東光院
上司小剣
東光院の堂塔は、汽動車の窓から、山の半腹に見えてゐた。青い木立の中に黒く光る甍と、白く輝く壁とが、西日を受けて、今にも燃え出すかと思はれるほど、鮮やかな色をしてゐた。 長い/\石段が、堂の眞下へ瀑布を懸けたやうに白く、こんもりとした繁みの間から透いて見えた。 『東光院て、あれだすやろな。』 お光は、初めて乘つた汽動車といふものゝ惡い臭ひに顏を顰めて、縞絹のハ
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上司小剣
東光院の堂塔は、汽動車の窓から、山の半腹に見えてゐた。青い木立の中に黒く光る甍と、白く輝く壁とが、西日を受けて、今にも燃え出すかと思はれるほど、鮮やかな色をしてゐた。 長い/\石段が、堂の眞下へ瀑布を懸けたやうに白く、こんもりとした繁みの間から透いて見えた。 『東光院て、あれだすやろな。』 お光は、初めて乘つた汽動車といふものゝ惡い臭ひに顏を顰めて、縞絹のハ
片山広子
東北の家 片山廣子 東北に子の住む家を見にくれば白き仔猫が鈴振りゐたり 東京に生れて東京にそだち東京で縁づいたFが、はじめて仙台に住むことになつたのは昭和十六年の夏であつた。Fの夫が商工省から仙台の鉱山局に転じて行つたのである。そとに出ることをひどく面倒がる私も、私としては気がるによばれて仙台の家にいく度か泊りに行つた。十六年と十七年の二度の秋、それから十八
折口信夫
奥州から出羽へかけての旅、時もちやうど田植ゑに近くて、馬鍬や、を使ふ人々が、毎日午前中に乗つてゐた汽車の窓の眺めでした。かうして民謡試聴会場に這入ると必、何か農耕と関係の深い民謡や民俗舞踊を見せて貰ひました。昔、芭蕉は白河を越えるとすぐ、「風流のはじめや奥の田植唄」の句を作つてゐます。此は田植ゑに都風な唄を用ゐはじめた昔物語を聞いたからでせう。奥州の村人が都
今野大力
私のいる家の東方に窓があった 私は農家の二階に間借りして幾十日かを過す身であった 私は自分の起居に不自由の身をそこに運び、 ひたすら、健康の日を恋していたのである、 かがやく健康の美しさは私の希望であった 私は東方に追憶の瞬間を持つ 私の室の東方の窓はそこへの視野を展開している ハコネの連山は眺望の彼方にある 山脈の起伏は無言に昨日も今日も変りはないが ただ
島木健作
東旭川村にて 島木健作 私は旭川へ來て友人のMに逢ひ、彼の案内で東旭川村を訪ねた。九月も十日すぎのある日だつた。 Mはほとんど十五年來の友人である。彼とは今度は三年ぶりで逢つた。何年に一度か、どつちかが思ひがけない、といふ逢ひ方で逢ふ。しかし話し出すと昨日まで毎日顏を合してゐたとでもいふ風で、水のやうな淡さである。それだけ深く心に通じてゐるものがあり、愛情も
桑原隲蔵
東洋人の發明 桑原隲藏 この論文を讀む人は、拙稿「紙の歴史」「カーター氏著『支那に於ける印刷の起源』」及び拙著『蒲壽庚の事蹟』(本全集第五卷所收)に載せた、支那に於ける羅針盤の使用に關する記事を參照ありたい。 私は東洋人の發明と云ふ題で、一時間ばかりお話を致します。一體この協議會の趣意から申しまして、學問上のお話を致すよりも、教育上若くは教授上のお話を致す方
桑原隲蔵
東洋史上より觀たる明治時代の發展 桑原隲藏 一 歳月流るるが如く、明治天皇の後登遐後、早一年を經た。去る者は日に疎しといふが、千古の大英主たる明治天皇の御鴻徳のみは、深く我が國民の腦裡に印して、決して忘るることが出來ぬのみか、却つて時を經る儘に、愈景仰の念を増すばかりである。私は茲に明治天皇の御一週年祭に際し、東洋史上より觀たる明治時代の發展を述べて、聊かそ
高楠順次郎
東洋文化史における仏教の地位 高楠順次郎 一 今日ここに講演の機会を与えていただいたことは感謝するところでありますが、果してご満足を得るかどうかを甚だ疑うのであります。書き出しておきました題目はこういう大きな題目でありますが、それの一小部分をお話するようなことに終ってしまうであろうと思うのであります。話の順序といたしましてインドのことが相当に多くを占めること
津田左右吉
東洋文化とか東洋思想とかいう語が西洋文化または西洋思想と対立する意味において一部の人士に用いられるのは、かなり久しい前からのことであって、日本人の文化、日本人の思想がやはりその東洋のであり、従ってそれが西洋のに対立するものの如く説かれるのである。これには国際関係における西洋の国々の勢力に対抗する意味での東洋主義とか亜細亜主義とかいうものとも或る程度の関聯があ
夏目漱石
『東洋美術図譜』 夏目漱石 偉大なる過去を背景に持っている国民は勢いのある親分を控えた個人と同じ事で、何かに付けて心丈夫である。あるときはこの自覚のために驕慢の念を起して、当面の務を怠ったり未来の計を忘れて、落ち付いている割に意気地がなくなる恐れはあるが、成上りものの一生懸命に奮闘する時のように、齷齪とこせつく必要なく鷹揚自若と衆人環視の裡に立って世に処する
中江兆民
吾儕のこの新聞紙を発兌するや、まさに以て海内三千五百万の兄弟とともに共に向上の真理を講求して、以て国家に報効するあらんと欲せんとするなり。乃ち尋常紙上に記載する事件の首において次を逐ふて我儕の所見を叙述し、以てあまねく可否を江湖の君子に問んとし、ここにその目を掲するに左の数項の外に出でず。曰く自由の説、曰く君民共治の説、曰く地方分権の説、曰く外交平和の説、曰
桑原隲蔵
數多き支那古今の人物の中に就いても、吾が氣に入つた人物といふと、一寸選擇に迷惑する。吾が輩の如き、史實調査に從事するものは、人物の表裏功過ともに承知するだけ、それだけ氣に入つた人物は見當り兼ねる。瑕疵のない人物といへば、孔子とか諸葛孔明とかを擧げねばならぬ。支那嫌ひで有名で、堯舜禹湯文武周公の所謂聖人を始め、支那の人物といふ人物に對して、惡罵を浴せかける本居
桑原隲蔵
東西交通史上より觀たる日本の開發 桑原隲藏 私の講演は「東西交通史上より觀たる日本の開發」といふ題目である。他の講師方の講演題目は、日本の開國の當時、若くは開國以後に關することが多いが、私の講演は寧ろ開國以前に關するもので、我が日本が開國に至るまでに、いかなる風にして、世界に知られて行つたかといふことを、主として御話いたしたいと思ふ。 抑我が日本は建國以來既
幸田露伴
東西伊呂波短歌評釈 幸田露伴 東京と西京とは、飲食住居より言語風俗に至るまで、今猶頗る相異なるものあり。それも、やがては同じきに帰す可けれど、こゝしばらくは互に移らざらむ歟。そは兎まれ角まれ、小児の年の初に用ゐて遊ぶ骨牌子に記されたる伊呂波短歌などいふも、東京のと西京のとは、いたく異なりて、其の同じきものは四十八枚中わづかに二三枚に過ぎざるぞおもしろき。今試
正岡子規
東西南北序 正岡子規 鐵幹、歌を作らず。しかも、鐵幹が口を衝いて發するもの、皆歌を成す。其短歌若干首、之を敲けば、聲、釣鐘の如し。世人曰く、不吉の聲なりと。鐵幹自ら以て、大聲は俚耳に入らずと爲す。其長歌若干首、之を誦するに、壯士劍に舞へば、風、木葉を振ふが如し。世人曰く、不祥の曲なりと。鐵幹自ら以て、世人皆醉へり、吾獨り醒めたりと爲す。鐵幹自ら恃む所の、何ぞ
新渡戸稲造
あるいは東、あるいは西といえば如何にも両者の間に懸隔あるように聞ゆる。文章家はかくの如き文字を用いて相容れざる差を示す。かの有名な詩篇の内にも西と東の隔たる如く云々とある。この言に限らず総ての対照的文字は濫用され易い。近頃世間に用いらるる左傾右傾の如きもまた同じである。しかしこれらは何れも実在するものを指すのでなく、二者の関係を示すに過ぎない。東なくして西は
堀口九万一
東西ほくろ考 堀口九萬一 東洋と西洋とは、その風俗習慣に就て、いろいろ異つた点が多い中で、特に黒子に関する観方ほど異つてゐるものはなからうと思はれる。日本では女の顔の黒子などは美貌の瑕瑾として現に年頃の娘さんなどはそれを苦にしてわざわざ医師に頼んで抜いて貰ふものさへある位である。 然るに、処かはれば品かはるとは言ひながら、西洋では、黒子を美貌の道具立ての一つ
今野大力
彼のアジトには 東郷大将の肖像が壁にはられていた それからあの 「皇国の興廃此一戦に在り 各員一層奮励努力せよ」 という同じ東郷大将の筆蹟もあった 彼の家に二度三度 サーベルがやってきてこれを見て行ったし 近所のおしゃべり女房が窓の外から この平凡な風景を見て行ったし どうやら東郷大将は彼のために 煙幕作業をやっている 日露戦争の折には 人民の敵ツァーの艦隊
長谷川時雨
松井須磨子 長谷川時雨 一 大正八年一月五日の黄昏時に私は郊外の家から牛込の奥へと来た。その一日二日の私の心には暗い垂衣がかかっていた。丁度黄昏どきのわびしさの影のようにとぼとぼとした気持ちで体をはこんで来た、しきりに生の刺とか悲哀の感興とでもいう思いがみちていた。まだ燈火もつけずに、牛込では、陋居の主人をかこんでお仲間の少壮文人たちが三五人談話の最中で、私
金子薫園
松園女史の思い出 金子薫園 窓の外で春の形見の鶯が頻りに啼いている。 荻窪の家に住んでいた頃のこと、嫁いだ娘ののこした部屋を第二の書斎にしている私は、今、朝の窓の日ざしに向っている。ふと蓮月尼の「おり立ちて若葉あらへば加茂川の岸のやなぎに鶯のなく」の情景を頭の中で描きながら、三十年前に会った京の松園女史の面影を眼に浮べている。 それは大正二年四、五月の交であ
種田山頭火
“同塵居” 誓詞に代へて 我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴 従身語意之所生 一切我今皆懺悔 三帰礼 自から仏に帰依し奉る 当に願はくは衆生と共に 大道を体解して 無上意を発さん 自から法に帰依し奉る 当に願はくは衆生と共に 深く経蔵に入りて 智慧海の如くならん 自から僧に帰依し奉る 当に願はくは衆生と共に 大衆を統理して 一切無礙ならん 願以此
楠山正雄
松山鏡 楠山正雄 一 むかし越後国松の山家の片田舎に、おとうさんとおかあさんと娘と、おやこ三人住んでいるうちがありました。 ある時おとうさんは、よんどころない用事が出来て、京都へ上ることになりました。昔のことで、越後から都へ上るといえば、幾日も、幾日も旅を重ねて、いくつとなく山坂を越えて行かなければなりません。ですから立って行くおとうさんも、あとに残るおかあ
北村透谷
松島に於て芭蕉翁を読む 北村透谷 余が松島に入りたるは、四月十日の夜なりき。「奥の細道」に記する所を見れば松尾桃青翁が松島に入りたる、明治と元禄との差別こそあれ、同じく四月十日の午の刻近くなりしとなり。余が此の北奥の洞庭西湖に軽鞋を踏入れし時は、風すさび樹鳴り物凄き心地せられて、仲々に外面に出でゝ島の夜景を眺むべき様もなかりき。然れどもわれ既に扶桑衆美の勝地
槙村浩
何百年のその間 村の境に立ってゐる 一本松の松の影 今はだん/\枯れて来て 「かうまではかなく成ったか」と 空をあふいで一人言 「この私が生れたは 丁度今からかぞへたら 六百年の其の昔 あちらの村の庄屋さん こゝへ私を植えたので 何百年のその間 こゝにかうして居たのだが 始は小さい松の影 だん/\大きく成って来て 二つの村の人々が 一日たんぼで働いた つかれ