計略二重戦 少年密偵
甲賀三郎
隠れた助力者 道雄少年のお父さんは仁科猛雄と云って、陸軍少佐です。しかし、仁科少佐は滅多に軍服を着ません。なぜなら少佐は特別の任務についているからです。特別の任務と云うのは、外国から入り込んで、隙があったら、日本帝国の軍機の秘密を盗もうとしている、恐るべき密偵を監視し警戒する役目なのです。こう云う恐るべき敵に対しては、仁科少佐を初めとして、何人もの人が日夜油
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甲賀三郎
隠れた助力者 道雄少年のお父さんは仁科猛雄と云って、陸軍少佐です。しかし、仁科少佐は滅多に軍服を着ません。なぜなら少佐は特別の任務についているからです。特別の任務と云うのは、外国から入り込んで、隙があったら、日本帝国の軍機の秘密を盗もうとしている、恐るべき密偵を監視し警戒する役目なのです。こう云う恐るべき敵に対しては、仁科少佐を初めとして、何人もの人が日夜油
岸田国士
悪夢のやうな戦争がすんで、その悪夢の名残りとも思はれる重苦しい気分が、まだ続いてゐるいく年か後のことである。 もう五十を二つ三つ越して、十年一日のやうな教師といふ職業に、すこし疲れをおぼえかけた守屋為助は、性来、ものごとにこだはらず、どこまでも善意をもつて人に接するといふ風な人物であつたにも拘はらず、近頃、ふとしたことに思ひ悩んで、めづらしく暗い顔を家のもの
長谷川伸
◇ 寛永十六年四月十六日の早朝。陸奥国会津四十万石加藤式部少輔明成の家士、弓削田宮内は若松城の南の方で、突然起った轟音にすわと、押っ取り刀で小屋の外へ飛び出した。この日宮内は頭痛がひどいので、小屋に引き籠って養生していたのである。 宮内は骨細い生れつきで、襟首のあたりは女かと思うばかり、和かい線をしていた。見るからに弱々しいのは姿ばかりではなく、実際に非力で
宮沢賢治
早くもひとり雪をけり はるかの吹雪をはせ行くは 木鼠捕りの悦治なり 三人ひとしくはせたちて 多吉ぞわらひ軋るとき 寅は溜りに倒れゐし 赤き毛布にくるまりて 風くるごとに足小刻むは 十にたらざる児らなれや 吹雪きたればあとなる児 急ぎて前にすがりつゝ 一列遠くうすれ行く ●図書カード
小熊秀雄
この長詩を書くための材料に 本棚を熱心にかきまはしたが 探す本は発見らない 黒表紙で五十頁余りの 吉田りん子といふ詩人の 『酒場の窓』といふ詩集だ、 捨て難いものがあつて 時々本棚の整理で本を売り飛ばす時も 傍に除けてをくのだから 何処かにまぎれ込んでゐるに相違ない 私は彼女を『奇蹟の女王』と名づけてゐる。
久保田万太郎
杖 五〇円 笠 三三〇円 べんたう行李 五五円 荷物行李(おひずる) 三〇〇円 首掛袋 八〇円 鈴 二五〇円 数珠 二五〇円 札箱 五〇円 お札 二〇円 納経帖 一〇〇円 脚絆
正岡子規
浮世の病ひ頭に上りては哲学の研究も惑病同源の理を示さず。行脚雲水の望みに心空になりては俗界の草根木皮、画にかいた白雲青山ほどにきかぬもあさまし。腰を屈めての辛苦艱難も世を逃れての自由気儘も固より同じ煩悩の意馬心猿と知らぬが仏の御力を杖にたのみていろ/\と病の足もと覚束なく草鞋の緒も結びあへでいそぎ都を立ちいでぬ。 五月雨に菅の笠ぬぐ別れ哉 知己の諸子はなむけ
萩原朔太郎
記憶をたとへてみれば 記憶は雪のふるやうなもので しづかに生活の過去につもるうれしさ。 記憶は見知らぬ波止場をあるいて にぎやかな夜霧の海に ぽうぽうと鳴る汽笛をきいた。 記憶はほの白む汽車の窓に わびしい東雲をながめるやうで 過ぎさる生活の景色のはてを ほのかに消えてゆく月のやうだ。 記憶は雪のふる都會の夜に しづかな建築の家根を這ひまはる さびしい青猫の
辰野隆
「久しぶりだな、全く。」 「久しぶりどころじゃないね、五十年ぶりだもの。」 こう云って、声を揃えて笑ったのは、何れも老人で、二人とも今年は算え歳の六十三である。この“久しぶり”という間投詞のような挨拶は、今しがた、二人が会ってから、もう二、三度繰返されていた。午食には既に遅く、夕飯には未だ早い半端な時刻に、二老人は都心に近い賑やかな街の小料理屋で盃を重ねてい
長塚節
故人には逸話が多かつた。數年間交際を繼續して居た人々は誰でも他の人には知られない、單に自分との間にのみ起つた或事實の二つや三つは持つて居ないことは無いであらう。それが大抵は語れば一座が皆どつと笑ひこけるやうなことのみに屬して居るらしい。一體故人の生涯は恐ろしい矛盾の生涯であつた。矛盾といふことは人生の常態であるにしても故人のは殊に甚だしいのである。あの何事に
岸田国士
妻の順子が急に、 「どうも、怪しいわ。こんなに痛いはずないんですもの」 と、顔をしかめながら言ふのをきいて、鈴村博志は、今更のやうにギクリとした。 「だつて、予定は来月初めぢやないか。まだ二週間はたつぷりあるぜ」 「あたしもそのつもりだつたのよ。だから、なんにも用意なんかしてないわ。でも、病院へ行くひまあるかしら……。苦しい、とても苦しい」 さう言つたまゝ、
宮本百合子
記憶に残る正月の思い出 宮本百合子 一、六つばかりの正月(多分)丁度旅順が陥落し、若かった母が、縁側に走り出、泣きながら「万歳!」と叫んだ時、私も夢中で「バンザイ!」と叫んでオイオイ泣いた。わけが分ってではない、母の感激に引き入れられたのでしょう。もう一つは、十六歳の正月。「何が正月お目出度い」と障子を睨んで陰気にしていたときの思い出。 二、雑煮、おにしめ。
佐藤春夫
下層社会――どん底の世界。そんな言葉は今や単に抽象的な表現ではない。具象的なものとして文字どほりに実現された。地下三百メートルにある人間社会の最下層の住宅区(?)(これをしも住宅と呼べるならば!)である。 彼はここに来てから幾日目かの朝を目ざめた。朝といふことがこんな世界でもわかるのが第一に不思議であつた。ラヂオは絶え間なしに明確に響いて来た。しかし、そんな
寺田寅彦
記録狂時代 寺田寅彦 何事でも「世界第一」という名前の好きなアメリカに、レコード熱の盛んなのは当然のことであるが、一九二九年はこのレコード熱がもっとも猖獗をきわめた年であって、その熱病が欧州にまでも蔓延した。この結果としてこの一年間にいろいろの珍しいレコードが多数にできあがった。それら記録の中で毛色の変わったのを若干拾いだした記事が机上の小冊子の中で見つかっ
坂口安吾
訣れも愉し 坂口安吾 私はあの頃の自分の心が良く分らない。色々のことを考へてゐた一聯の憂鬱な月日が遥かに思ひ出されるのであるが、どんなことを考へてゐたのやら、どんな気持でゐたのやら、それが失はれた夢の記憶を辿るやうでたよりないのだ。余り考へすぎたために其の考へが段々私自身から遠距かり、結局私はまるで私とは無関係な考へをあの頃思ひつめてゐたのだらう。私はあの頃
堀口九万一
フランソア・コッペ訪問記 堀口九萬一 僕が詩人フランソア・コッペをマンドルの田舎に訪問したのは、十月の晴々した日であつた。僕は以前からこの別荘の名は知ってゐたし。また誰が尋ねて行つても歓迎されると云ふことも、聞いてゐた。新聞記者などがコッペの閑居『苺園』の事を語る時にはいつも愉快さうな調子で話してゐたので。 ……そこで僕達は出発した。僕達といふのは学友のシャ
牧野信一
R村のピエル・フオンの城主を夏の間に訪問する約束だつたが、貧しい生活にのみ囚はれてゐる私は、決してそれだけの余暇を見出す事が出来ずにゐる間に、世は晩秋の薄ら寂しい候であつた。私の尊敬する先輩の藤屋八郎氏は、欧洲中世紀文学の最も隠れたる研究家で、その住居を自らピエル・フオンと称んでゐた。が、藤屋氏は近々永年の「城住ゐ」を打切つて新生活(何んなかたちのものかをお
高木貞治
S―君. …………… 晩の7時15分少し前から Wilhelm Weber 町29番地の前の歩道を僕は行きつ戻りつしていました.星の見えたのは近日珍らしいが,秋風が冷こくなってリンデの落葉が二ひら三ひら散らばっているなどは誂向きの道具立です. 其処で僕は或る Frulein と rendez-vous があったのです.フロイラインというのは Prof. Dr
島崎藤村
はらからと袂を分ち、むつましきかぎりに別れをつげて、たゞ/\ものくるはしき一筋にうかれそめ、難波西海のあたりをさまよふこと二月あまり、菅笠の破れたるをいたゞき、身には合羽のふりたるを着し、おもくるしき旅の調度ども前後に背負ひたるさま、まことに怪しき姿して、ことし三月十四日吉野山西行庵に上人の木像を驚かす。西行庵はよしの村をはなるゝこと五十丁ばかり、樵夫の外に
中野鈴子
「詩とたたかいとは もはや 朝鮮において 区別出来ず たたかいと 詩とは もはや 朝鮮では二つのものではない 若し朝鮮の詩人の名のすべてを聞く人 愛国者の名を聞く人があったら すべての朝鮮の人民の名を のこらず 挙げよう」 (許南麒の詩) 我がサークルの仲間たち 田をおこす 土方をしている 洋服屋へ 通うている 下駄屋 古着屋 奨学資金で 大学にいるもの
岸田国士
何しろ、僕は今まで、劇作家としてのあなたにより多くの親しみをもち、小説家乃至随筆家としてのあなたを殆んど識らなかつた。勿論、あなたの出世作「Poil de Carotte」は、脚本と併せて小説の方も読んだが、それは例の色んな本を渉猟すると云ふ楽しみ、名著を翻くと云ふこと、そのことが既に心を酔はせる、さう云ふ時代の、不真面目とは思はないが可なり無批判な、要する
佐藤春夫
第一に僕は感謝しなければならぬ。君のこの立派な仕事が僕におくられてある事を。自ら省みて過分なやうな気がする。それから次に報告しなければならぬ。僕が君のまことの友であつたのが、今はつきりした事を。そのわけはもしこの美しい――内容外形ともに、美しい堂々たる書物が、君の手によつて出来たのでなかつたら、僕はきつとその著者に、多少のねたみを感ずるに違ひない。しかも僕に
南方熊楠
人類學雜誌二九卷十二號四九五―七頁に誓言(英語で Swearing)の事を述べたが、爰には詛言(英語で Curse)に就て少しく述よう。 詛言とは他人が凶事に遭へと、自分が望む由罵り言ふので、邦俗「早くくたばれ」「死んぢまへ」などいふのがそれだ。今日何の氣もなくそんな語を吐く人が有る樣だが、實は甚だ宜しくない。英米に最も盛んなゴッデム(神汝を罪す)又、デム何
神西清
チェーホフの人柄については、コロレンコ、クープリン、ブーニン、ゴーリキイの回想をはじめ、弟ミハイール、妻オリガ、スタニスラーフスキイなど芸術座の人びと、そのほか無数といっていいほどの遠近の知人による証言がある。その内容は一見驚くほど似通っていて、一つの調和あるチェーホフ像を浮びあがらせ、ほかのロシア作家に見られるような毀誉褒貶の分裂がない。コロレンコは二十七