蒲原有明氏の近況を聞いて
萩原朔太郎
日本の詩壇は、過去に於て凡そ三期の峠を越して來てゐる。第一期は所謂新體詩時代であつて、その完成者は島崎藤村氏等である。第二期は新體詩から自由詩へ、浪漫派から象徴派に移つた過渡期であつて、その目ざましき完成者は蒲原有明氏であつた。最後に第三期は文章語自由詩の黄金時代で、之れは北原白秋氏と三木露風氏とで代表されてる。 この以上三期の中、我々にとつて最も記念の深い
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萩原朔太郎
日本の詩壇は、過去に於て凡そ三期の峠を越して來てゐる。第一期は所謂新體詩時代であつて、その完成者は島崎藤村氏等である。第二期は新體詩から自由詩へ、浪漫派から象徴派に移つた過渡期であつて、その目ざましき完成者は蒲原有明氏であつた。最後に第三期は文章語自由詩の黄金時代で、之れは北原白秋氏と三木露風氏とで代表されてる。 この以上三期の中、我々にとつて最も記念の深い
田山花袋
小石川の切支丹坂から極楽水に出る道のだらだら坂を下りようとして渠は考えた。「これで自分と彼女との関係は一段落を告げた。三十六にもなって、子供も三人あって、あんなことを考えたかと思うと、馬鹿々々しくなる。けれど……けれど……本当にこれが事実だろうか。あれだけの愛情を自身に注いだのは単に愛情としてのみで、恋ではなかったろうか」 数多い感情ずくめの手紙――二人の関
橘外男
怨霊というものがあるかないかそんな机上の空論などを、いまさら筆者は諸君と論判したいとは少しも思わない。ただここに掲げる一篇の事実を提げて、いっさいを諸君の批判の下に委ねんと思うのみである。科学がこの世の中のことすべてを割り切っているかどうか、それも筆者は諸君と議論したいとは少しも願わない。が、一言贅言を挟ませて下さるならば、読者も御承知のとおり浄土宗の総本山
田山花袋
『何うして、あんな「蒲団」のやうな作が歓迎されたでせうな?』かうある人が言つたが、作者自身でも、何うしてあんな作が今でも売れてゐるかと思はれるほどである。少くともあの作は四五万は売れた。 しかし、あの時分のことを思ひ出すのは愉快だ。あの時分のことを思ふと、国木田君の顔と一緒に渋谷のさびしい別荘のやうな家が浮び出して来る。小諸から『破戒』の未成稿を抱いて出京し
桑原隲蔵
蒲壽庚の事蹟 桑原隲藏 本論 一 大食人の通商 西暦八世紀の初頃から、十五世紀の末に、ヨーロッパ人が東洋に來航する頃まで、約八百年の間は、アラブ人が世界の通商貿易の舞臺に立つて、尤も活躍した時代で、殊に西暦八世紀の後半に、Abbs 王朝が縛達 Baghdd に都を奠めて以來、彼等は海上から印度や支那方面の通商に尤も力を注いだ。 アラブ人はペルシア灣から印度洋
寺田寅彦
蒸発皿 寺田寅彦 一 亀井戸まで 久しぶりで上京した友人と東京会館で晩餐をとりながら愉快な一夕を過ごした。向こうの食卓には、どうやら見合いらしい老若男女の一団がいた。きょうは日がよいと見える。近ごろの見合いでは、たいてい婿殿のほうがかえって少しきまりが悪そうで、嫁様のほうが堂々としている。卓上の花瓶に生けた紫色のスウィートピーが美しく見えた。 会館前で友人と
宮沢賢治
〔蒼冷と純黒〕 宮沢賢治 〔冒頭欠〕 たいエゴイストだ。たゞ神のみ名によるエゴイストだと、君はもう一遍、云って呉れ。さうでなくてさへ、俺の胸は裂けやうとする。 純黒 俺の胸も裂けやうとする。おゝ。町はづれのたそがれの家で、顔のまっ赤な女が、一人で、せわしく飯をかき込んだ。それから、水色の汽車の窓の所で、瘠せた旅人が、青白い苹果にパクと噛みついた。俺は一人にな
ドイルアーサー・コナン
友人シャーロック・ホームズのもとを、私はクリスマスの二日後に訪れた。時候の挨拶をしようと思ったのだ。ホームズは紫の化粧着姿で、ソファにくつろいでいた。右手の届くところにパイプ置きがあり、今読んでいるところなのだろう、手元にはぐちゃりと朝刊の山が積まれている。ソファのそばには木の椅子があり、背の角にちょうど、趣味の悪い堅めのフェルト帽がひっかけられていた。ずい
徳田秋声
蒼白い月 徳田秋声 ある晩私は桂三郎といっしょに、その海岸の山の手の方を少し散歩してみた。 そこは大阪と神戸とのあいだにある美しい海岸の別荘地で、白砂青松といった明るい新開の別荘地であった。私はしばらく大阪の町の煤煙を浴びつつ、落ち着きのない日を送っていたが、京都を初めとして附近の名勝で、かねがね行ってみたいと思っていた場所を三四箇所見舞って、どこでも期待し
梶井基次郎
ある晩春の午後、私は村の街道に沿った土堤の上で日を浴びていた。空にはながらく動かないでいる巨きな雲があった。その雲はその地球に面した側に藤紫色をした陰翳を持っていた。そしてその尨大な容積やその藤紫色をした陰翳はなにかしら茫漠とした悲哀をその雲に感じさせた。 私の坐っているところはこの村でも一番広いとされている平地の縁に当っていた。山と溪とがその大方の眺めであ
坂口安吾
冬の明方のことだつた。夜はまだ明けない。然し夜明けが近づかうとしてゐるのだ。夜の不気味な妖しさが衰へて、巨大な虚しい悲しさが闇の全てに漲りはじめてゐる。草吉はそのとき自然に目を覚した。 室内も窓の彼方も一色の深い暗闇ではあつたが、重量の加はりはじめた寒気と、胸苦しい悲しみの気配によつて、もはや夜明けに近いことを推定することができた。四時半前後であらうと思つた
辻潤
芙美子さん―― しばらく留守にしてゐたので返事が遅れてすみません。帰つてから十日余りになるのです。身体はさしてわるいと云ふわけではないが、頭が痲痺してゐるやうなのです 序文は勿論喜んで書きます。しかし別段改まつて書く事もありません。 あなたが先づニセ物の詩人でないと云ふことがなにより先きに感じられるのです。 あなたは詩をからだ全体で書いてゐます。かう云つたら
林芙美子
自序 あゝ二十五の女心の痛みかな! 細々と海の色透きて見ゆる 黍畑に立ちたり二十五の女は 玉蜀黍よ玉蜀黍! かくばかり胸の痛むかな 廿五の女は海を眺めて 只呆然となり果てぬ。 一ツ二ツ三ツ四ツ 玉蜀黍の粒々は二十五の女の 侘しくも物ほしげなる片言なり 蒼い海風も 黄いろなる黍畑の風も 黒い土の吐息も 二十五の女心を濡らすかな。 海ぞひの黍畑に 何の願ひぞも
中井正一
蓄音器の針 中井正一 何の針をとって見てもヴィクターのソフトはヴィクターのソフトだ。針は現にひとつひとつ違っているんだがやはりヴィクターのソフトだ。どのひとつひとつもが一つの「型」にしかすぎない。 「型」の出現は一応販売あるいは組織から要求されてきたことである。 今人間もようやく政策あるいは就職の形式をもって、道具化商品化しつつある。すなわち「型」可能形の中
寺田寅彦
蓄音機 寺田寅彦 エジソンの蓄音機の発明が登録されたのは一八七七年でちょうど西南戦争の年であった。太平洋を隔てて起こったこの二つの出来事にはなんの関係もないようなものの、わが国の文化発達の歴史を西洋のと引き合わせてみる時の一つの目標にはなる。のみならず少なくとも私にはこの偶然の合致が何事かを暗示する象徴のようにも思われる。 エジソンの最初の蓄音機は、音のため
寺田寅彦
蓑田先生 寺田寅彦 明治二十七八年の頃K市の県立中学校に新しい英語の先生が赴任して来た。此の先生が当時の他の先生達に比較してあらゆる点で異彩を放つて居た。第一に年が若くて生徒等の兄さん位に見えた。さうして年取つて黒く萎びた先生や、堂々とした鬚を立てた先生等の中に交つた此の白面無鬚の公子の服装も著しくスマートなものであつた。ズボンの折目がいつでもキチンと際立つ
豊島与志雄
蓮 豊島与志雄 私は蓮が好きである。泥池の中から真直に一茎を伸して、その頂に一つ葉や花や実をつける、あの独特な風情もよい。また、単に花からばかりでなく、葉や実や根などからまでも、仄かに漂い出してくる、あの清い素純な香もよい。その形、その香、そして泥土と水、凡てに原始的な幽玄な趣きがある。 田舎の子供達は、真白な蓮の根をぽきりと折って、中に通ってる八つの穴に何
服部之総
蓮月尼の陶器には、にせものが多い。にせものとほんものを見わけるのは、急須なり茶わんなりに書きこんである彼女の自作の歌の文字の味で、判断するのである。文字ばかりはどんなにたくみに真似ても、まねきれるものでないといわれるが、ことに蓮月尼の陶器のばあいのように、素焼の肌につまようじかなにかで書き流したあとのうつくしさは、たとえようのないニュアンスをもってにせものの
蒲松齢
膠州の竇旭は幼な名を暁暉といっていた。ある日昼寝をしていると、一人の褐色の衣を着た男が榻の前に来たが、おずおずしてこっちを見たり後を見たりして、何かいいたいことでもあるようであった。竇は訊いた。 「何か御用ですか。」 褐衣の人はいった。 「殿様から御招待にあがりました。」 竇は訊いた。 「殿様とはどんな方です。」 褐衣の人はいった。 「すぐ近くにおられます。
南方熊楠
昭和九年六月の本誌(ドルメン)三〇頁に「又四五十年前三好太郎氏話に、夏の早朝、大阪の城※え、屡ば相場師が來て、水に臨んで喫烟し乍ら蓮の花の開くをまち、其音を聽て立去たと、其を聽て何にするかを聞なんだ、子細のある事か、識者の高教をまつ」と書置たが、一向高教は出なんだ。處ろが今(十一)月十五日弘前市の廣田博君より次の通知を受た。 愚生の母方の祖母から、幼時より聽
田中貢太郎
蓮香 田中貢太郎 桑生は泝州の生れであって、名は暁、字は子明、少い時に両親に死別れて紅花埠という所に下宿していた。この桑は生れつき静かなやわらぎのある生活を喜ぶ男で、東隣の家へ往って食事をする他は、自分の座にきちんと坐っていた。あの日、東隣にいる男が来て冗談に言った。 「君は独りいるが、鬼や狐はこわくないのかい」 桑は言った。 「男子が鬼や狐をこわがってどう
牧野信一
或る朝、私が朝飯を済ませて煙草を喫してゐるとAが来て、あがらないで、 「君、直ぐ散歩へ行かう、早く早く、直ぐ仕度をして呉れ。君は斯ういふ服装は持つてゐないか? あゝ、さうか、無ければたゞの洋服でよろしい、大急ぎで着換へないか。」と、大変勢急に口走ると私の返事も待たずに玄関を出て、そこの露路を気忙し気に口笛を吹きながらあちこちと往復してゐるのです。見るとAは、
豊島与志雄
蔵の二階 豊島与志雄 焼跡の中に、土蔵が一つある。この土蔵も、戦災の焔をかぶったので、ずいぶん破損している。上塗りの壁土は殆んど剥落して、中塗りの赤土や繩が露出し、屋根瓦も満足でなく、ひょろ長い雑草が生えて風にそよいでいる。二階の窓には、錆び捩れた鉄格子がついていて、その外側に白木の小さな庇が取り附けてあるので、一層さびれて見える。中は薄暗いらしく、昼間でも
内藤湖南
清朝はその初頃から有名な藏書家が多く、錢謙益及その族孫錢曾、又は季振宜などは、順治より康煕の初年に有名であるが、併し藏書家の最盛期は乾隆の中頃以後にあるので、乾隆の末から嘉慶を經て、道光の初頃まで居つた蘇州の黄丕烈は最も有名で、殆ど清朝を通じて第一の藏書家と言つてよいのである。 黄丕烈は宋版の本百餘種を得て、百宋一廛と號した。この頃の藏書家は、單に收藏の多き