小園の記
正岡子規
小園の記 正岡子規 我に二十坪の小園あり。園は家の南にありて上野の杉を垣の外に控へたり。場末の家まばらに建てられたれば青空は庭の外に拡がりて雲行き鳥翔る様もいとゆたかに眺めらる。始めてこゝに移りし頃は僅に竹藪を開きたる跡とおぼしく草も木も無き裸の庭なりしを、やがて家主なる人の小松三本を栽ゑて稍物めかしたるに、隣の老媼の与へたる薔薇の苗さへ植ゑ添へて四五輪の花
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正岡子規
小園の記 正岡子規 我に二十坪の小園あり。園は家の南にありて上野の杉を垣の外に控へたり。場末の家まばらに建てられたれば青空は庭の外に拡がりて雲行き鳥翔る様もいとゆたかに眺めらる。始めてこゝに移りし頃は僅に竹藪を開きたる跡とおぼしく草も木も無き裸の庭なりしを、やがて家主なる人の小松三本を栽ゑて稍物めかしたるに、隣の老媼の与へたる薔薇の苗さへ植ゑ添へて四五輪の花
宮本百合子
所謂出入商人の、種々な間違いや「つけがけ」をふせぐために、出来るだけ現金払いにしているので、生憎、はっきりした数字的の事実はあげられません。相当な注意をもって比較した結果、信用した店を買いつけにしているので、実験上の不正事実は思いあたりません。後ればせながら、御返事申上ます。 〔一九二一年十一月〕 ●図書カード
薄田泣菫
小壺狩 薄田泣菫 一 彦山村から槻の木へ抜ける薬師峠の山路に沿うて、古ぼけた一軒茶屋が立つてゐます。その店さきに腰を下ろして休んでゐるのは、松井佐渡守の仲間喜平でした。松井佐渡守といふのは、当国小倉の城主細川忠興の老臣として聞えた人でした。 晴れた初夏の昼過ぎて、新鮮な若葉の山は、明るい日光をうけて陽気に笑つてゐました。先刻から軒さきに突つ立つた高い木の枝に
岡本綺堂
秋の末である。遠江国日坂の宿に近い小夜の中山街道の茶店へ、ひとりの女が飴を買ひに来た。 茶店といつても型ばかりのもので、大きい榎の下で差掛け同様の店をこしらへて、往来の旅人を休ませてゐた。店には秋らしい柿や栗がならべてあつた。そのほかにはこの土地の名物といふ飴を売つてゐた。秋も深けて、この頃の日脚はだん/\に詰まつて来たので、亭主はもうそろ/\と店を仕舞はう
新美南吉
お花畑から、大きな虫がいっぴき、ぶうんと空にのぼりはじめました。 からだが重いのか、ゆっくりのぼりはじめました。 地面から一メートルぐらいのぼると、横にとびはじめました。 やはり、からだが重いので、ゆっくりいきます。うまやの角の方へのろのろとゆきます。 みていた小さい太郎は、縁側からとびおりました。そしてはだしのまま、篩をもって追っかけてゆきました。 うまや
小川未明
きょうは、二郎ちゃんのお免状日です。お母さんは、新しい洋服を出して、 「これを着ていらっしゃい。よごすのでありませんよ。」と、おっしゃいました。二郎ちゃんの、いままで着ていた洋服はよごれて、ところどころつくろってあります。 「お母さん、これでいいよ。」と、二郎ちゃんは、いいました。こないだまで、こんな服は、みっともないといったくせに、きょうは、新しい服を着て
福沢諭吉
小学教育の事 福沢諭吉 小学教育の事 一 教育とは人を教え育つるという義にして、人の子は、生れながら物事を知る者に非ず。先きにこの世に生れて身に覚えある者が、その覚えたることを二代目の者に伝え、二代目は三代目に授けて、人間の世界の有様を次第次第に良き方に進めんとする趣意なれば、およそ人の子たる者は誰れ彼れの差別なく、必ず教育の門に入らざるをえず。いかなる才子
岸田国士
「……私は、此の牢屋のやうな暗い処で蠢いてゐる人間のために一つの窓を明けて、人間の貴さを見せてやる、それが芸術家の仕事ではないかと思つてゐる。真暗な牢屋の壁に一つの穴をあけて、明るい世の中を見せる。そこでは人間が獣でもなければ、神様でもない、人間は人間であつて同時に超人である。私はそれを見せて貰ひたい」 「私の標準は甚だ狭いかも知れない。人道主義的だと云はれ
久保栄
小山内薫先生劇場葬公文 久保栄 築地小劇場劇団部主事小山内薫先生は、昭和三年十二月二十五日午後七時、日本橋亀島町旗亭「偕楽園」において発病、主治医蘆原信之氏看護のもとに危篤のまま四谷南寺町七番地の自宅に送られ、同日午後十一時ついに永眠せられた。宿痾の動脈硬化症による心臓麻痺のためである。遺族、近親は遺骸を二階十畳の間に安置し、喪を秘して翌朝に及び、二十六日午
岸田国士
小山祐士君の『瀬戸内海の子供ら』 岸田國士 小山君の戯曲家としての成長は、その階梯が極めて劃然とし、『翻るリボン』から、『十二月』、それからこの『瀬戸内海の子供ら』に至る最近の三作を通じて、見事な飛躍をなし、遂に、同君の今日の境地に於て、恐らく完璧ともいふべき表現に到達し得たといふことは、芸術修業の道にあるものが、等しく羨望に堪へぬところである。如何なる好条
坂口安吾
小さな山羊の記録 坂口安吾 私は若い頃から、衰頽の期間にいつも洟汁が流れて悩む習慣があった。青洟ではなく、透明な粘液的なものであった。だから蓄膿症だと思ったことはない。然し、ねていると胃に流れこみ、起きていると、むやみに洟をかみつゞけなければならない。胃へ流れこむまゝにすると、忽ち吐き気を催し、終日吐き気に苦しんで、思考する時間もなく、仕事に注意を集中し持続
高野六郎
小川さんは完全な癩療養所の先生であると私は信じている。完全な者はそう幾人もない。小川さんは日本における稀有な存在である。 小川さんは心魂を捧げつくして癩事業に精進する。小川さんの「土佐の秋」や「小島の春」を読んで圧迫を感じない者はなかろう。 「誰にでも、一人でも、療養所を、癩を諒解して貰いたい心願に燃えて」小川さんは土佐の山奥や瀬戸の小島を心身を消耗させなが
下村海南
トラツクのふちにつかまりすすり上げすすり上げ泣く四十の男 これやこの夫と妻子の一生の別れかと想へば我も泣かるる 夫と妻が親とその子が生き別る悲しき病世に無からしめ 一等国中の一等国である日本には、まだ癩の患者が至るところに、医療の手当にも恵まれずに散らかっている。欧米各国では患者の全部が隔離され収容され、それぞれに手当をうけて余生を送っている。そうした患者が
光田健輔
女医が癩救療に一地歩を築きたるは日本医学史に特筆すべき事実である。先づ服部けさ子女史の草津聖バルナバ医院における、余生において西原蕾、五十嵐正の二女史のごとき、大島に高橋竹代女史あり、我が愛生園にはさきに大西富美子女史あり、本篇の著者小川正子女史あり。皆一身を此事業になげうって悔なきの決心を有し、両親親戚の勧告に耳をもかさず、世人の批評に頓着なきの男まさりの
牧野信一
或日彼は、過去の作品を一まとめにして、書物にすることで、読みはじめると、大変に情けなくなつて、恥で、火になつた。――身も世もなき思ひであつた。 就中、純吉といふ主人公が出て来る幾つかの作品では、堕落を感じて、居たゝまれなかつた。「純吉」が、他人をモデルにしたものでもなく、架空の人物でもなく、読む者に作者自身であるかのやうな概念を与へるのみか、作家自身の態度が
野口雨情
小川芋銭先生と私 野口雨情 小川芋銭先生は、もとは牛里と云ふ雅号で、子規居士時代から俳句を詠んで居られた。牛里とは常陸牛久沼の里の地名から付けた雅号であらうと思はれる。私が、芋銭先生を知つたのは画家としてよりは、俳人として知つて居たので、芋銭先生が画を描くとは知らなかつた。「あの人が画を描くのか」と思つた位ゐであつた。 芋銭先生を初めて知つたのは恰度取手の在
北大路魯山人
干ものの美味いのに当ったよろこびは格別である。ことに中干しとか、生乾しとか言った類いの最上物に当るうれしさは、筆に尽しがたい。東京近くで言うと、熱海の干ものがなかなか評判だ。もともと熱海の漁場に揚がるあじ・いか・かれい・あまだいなど、さかなの種類も相当のものだが、干上がりの条件として、もってこいの浜風と気温に恵まれている点が、味をよくする最大原因となっている
小川未明
ある日、小さな年ちゃんは、お母さんのいいつけで、お使いにいきました。 「ころばないようにして、いらっしゃい。」と、お母さんは、おっしゃいました。 年ちゃんは、片手に財布を握り、片手にふろしきを持って、兄さんのげたをはいて、引きずるようにしてゆきました。 お豆腐屋の前に、大きな赤犬がいました。年ちゃんは、その前を通るのが、なんだかこわかったのです。けれど、赤犬
原民喜
暗い雨のふきつのる、あれはてた庭であつた。わたしは妻が死んだのを知つておどろき泣いてゐた。泣きさけぶ声で目がさめると、妻はかたはらにねむつてゐた。 ……その夢から十日あまりして、ほんとに妻は死んでしまつた。庭にふりつのるまつくらの雨がいまはもう夢ではないのだ。
小川未明
良ちゃんは、お姉さんの持っている、銀のシャープ=ペンシルがほしくてならなかったのです。けれど、いくらねだっても、お姉さんは、 「どうして、こればかしは、あげられますものか。」と、いわぬばかりな顔つきをして、うんとはおっしゃらなかったのでした。 お姉さんは、良ちゃんをかわいがっていました。英ちゃんや、義雄さんよりも、かわいがっていました。それは、良ちゃんはまだ
太宰治
イエスが十字架につけられて、そのとき脱ぎ捨て給いし真白な下着は、上から下まで縫い目なしの全部その形のままに織った実にめずらしい衣だったので、兵卒どもはその品の高尚典雅に嘆息をもらしたと聖書に録されてあったけれども、 妻よ、 イエスならぬ市井のただの弱虫が、毎日こうして苦しんで、そうして、もしも死なねばならぬ時が来たならば、縫い目なしの下着は望まぬ、せめてキャ
富田木歩
小さな旅 富田木歩 五月六日 今宵は向嶋の姉に招かれて泊りがてら遊びに行くのである。 おさえ切れぬ嬉しさにそゝられて、日毎見馴れている玻璃窓外の躑躅でさえ、此の記念すべき日の喜びを句に纒めよと暗示するかのように見える。 母は良さんを連れて来た、良さんと云うのは此の旅を果させて呉れる――私にとっては汽車汽船よりも大切な車夫である。 俥は曳き出された。足でつッぱ
国木田独歩
十一月某日、自分は朝から書斎にこもって書見をしていた。その書はウォーズウォルス詩集である、この詩集一冊は自分に取りて容易ならぬ関係があるので。これを手に入れたはすでに八年前のこと、忘れもせぬ九月二十一日の夜であった。ああ八年の歳月! 憶えば夢のようである。 ことにこの一、二年はこの詩集すら、わずかに二、三十巻しかないわが蔵書中にあってもはなはだしく冷遇せられ
宮本百合子
その街は、昼間歩いて見るとまるで別な処のように感じられた。 四方から集って来た八本の架空線が、空の下で網めになって揺れている下では、ゲートルをまきつけた巡査が、短い影を足許に落し、鋭く呼子をふき鳴しながら、頻繁な交通を整理している。 のろく、次第にうなりを立てて速く走って行く電車や、キラキラニッケル鍍金の車輪を閃かせ、後から後からと続く自転車の列。低い黒い背