眼を惹く。有楽軒の食堂もかなり繁昌している。
北大路魯山人
美味談も考えてみるとなかなか容易ではない。前に木下の『美味求真』、大谷光瑞の『食』、村井弦斎の『食道楽』、波多野承五郎の『食味の真髄を探る』、大河内正敏の『味覚』など、それぞれ一家の言を表わしてはいるものの、実際、美味問題になると、いずれも表わし得たりと学ぶに足るほどのものではない。 おのおの美味道楽の体験に貧困が窺えて敬読に価しない恨みがある。というのは、
北大路魯山人
今さら事新しく問題にするのも、チトおかしいようだが、料理も考え方によっては、こんなことが言えるかも知れない。 「お惣菜料理」とは手の込む工夫を一切排除して、その上、なるべく安易に入手できる安価な食品材料を選び、口に充分なよろこびを与え、栄養という流行語にも当てはまるよう考慮して拵えるのが、今の人のお惣菜料理である。 これとは全く世界を別にし、多くの庶民にはな
北大路魯山人
心のおもむくままに、いつも美味いものを食って、心の底から楽しんでみたい。朝も昼も晩も。犬や猫のように、宛てがい扶持の食事に、その日その日をつづけることは、肉体は生きられるとしても、心の楽しみにはならない。心に楽しむ料理なんて考えても縁遠い。食って生きて行きさえすれば、それで結構なんだ。安価で栄養価値のあるもの、それで充分じゃないか、今の世の中はと。エネルギー
豊島与志雄
群集 豊島与志雄 大正七年八月十六日夜―― 私は神保町から須田町の方へ歩いて行った。両側の商店はもう殆んど凡てが戸を締めていた。大きな硝子戸や硝子窓の前には蓆を垂らしてる家が多かった、間には板を縦横に打ちつけてる家もあった。街路が妙に薄暗かった。黙々とした人影が皆須田町の方へ流れていた。「今夜は須田町から小川町をぬけて神保町の方へ来るそうだ、」と誰が云ったと
坂口安吾
雑沓の街は結局地上で一番静寂な場所であるかも知れない。斑猫蕪作先生は時々恁んな風に思ひつかれることもあつたが、兎に角斑猫先生はアッサリと銀座裏のアパアトへ引越してきた。行方杳として知れず――つまり斑猫先生は風のやうに消息を断つて、ひそかに雑沓の街へ隠遁したわけであつた。これで清々したと先生は考へた。 先生は独身で通したので、もともと一人ぽつちであつた。特殊な
ポーエドガー・アラン
Ce grand malheur, de ne pouvoir tre seul.1ラ・ブリュイエール2 あるドイツの書物3について、“es lsst sich nicht lesen”――それはそれ自身の読まれることを許さぬ――と言ったのは、もっともである。それ自身の語られることを許さぬ秘密というものがある。人々は夜ごとにその寝床の中で、懺悔聴聞僧の手を握
田中貢太郎
延宝二年の話である。土佐藩の徒目付横山源兵衛の許へ某日精悍な顔つきをした壮い男が来た。取次の知らせによって横山が出ると、壮い男はこんなことを云った。 「私は浜田六之丞の弟の吉平と申す者でございますが、兄六之丞が重い罪科を犯して、死罪を仰せつけられ、誠に恐れ入った次第でございます、私は浪人をして紀州で弓術を修業しておりましたところで、この比兄が御成敗になったと
太宰治
義務の遂行とは、並たいていの事では無い。けれども、やらなければならぬ。なぜ生きてゐるか。なぜ文章を書くか。いまの私にとつて、それは義務の遂行の爲であります、と答へるより他は無い。金の爲に書いてゐるのでは無いやうだ。快樂の爲に生きてゐるのでも無いやうだ。先日も、野道をひとりで歩きながら、ふと考へた。「愛といふのも、結局は義務の遂行のことでは無いのか。」 はつき
折口信夫
かう感情が荒びて来ては、たとひ今の間の折れ合ひはついても、又簡単に喧嘩別れの時が来る。文楽も揉みに揉んで、ちつとやそつとでは御破算にならぬ程、糶りつめてゐる。其に又今度の清六氏の事件である。山城少掾氏の謹厳は、我々始終感心してゐるのだが、芸の苦労にも、世間のつき合ひにも、あれで通して居るのだらうから、調子を揃へて行けない人も出て来るであらう。もつと大様になつ
田中貢太郎
義猫の塚 田中貢太郎 遠州の御前崎に西林院と云う寺があった。住職はいたって慈悲深い男であったが、ある風波の激しい日、難船でもありはしないかと思って外へ出てみた。すると、すぐ眼の下になった怒濤の中に、船の破片らしい一枚の板に一匹の子猫がしがみついているのが見える。そこで住職は山をかけおりて漁師の家へ往って、 「可哀そうだから、たすけてやってくれ」 と云ったが、
田中貢太郎
義猴記 田中貢太郎 支那の万暦年中、毘陵に猿曳の乞児があって、日々一疋の猴を伴れて、街坊に往き、それに技をさして銭を貰っていたが、数年の後にその金が集まって五六両になった。その乞児は某日知合の乞児といっしょに酒を飲んだが、酔って蓄えている金の事を誇り顔に話した。相手の乞児はそれを聞くと、急に悪心を起して酒の中へ毒を入れて飲ましたので、その乞児は死んでしまった
今野大力
義男さんよ なぜそんなに考えてるの 一生懸命だね 何を読んでいるの…… ああそうか「死線を越えて」か おもしろいかね いえなあに借りて来て 読んでいるんですよ 此頃は歌はどうです 沢山書いているでしょう いえなあに駄目ですよ さっぱり此頃は 書けませんし出来ないし わたしももうよしているし ああそう言われた義男さんが 終に亡くなられた 私と同じ局にいても い
堀辰雄
丘の上のU塔には、千羽の鳩が棲んでゐた。それらの鳩がいちどきに飛翔すると、空は眞暗になつた。そしてしばらくそれらの羽音がU塔を神々しく支配した。それらの羽ばたきは何となく天使の羽ばたきを思はせた。 傳説によると、U塔のある丘は昔の仕置場の跡ださうだ。そしてこの塔の中には囚人が幽閉されてゐたといふことである。だが今では誰も知らないのだ、そのためにこんな淋しい場
小川未明
昔は、いまよりももっと、松の緑が青く、砂の色も白く、日本の景色は、美しかったのでありましょう。 ちょうど、いまから二千年ばかり前のことでありました。三保の松原の近くに、一人の若い舟乗りがすんでいました。ある朝のこと、東の空がやっとあかくなりはじめたころ、いつものごとく舟を出そうと、海岸をさして、家を出かけたのであります。 まだ、おちこちの森のすがたは、ぼんや
折口信夫
翁の発生 折口信夫 一 おきなと翁舞ひと 翁の発生から、形式方面を主として、其展開を考へて見たいと思ひます。しかし個々の芸道特有の「翁」については、今夜およりあひの知識の補ひを憑む外はないのであります。翁芸を飛躍させたのは、猿楽であります。翁が、田楽の「中門口」に相当する定式の物となつた筋道が、幾分でも訣つて貰へるやうに致したいと存じます。 おきなと言ふ語は
北大路魯山人
普通習書と申しますと、ご承知の通り筆をもって習うことが主なんでございますが、実は筆をもって習うということもさることながら、書を分ろう、書というものはどういう「質」のものであるかということが分りたい、分らなくてはならない、そういう「書性」とでもいうことをお互いに分っていこうということが主でありまして、書く方が第二なんであります。私の考えでは、結局、分らなければ
蒲松齢
羅子浮は汾の人であった。両親が早く亡くなったので、八、九歳のころから叔父の大業の許へ身を寄せていた。大業は国子左廂の官にいたが、金があって子がなかったので、羅をほんとうの子供のようにして可愛がった。 羅は十四になって、良くない人に誘われて遊廓へ遊びにいくようになった。ちょうどその時金陵から来ている娼婦があって、それが郡の中に家を借りて住んでいた。羅はそれに惑
原民喜
私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本――岩波文庫の魯迅選集――に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く
岸田国士
翻訳について 岸田國士 翻訳といふ仕事は、いろいろ理窟のつけ方もあるだらうが、大体に於て、翻訳者自身のためにする仕事なのである。翻訳を読んで原作を云々するのは非常に危険だといふやうなことも云へるし、また翻訳は一つの文化事業であるといふやうな口実もあるが、翻訳そのものは金になるならないに拘はらず、誰でもやつてみるといいのである。 翻訳するといふことは、原書を少