貝殻追放 012 向不見の強味
水上滝太郎
たださへ夏は氣短になり勝なのに全身麻醉をかけられて、外科手術をした後の不愉快な心持は、病院を出てから一週間にもなるのに、未だに執念深く殘つて居る。 甚だ汚ならしい話だが、疾患は痔瘻なので、病院へ通ふのに、乘物に腰掛けて搖られるのが苦痛で、何時も電車の釣革につかまつて立つて居るのであるから、芝の端から築地迄小一時間もかかる道中は、たとへ囘復期にありとはいへ、衰
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水上滝太郎
たださへ夏は氣短になり勝なのに全身麻醉をかけられて、外科手術をした後の不愉快な心持は、病院を出てから一週間にもなるのに、未だに執念深く殘つて居る。 甚だ汚ならしい話だが、疾患は痔瘻なので、病院へ通ふのに、乘物に腰掛けて搖られるのが苦痛で、何時も電車の釣革につかまつて立つて居るのであるから、芝の端から築地迄小一時間もかかる道中は、たとへ囘復期にありとはいへ、衰
水上滝太郎
或日曜の朝の事であつた。寢坊をした床の中でぼんやりして、起きようか寢てゐようか迷ひながら、枕頭の火鉢の上の鐵瓶の口から、さかんに立昇る湯氣を見てゐるところに、こまつちやくれの下宿の小婢が、來客のある事を告げに來た。その取次いだ名前が昔の學校友達のそれと同一だつたので、自分は一緒に惡戲つ子だつた中學時代の友達の、今川燒のやうにまあるく平べつたくて、しかもぶよぶ
水上滝太郎
大正七年一月 新聞記者を憎むの記 三田文學 一月 先生 大阪毎日新聞 二月 汽車の旅 三田文學 三月 ベルフアストの一日 三田文學 五月 「八千代集」を讀む 三田文學 六月 汽車の旅 三田文學 七月 愚者の鼻息 三田文學 八月 「その春の頃」の序
水上滝太郎
久保田万太郎君と自分とのおつきあひも既に十年になつた。久保田君が「朝顏」を書き、自分が「山の手の子」を書いた頃から知己になつたのだ。 あれは「三田文學」創刊の年の秋だつたと思ふ。その頃三田の山の上にかたまつて居た連中が、同人雜誌を出す計畫をした。誰一人作品を發表した事の無い處女性から、「三田文學」といふやうな立派な雜誌を舞臺にする事は思ひもよらなかつたので、
水上滝太郎
「お母さん、私は何處から生れて來たの。」 「それはね、遠くの遠くの方から鸛の鳥が銜へて來て、家の煙突の中に落して行つたのです。」 西洋の子供も、自分達が何處から生れて來たかを訝かしがつて、執拗く問ひただしては母親を困らせるさうである。まことにそれは、吾々が子供心に、飽迄も知らんと欲して、しかも遂に知る事の出來なかつた謎であつた。 物心のついた時には、既に自分
水上滝太郎
田山花袋氏は里見さんを評して「大正の鏡花」と呼んで居る。その他、雜誌や新聞にも「大正の鏡花」は散見した。云ひ出したのは田山氏か、別の人か、自分は知らない。無責任な雜誌や新聞の「大正の鏡花」呼ばはりには、ほめた意味の時もあり、輕く扱つた意味の時もあつたが、田山氏の場合は、明かにほめた意味では無かつた。恰も「文章世界」の投書家の小説を評して、「大正の花袋」だと云
宮沢賢治
今は兎たちは、みんなみじかい茶色の着物です。 野原の草はきらきら光り、あちこちの樺の木は白い花をつけました。 実に野原はいいにおいでいっぱいです。 子兎のホモイは、悦んでぴんぴん踊りながら申しました。 「ふん、いいにおいだなあ。うまいぞ、うまいぞ、鈴蘭なんかまるでパリパリだ」 風が来たので鈴蘭は、葉や花を互いにぶっつけて、しゃりんしゃりんと鳴りました。 ホモ
堀辰雄
僕は讀んでゐるうちに何かしら氣味惡くなつてくるやうな作品が好きだ。そんな作品はめつたにあるものではないが。―― 去年のいま頃である。 僕は「古東多万」第一號に載つた泉鏡花の「貝の穴に河童がゐる」と云ふ短篇を讀みながら、どうも氣味惡くなつて來てしかたがなかつた。 こんな筆にまかせて書いたやうな、奔放な、しかも古怪な感じのする作品は、あまりこれまで讀んだことがな
中谷宇吉郎
北海に愚魚あり その名をほっけという 肉は白きこと雪片を欺き 味はうすきこと太虚に似たり 一片の三石の昆布 一滴のうすくちの醤油 真白なる豆腐に わずかなる緑を加う くつくつと貝鍋は煮え 夜は更けて味いよいよ新たなり まだ子供たちが幼かった頃、うまくだまして、早く寝つかせた夜は、奥の六畳の長火鉢で、よく貝鍋をつついた。 住みついてみると、北海道の冬は、夏より
小泉八雲
昔、越後国新潟の町に長尾長生と云う人があった。 長尾は医者の子であった。それで父の業をつぐべき教育をうけた。小さい時に父の友人の娘お貞と云うのと婚約ができていた。長尾の修行の終り次第婚礼をあげる事に両家とも一致していた。しかしお貞の健康のすぐれない事が分って来た。それから、十五の年にお貞は、不治の肺病にかかった。死ぬことが分った時、彼女は、わかれを告げるため
長谷川時雨
マダム貞奴 長谷川時雨 一 人一代の伝を委しく残そうとすれば誰人を伝しても一部の小冊は得られよう。ましてその閲歴は波瀾万丈、我国新女優の先駆者であり、泰西の劇団にもその名を輝かして来た、マダム貞奴を、細かに書いたらばどれほど大部の人間生活の縮図が見られるであろう。あたしは暇にあかしてそうして見たかった。彼女の日常起居、生れてからの一切を聴いて、それを忠実な自
坂口安吾
私はむかし十七の娘と友達になって、一緒にお酒をのんだり(娘はお酒が強かった)方々ホテルを泊り歩いたりしたが、そしてそれを言いだすのは多くは娘の方からであったが、私たちは肉体の交渉はなかったので、娘はいつもそれを激しく拒んだ。 これは然し遊びと貞操との限界という観念からではなかったので、娘は男女のそんな行為について全然知識がなかったのであり、愛情の肉体的な表現
小川未明
レールが、町から村へ、村から平原へ、そして、山の間へと走っていました。 そこは、町をはなれてから、幾十マイルとなくきたところでした。ある日のこと、汽車が重い荷物や、たくさんな人間を乗せて過ぎていきましたときに、レールのある部分に傷がついたのであります。 レールは、痛みに堪えられませんでした。そして泣いていました。自分ほど、不運なものがあるだろうか。毎日、毎日
原勝郎
貢院の春 原勝郎 大正三年の春南海よりの歸へるさに支那内地を一瞥せばやと思ひ立ち、上海の淹留中には一夜泊りにて、杭州に遊び、噂にのみは年久しく耳馴れし西湖の風光をまのあたり眺め、更に上海よりして陸路金陵に赴き、長江を遡り、漢口を經て北京に入りたりしが、車上に將た船中に、日々眼に遮るもの一として驚神の因たらざるはなく、外國旅行には多少の經驗ある己にも、支那は再
幸田露伴
「アア詰らねえ、こう何もかもぐりはまになった日にゃあ、おれほどのものでもどうもならねえッ。いめえましい、酒でも喫ってやれか。オイ、おとま、一升ばかり取って来な。コウ、もう煮奴も悪くねえ時候だ、刷毛ついでに豆腐でもたんと買え、田圃の朝というつもりで堪忍をしておいてやらあ。ナンデエ、そんな面あすることはねえ、女ッ振が下がらあな。 「おふざけでないよ、寝ているかと
直木三十五
第一期 僕は、僕の母の胎内にゐるとき、お臍の穴から、僕の生れる家の中を、覗いてみて、 「こいつは、いけねえ」 と、思つた。頭の禿げかゝつた親爺と、それに相当した婆とが、薄暗くつて、小汚く、恐ろしく小さい家の中に、坐つてゐるのである。だが、神様から、こゝへ生れて出ろと、云はれたのだから、 「仕方がねえや」 と、覚悟をしたが、その時から、貧乏には慣れてゐる。 僕
新美南吉
六年生の加藤大作君が、人通りのない道を歩いてくると、キャラメルの箱が一つ落ちていた。 「あれ、キャラメ……」 大作君はかがんでそれをひろおうとした。しかし急にある考えがうかんで、ひろうのをやめた。人に空箱をひろわせてはずかしい思いをさせようという、だれかの意地わるないたずらかも知れない。どこかにかくれてみていて、それを大作君がひろうととたんに「わアい、いいも
田中貢太郎
貧乏神物語 貧乏神物語 田中貢太郎 縁起でもない話だが、馬琴の随筆の中にあったのを、数年前から見つけてあったので、ここでそれを云ってみる。考証好きの馬琴は、その短い随筆の中でも、唐山には窮鬼と書くの、蘇東坡に送窮の詩があるの、また、窮鬼を耗とも青とも云うの、玄宗の夢にあらわれた鍾馗の劈(さ)いて啖(くら)った鬼は、その耗であるのと例の考証をやってから、その筆
小川未明
今も尚お、その境地から脱しないでいる私にあっては、『貧乏時代』と、言って、回顧する程のゆとりを心の上にも、また、実際の上にも持たないのでありますが、これまでに経験したことの中で、思い出さるゝ二三の場合について、記して見ます。 何と言っても、はじめて、作家に志してから、苦しんだことは、独自の境地を行こうとする努力と、その作品を直に金に換えなければ、衣食すること
幸田露伴
もしそれ真の意味に於て言を為せば、貧と富とは幸福と不幸福とに対して相即くところは無い。貧でも幸福であり得、また不幸福であり得、富でも不幸福で有り得、また幸福で有り得るからで有る。しかし世上普通の立場に於て言を為せば、貧ということは不幸福を意味し、富ということは幸福を意味することになって、貧富は幸不幸に相即くものとなって居る。貧は不自由と少能力との体であり、富
牧野信一
大正八年の秋頃、今実業之日本社に居る、たしか浅原六朗君から、今度、今年学校を出た連中のうちで、同人雑誌を発行することに決つたから、君も加はらないか、と誘はれた。下村と君しか僕は知らないんだから変だな、と私はたしか言つたのである。まつたく私は早稲田時分その二人しか自分のクラスでは話した者はなかつたのだ。それも、私は何時も後の方の席に坐つて居て、彼等も多分その近
牧野信一
こゝは首都の郊外である。 タキノが、突然――(といふのはタキノ自身にとつて、そして一年程前に、これも突然主人を亡くして、こゝから二十里あまり離れてゐる海辺の寒村に彼のたつたひとりの小さな弟と二人で佗しく暮してゐたタキノの母親にとつての副詞に過ぎないことを断つて置かう。彼女は、その長男であるタキノの帰郷を予期してゐたのだ。タキノ自身も、こゝに移る二日前までは、
内田魯庵
貧書生 内田魯庵 「やい亀井、何しおる? 何ぢや、懸賞小説ぢや――ふッふッ、」と宛も馬鹿にしたやうに冷笑つたはズングリと肥つた二十四五の鬚々の書生で、垢染みて膩光りのする綿の喰出した褞袍に纏まつてゴロリと肱枕をしつゝ、板のやうな掛蒲団を袷の上に被つて禿筆を噛みつゝ原稿紙に対ふ日に焼けて銅色をしたる頬の痩れて顴骨の高く現れた神経質らしい仝じ年輩の男を冷やかに見
堺利彦
貧を記す 堺利彦 月曜付録に文を投ぜんの約あり。期に至りて文を得ず、しかれども約は果たさざるべからず。すなわちわが日記をくり返して材を求む。材なし。やむことをえずしてここにわが貧を記す。もとより日記の文をそのままに摘録せるなり。我と共に貧なる者は世に貧同人のあることを知れ。富貴なる者は単にわがごとき貧者のこの世に存在することを知れ。 新居 三月二六日、有楽町