来訪者のモデル
伊庭心猿
御成道のうさぎや主人、谷口喜作さんから「先生はいまタカちやんと君のことを書いてゐるさうですよ」と知らされたのは、まだ空襲もさう激しくならない、たしか昭和十八年の春頃だつたと覺えてゐる。 タカちやんといふのは、即ち永井荷風氏の近業「來訪者」の登場人物白井巍君のことで、當時房州保田に住んでゐたので、自ら房陽山人と號し、終戰後發表された先生の日記の中に、南總外史と
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伊庭心猿
御成道のうさぎや主人、谷口喜作さんから「先生はいまタカちやんと君のことを書いてゐるさうですよ」と知らされたのは、まだ空襲もさう激しくならない、たしか昭和十八年の春頃だつたと覺えてゐる。 タカちやんといふのは、即ち永井荷風氏の近業「來訪者」の登場人物白井巍君のことで、當時房州保田に住んでゐたので、自ら房陽山人と號し、終戰後發表された先生の日記の中に、南總外史と
新美南吉
うまれて 來る 雀達 新美南吉 その 雀は びつこでした。まだ やつと 飛べるやうに なつたばかりの 頃、いたづらな 少年に とらへられて 片足を ひもで 固く 縛られましたため か弱い 足は きづついて しまつたのでした。 その びつこの 雀が 麥畑の 黄く なる 頃 或る 家の 軒に 三つの 卵を うみました。 雀は うれしくて うれしくて、三つの 卵を
永井荷風
来青花 永井荷風 藤山吹の花早くも散りて、新樹のかげ忽ち小暗く、盛久しき躑躅の花の色も稍うつろひ行く時、松のみどりの長くのびて、金色の花粉風来れば烟の如く飛びまがふ。月正に五月に入つて旬日を経たる頃なり。もし花卉を愛する人のたま/\わが廃宅に訪来ることあらんか、蝶影片々たる閑庭異様なる花香の脉々として漂へるを知るべし。而して其香気は梅花梨花の高淡なるにあらず
寺田寅彦
八月二十六日床を出でて先ず欄干に倚る。空よく晴れて朝風やゝ肌寒く露の小萩のみだれを吹いて葉鶏頭の色鮮やかに穂先おおかた黄ばみたる田面を見渡す。薄霧北の山の根に消えやらず、柿の実撒砂にかちりと音して宿夢拭うがごとくにさめたり。しばらくの別れを握手に告ぐる妻が鬢の後れ毛に風ゆらぎて蚊帳の裾ゆら/\と秋も早や立つめり。台所に杯盤の音、戸口に見送りの人声、はや出立た
牧野信一
十一月四日。東京市外、東中野――余儀ない遊びを続けてゐる若い友達夫婦が一ト間だけ借りてゐる二階に客となり続けてゐる。迎へをうけて、導かれて来たまゝなので番地は知らない。帰つたところでこの客はハガキ一本書くではなし、此処の何某方何番地を訊ねる要もない。 その上、この部屋を嫌つてゐる彼等は、めいめいの鞄を携えて、この客と共にこの客が住む田舎へ走り、変じて客となり
桜間中庸
鈴かけの街路樹。葉の落ちつくした梢を空つ風がうなつて通る十二月です。自動車と電車の音のみが、いやにやかましい所、此處は内務省大藏省復興局などの門を並べたいかめしい? 丸の内です、バラツクの大藏省復興局、それ等の門だけが威嚴をそへようとつとめてゐる。 音の波、光の波、人の波。三つの波が交錯して夜の商店街を構成してゐる。 競つてうならす蓄音機の頓狂なひびき、ラヂ
竹内浩三
東京はタイクツな町だ 男も女も 笑わずに とがった神経で 高いカカトで 自分の目的の外は何も考えず 歩いて行く 東京は冷い町だ レンガもアスファルトも 笑わずに 四角い顔で 冷い表情で ほこりまみれで よこたわっている 東京では 漫画やオペラが 要るはずだと うなずける ●図書カード
太宰治
東京だより 太宰治 東京は、いま、働く少女で一ぱいです。朝夕、工場の行き帰り、少女たちは二列縦隊に並んで産業戦士の歌を合唱しながら東京の街を行進します。ほとんどもう、男の子と同じ服装をしています。でも、下駄の鼻緒が赤くて、その一点にだけ、女の子の匂いを残しています。どの子もみんな、同じ様な顔をしています。年の頃さえ、はっきり見当がつきません。全部をおかみに捧
正岡容
省線浅草橋駅歩廊の外側には、このほど穴だらけの焼トタン一めんに貼りめぐらされてゐるが、その南側の方の、なるほどすぐ目の前にはハッキリと両国橋の見られさうな小さな焼穴の上へ、幼稚な白墨の字で、 「ココカラ両国見エル」 と落書してある。微笑ましいおもひで私は、ふつとその少うし隣りの穴の上を見たら、なんとそこにはまた、明らかに別人の手で、 「ココカラハ両国見エナイ
太宰治
所收――「東京八景」「HUMAN LOST」「きりぎりす」「短篇集―一燈・失敗園・リイズ」「盲人濁笑」「ロマネスク」「乞食學生」 作者が、作品に説明を附けると、讀者は、その説明文に頼り過ぎていけない。作品以外に説明文を熱心に讀む傾向があるから、いけない。いつの頃から、そんな傾向があらはれたものか、とにかく、惡い癖である。作者だつて、自作に就いて的確な説明は、
太宰治
伊豆の南、温泉が湧き出ているというだけで、他には何一つとるところの無い、つまらぬ山村である。戸数三十という感じである。こんなところは、宿泊料も安いであろうという、理由だけで、私はその索寞たる山村を選んだ。昭和十五年、七月三日の事である。その頃は、私にも、少しお金の余裕があったのである。けれども、それから先の事は、やはり真暗であった。小説が少しも書けなくなる事
佐藤春夫
オリンポス遠きギリシャの いにしへの神々の火は 海を越え荒野をよぎり はるばると渡り來て 今ここに燃えにぞ燃ゆる 青春の命のかぎり 若人ら力つくして この國の世界の祭 喜ばん富士も筑波も はためきて五輪の旗や へんぽんとひるがへる 日本の秋さはやかに 東海の我らが小島 み空より四方の海より この星のいたるところの すぐれたる若人迎へ 國々の旗立てならべ 萬國
小林一三
東京宝塚劇場の再開に憶う 小林一三 私は、関西で創立した宝塚歌劇を、何んとか東都に進出させ度いとかんがえて東京の市村座・歌舞伎座・新橋演舞場・帝国劇場等に出演させて、その様子を見て居りましたところ、充分成功する見透しがついたので、昭和七年、今の東宝株式会社の前身、株式会社東京宝塚劇場を設立し、日比谷の一角に、宝塚歌劇が常打できる東京宝塚劇場の建設にかかったの
正岡容
おもへば大空襲に先立つ年余、日に/\荒蕪し行く東京都ではあつたが、郷土故の愛情はまた格別で、いまのうちに私の全作品の心臓をなしてゐるこの東京のおもひでをかき付けておかうとおもひ立ちどうやら「東京伝統美」と題し「わが日和下駄」と傍書した三百枚ちかい作品ができ上がつた。しかし当時最早私のごとき戦争非共力者の著書は不急不要の悪本として厳禁されてゐたので到底開版す可
織田作之助
東京文壇に与う 織田作之助 豪放かつ不逞な棋風と、不死身にしてかつあくまで不敵な面だましいを日頃もっていた神田八段であったが、こんどの名人位挑戦試合では、折柄大患後の衰弱はげしく、紙のように蒼白な顔色で、薬瓶を携えて盤にのぞむといった状態では、すでに勝負も決したといってもよく、果して無惨な敗北を喫した。試合中、盤の上で薄弱な咳をしていたということである。 こ
北原白秋
東京景物詩及其他 北原白秋 わかき日の饗宴を忍びてこの怪しき紺と青との 詩集を“PAN”とわが「屋上庭園」の友にささぐ 東京夜曲 公園の薄暮 ほの青き銀色の空気に、 そことなく噴水の水はしたたり、 薄明ややしばしさまかえぬほど、 ふくらなる羽毛頸巻のいろなやましく女ゆきかふ。 つつましき枯草の湿るにほひよ…… 円形に、あるは楕円に、 劃られし園の配置の黄にほ
佐藤垢石
観音崎と富津岬とが相抱いた東京湾口は、魚の楽園らしい。どんな魚でもゐる。それは餌が豊富であるのと、潮の流れが生きてゐるためであると思ふ。 浦賀港から二三里三浦半島の突端の方へ寄つた下浦などは、黒鯛の避寒地だとされてゐる。夏の間、江戸前や横浜附近の海で遊んでゐた黒鯛は、晩秋から初冬になるとぞろ/\揃つて下浦へ避寒にでかける。なか/\しやれてゐるぢやないか。とい
長谷川時雨
東京に生れて 長谷川時雨 大東京の魅力に引かれ、すつかり心醉しながら、郷里の風光に思ひのおよぼすときになると、東京をみそくそにけなしつける人がある。どうもそんな時はしかたがないから、默つて、おこがましいが、土地ツ子の代表なやうに拜聽してゐる。 大震災のあとであつた、ある劇作家が言つた。 「東京つて、起伏をもつてゐる好いところだ。昔は、さぞ好い景色だつたらう。
小川未明
東京のお正月は、もう梅の花が咲いていて、お天気のいい日は、春がやってきたようにさえ見えるのであります。義雄さんは、隣のみね子さんと羽根をついていました。 みね子さんは、去年学校を出たのでした。きょうはお店の公休日です。叔母さんのお家へいってきたといって、きれいな着物を着ていました。義雄さんは、まだ来年にならなければ、学校を卒業しないのであります。 「いいかい
北大路魯山人
これから秋までつづく夏季の美肴中、とりわけ重きをなしているものに、あわびが挙げられる。料理の仕方は古来様々あるが、通常は生のままで食う水貝、蒸して食う塩蒸しが万人によろこばれ、江戸自慢のひとつとなっている。事実、このあわび、東京とは目と鼻の三崎、房州方面を本場として、余所では得難いまでに優れたものが産する。その点から言っても、夏の東京における美食は恵まれてい
木村荘八
東京の風俗 木村荘八 一、東京「パースペクチヴ」 亡友岸田劉生が昔、そのころ東京日日だつた今の毎日新聞へ、東京繁昌記の画文を寄せて、「新古細句銀座通」=しんこざいくれんがのすぢみち=と題する戯文をものしたことがある。(昭和二年)戯文といつても筋の通つたものだし、殊に絵は出色のものだつたが、仕事の範囲の相当手ひろかつた故人にしては珍らしく、印刷ものにこと寄せて
木村荘八
東京の風俗 序 木村荘八 「東京の風俗」といふ題名のもとに初めから一冊の本を書いたとすれば、又現在の本とは違つたものになつてゐたかと思はれますが、今全編の校正を終つて「東京の風俗」一本としてこの本を見ますと、題名に不釣合ひのものにはなつてゐなかつたことを感じます。 この本の中の特に「東京の風俗」と大見出しにした節から成る書きものは、元「東京遠近」と題して週刊
古川緑波
戦争に負けてから、もう十年になる。戦前と戦後を比較してみると、世相色々と変化の跡があるが、食いものについて考えてみても、随分変った。 ちょいと気がつかないようなことで、よく見ると変っているのが、色々ある。 先ず、戦後はじめて、東京に出来た店に、ギョーザ屋がある。 以下、話は、東京中心であるから、そのつもりで、きいていただきたい。 ギョーザ屋とは、餃子(正しく
牧野信一
久しい間辺卑な田舎で暮した上句なので、斯うして東京に来て見ると僕は、何を見ても、何処を訪れても、面白く、刺戟が爽かで、愉快で/\、毎日々々天気さへ好ければピヨン/\と出歩いて寧日なき楽天家だ、金貨だつて? そいつはまあ無い日の方が多いけれど、無ければ無いで公園を散歩する、スポーツを見物する、友達のところからオートバイを借りて来て矢鱈に街中を駆け廻つて、気分を