鯛と赤蛸
佐藤垢石
鯛と赤蛸 佐藤垢石 瀬戸内海の鯛釣り漁師は、蛸の足を餌に使っている。 これは、甚だ有効であるという話だ。しかし、東京湾口あたりの鯛が、果たして蛸の足の餌に食いつくかどうか疑問であるし、三浦半島の鴨居あたりの鯛釣り漁師に問うてみても、かつて蛸の足を餌に用いたことがないというから、私はかつて蛸の足を鯛釣りの餌に用いなかった。 しかし、いつかこれを使ってみたいとは
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佐藤垢石
鯛と赤蛸 佐藤垢石 瀬戸内海の鯛釣り漁師は、蛸の足を餌に使っている。 これは、甚だ有効であるという話だ。しかし、東京湾口あたりの鯛が、果たして蛸の足の餌に食いつくかどうか疑問であるし、三浦半島の鴨居あたりの鯛釣り漁師に問うてみても、かつて蛸の足を餌に用いたことがないというから、私はかつて蛸の足を鯛釣りの餌に用いなかった。 しかし、いつかこれを使ってみたいとは
佐藤垢石
鯛釣り素人咄 佐藤垢石 職業漁師でも遊釣人でも、鯛といえば、真鯛を指すのが常識である。真鯛に色、形ともによく似ているのに血鯛と黄鯛とがある。これは、真鯛に比べると気品も味も劣り、釣りの興趣も真鯛ほどではない。 真鯛の当歳子、つまり出来鯛の四、五十匁くらいまでのものをベン鯛と呼び、六、七十匁から二百匁くらいの二歳、三歳のをカスゴ鯛と称しているが、三百匁から四、
佐藤垢石
僕は、大概の大物釣には経験を持っている。大鯛、ブリ、石鯛、マグロ、鮫などの猛勇も、僕の手に掛っては何れも降参しているのだが、まだ鯨だけは退治したことがない。 釣に趣味を持つからには、いま地球上に生存する最も大きな動物を、釣って見たいと思うのだ。一番大きな動物は鯨だけれど、僕の腕が冴えていたところで、この鯨だけは釣るわけには参るまい、と、多年鯨捕りの熱望を持ち
佐藤垢石
私は、鯰の屈託のない顔を見ると、まことに心がのんびりとするのである。私もあんな顔の持ち主に生まれてくればよかったな、と思うくらいである。 小さな丸い眼、大きな口、下顎の出た唇、左右に長く伸びた細い髭。あの髭は人間として真似ようもないが、あの顔全体から受ける印象は聖賢の風格を持っている。私の古い友人に中井川浩という茨城県選出の代議士があった。この人物の顔は、実
島木健作
赤い脚絆がずり下り、右足の雪靴の紐が切れかかっているのをなおそうともしないで、源吉はのろのろとあるいて行った。やっと目的地についたという安心も手伝って、T町の入口にさしかかった頃には、飢えと疲れとで彼はそのままそこの雪の上にぶったおれそうだった。角の駄菓子屋で塩あんの大福を五銭だけ買い、それを食いながら、街路の上にようやく人通りの増して来た町のなかへ彼は這入
佐藤垢石
鰍の卵について 佐藤垢石 私の、山女魚釣りを習った場所は奥利根であった。この地元では春先、山女魚を釣るのに餌は鰍の卵と、山ぶどうの虫を餌に用いたのである。 しかし、この二つの餌のうち、鰍の卵の方が断然と成績がよろしい。それは、早春の山女魚は鰍の卵を常食としているためであろうと思う。けれど、この卵を人間が食べると甚だおいしくないのだ。鰍の肉は、天ぷらにしても、
三遊亭円朝
鰍沢雪の夜噺(小室山の御封、玉子酒、熊の膏薬) 三遊亭円朝 これは三題噺でございます。○「ひどく降るな、久しいあとに親父が身延山へ参詣に行つた時にやつぱり雪の為めに難渋して木の下で夜を明したとのことだがお祖師様の罰でもあたつてゐるのかしら、斯う降られては野宿でもしなければなるまい、宿屋は此近所にはなし、うム向うに灯が見えるが人家があるのだらう。雪を踏み分け/
北大路魯山人
鰻の話 北大路魯山人 私は京都に生まれ、京都で二十年育ったために、京、大阪に詳しい。その後、東京に暮して東京も知るところが多い。従って批判する場合、依怙贔屓がないといえよう。うなぎの焼き方についても、東京だ大阪だと片意地はいわないが、まず批判してみよう。 夏の季節は、どこも同じように、一般にうなぎに舌をならす。従ってうなぎ談義が随所に花を咲かせる。うなぎ屋も
佐藤垢石
鱒の卵 佐藤垢石 秋がくると、山女魚は鱒の卵を争って食うのである。わが故郷、奥利根川へ注ぐ渓流には落ち葉を浮かせて流れる浅瀬に、鱒の産卵場を見ることができるのだ。これを、鱒が掘りについたという。 日本鱒というのか、天然鱒というのか、海から川へ遡ってくる鱒は、アメリカから移り殖えた虹鱒とか川鱒とか、北海道から内地へ移して人工で繁殖した鱒に比べると、比較にならな
今野大力
濃緑のあかだもの木の下にて 三十を越えた 四十あまりの人の話をきく 二十余年北国の地に流浪して 絶えず山水に親しみながら 生活を続けて来た人の話である 面は陽に赫けている ひげはおとなしくあご一面に ぼうぼうと生えている アイヌとも妥協して 或は独木舟に乗り激流をさか上った 事もあると言う 熊狩りに魚捕りに 野に山に宿した事もあると言う 長い半生にありし物語
牧野信一
鱗雲 牧野信一 一 百足凧――これは私達の幼時には毎年見物させられた珍らしくもなかつた凧である。当時は、大なり小なり大概の家にはこの百足の姿に擬した凧が大切に保存されてゐた。私の生家にも前代から持ち伝へられたといふ三間ばかりの長さのある百足凧があつた。この大きさでは自慢にはならなかつた。小の部に属するものだつた。それだと云つても子供の慰み物ではない。子供など
上司小剣
郵便配達が巡査のやうな靴音をさして入つて來た。 「福島磯……といふ人が居ますか。」 彼は焦々した調子でかう言つて、束になつた葉書や手紙の中から、赤い印紙を二枚貼つた封の厚いのを取り出した。 道頓堀の夜景は丁どこれから、といふ時刻で、筋向うの芝居は幕間になつたらしく、讚岐屋の店は一時に立て込んで、二階からの通し物や、芝居の本家や前茶屋からの出前で、銀場も板場も
上司小剣
郵便配達が巡査のやうな靴音をさして入つて来た。 「福島磯……といふ人が居ますか。」 彼は焦々した調子でかう言つて、束になつた葉書や手紙の中から、赤い印紙を二枚貼つた封の厚いのを取り出した。 道頓堀の夜景は丁どこれから、といふ時刻で、筋向うの芝居は幕間になつたらしく、讃岐屋の店は一時に立て込んで、二階からの通し物や、芝居の本家や前茶屋からの出前で、銀場も板場も
ドストエフスキーフィヨードル・ミハイロヴィチ
一 己の友達で、同僚で、遠い親類にさへなつてゐる、学者のイワン・マトヱエヰツチユと云ふ男がゐる。その男の細君エレナ・イワノフナが一月十三日午後〇時三十分に突然かう云ふ事を言ひ出した。それは此間から新道で見料を取つて見せてゐる大きい鰐を見に行きたいと云ふのである。夫は外国旅行をする筈で、もう汽車の切符を買つて隠しに入れてゐる。旅行は保養の為めと云ふよりは、寧ろ
佐藤垢石
みやこ鳥 佐藤垢石 一 この正月の、西北の風が吹くある寒い朝、ちょっとした用事があって、両国橋を西から東へわたったことがあった。 橋のたもとから十五、六歩足を運んだ時、ふと水の上へ眼をやった。すると、大川と神田川が合流する柳橋の龜清の石垣の下の静かな波の上に、白いものが浮いているのを見た。私は、欄干によりかかって、しばらくそれに眺め入った。白いものは、かもめ
宮沢賢治
鳥をとるやなぎ 宮沢賢治 「煙山にエレッキのやなぎの木があるよ。」 藤原慶次郎がだしぬけに私に云いました。私たちがみんな教室に入って、机に座り、先生はまだ教員室に寄っている間でした。尋常四年の二学期のはじめ頃だったと思います。 「エレキの楊の木?」と私が尋ね返そうとしましたとき、慶次郎はあんまり短くて書けなくなった鉛筆を、一番前の源吉に投げつけました。源吉は
中谷宇吉郎
サントリーの鳥井信治郎さんとは、もう三十年越しのお近付きを願っている。この鳥井さんと私との話には、少し美談めいたところがあるので、今まであまり書いたことがなかった。美談というものは、公表すべきものではないそうである。しかし三十年といえば、たいへんな年月であるから、もう今では、遠い過去の話として、書いてもよいであろう。 ことの起りは、私が四高の三年生になった時
新美南吉
鳥山鳥右ヱ門は、弓矢を抱へて、白い馬にまたがり、広い庭のまんなかに立つてゐました。しもべの平次が犬をひいてあらはれるのを待つてゐたのです。 その、しもべの平次を、主人の鳥右ヱ門はあまり好きではありませんでした。平次はかれこれ二月ばかりまへ、鳥右ヱ門の館にやとはれて来た、背の低い、体のこつこつした、無口な男です。どこの生まれなのか、自分でもよく知らないといつて
堀辰雄
前口上 昔タルティーニと云う作曲家が Trillo del Diavoloと云うソナータを 夢の中で作曲したと云う話は 大層有名な話である故、 読者諸君も大方御存知だろうが、 一寸私の手許にある音楽辞典から引用してみると、 何でもタルティーニは或晩の事、 自分の霊魂を悪魔に売った夢を見たそうな。 その時悪魔がヴァイオリンを手にとって いとも巧に弾奏し出したの
堀辰雄
昔タルテイーニと云ふ作曲家が Trillo del Diavolo と云ふソナータを 夢の中で作曲したといふ話は 大層有名な話である故、 讀者諸君も大方御存知だらうが 一寸私の手許にある音樂辭典から引用して見ると、 何でもタルテイーニは或晩の事、 自分の靈魂を惡魔に賣つた夢を見たさうな。 その時惡魔がヴアイオリンを手にとつて いとも巧に彈奏し出したのは 到底
原民喜
森は雪におおわれて真白になりました。高い大きな枯木の上で、カラスが拡声器をすえて、今しきりに、こんなことを喋っています。 ああああ ただ今 試験中です ああああ ただ今 試験中です ああああ ただ今 試験中です いつまで待っていても、ああああ と云うばっかしなので、小鳥たちは顔を見あわせてくすくす笑いました。でも、何か始まるだろうと思って待っていました。 あ
富永太郎
私はその建物を、圧しつけるやうな午後の雪空の下にしか見たことがない。また、私がそれに近づくのは、あらゆる追憶が、それの齎す嫌悪を以て、私の肉体を飽和してしまつたときに限つてゐた。私は褐色の唾液を満載して自分の部屋を見棄てる、どこへ行くのかをも知らずに…… 煤けた板壁に、痴呆のやうな口を開いた硝子窓。空のどこから落ちて来るのか知ることの出来ぬ光が、安硝子の雲形
宮沢賢治
鳥箱先生とフウねずみ 宮沢賢治 あるうちに一つの鳥かごがありました。 鳥かごと云ふよりは、鳥箱といふ方が、よくわかるかもしれません。それは、天井と、底と、三方の壁とが、無暗に厚い板でできてゐて、正面丈けが、針がねの網でこさへた戸になってゐました。 そして小さなガラスの窓が横の方についてゐました。ある日一疋の子供のひよどりがその中に入れられました。ひよどりは、
田畑修一郎
鳥羽家の子供 田畑修一郎 松根は五人目の軍治を生んだ時にはもう四十を越えてゐた。子供の間が遠くて、長女の民子はその時他へ嫁いでゐた位だつたが、男の児と云つては、長男の竜一が漸く小学校に上つた許りであり、次の昌平は悪戯盛りで、晩年のお産のためか軍治は発育が悪く、無事に育てばよいがと思はれる程だつた。 松根の身体もそれ以後めつきり弱つた。気管支が悪いと医者に注意