銭形平次捕物控 037 人形の誘惑
野村胡堂
新吉は眼の前が眞つ暗になるやうな心持でした。二年越言ひ交したお駒が、お爲ごかしの切れ話を持出して、泣いて頼む新吉の未練さを嘲けるやうに、プイと材木置場を離れて、宵暗の中に消え込んで了つたのです。 ――父親が聽いてくれないから、末遂げて添ふ見込はない。出世前のお前さんに苦勞をさせるより、今のうちに切れた方が宜い――といふのは、十八や十九の若い娘の分別といふもの
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野村胡堂
新吉は眼の前が眞つ暗になるやうな心持でした。二年越言ひ交したお駒が、お爲ごかしの切れ話を持出して、泣いて頼む新吉の未練さを嘲けるやうに、プイと材木置場を離れて、宵暗の中に消え込んで了つたのです。 ――父親が聽いてくれないから、末遂げて添ふ見込はない。出世前のお前さんに苦勞をさせるより、今のうちに切れた方が宜い――といふのは、十八や十九の若い娘の分別といふもの
野村胡堂
新吉は眼の前が真っ闇になるような心持でした。二年越し言い交したお駒が、お為ごかしの切れ話を持出して、泣いて頼む新吉の未練さを嘲るように、プイと材木置場を離れて、宵暗の中に消え込んでしまったのです。 ――父親が聴いてくれないから、末遂げて添う見込みはない。出世前のお前さんに苦労をさせるより、今のうちに切れた方がいい――というのは、十八や十九の若い娘の分別という
野村胡堂
「親分、退屈だね」 「――」 「目の覺めるやうな威勢のいゝ仕事は無えものかなア。此節のやうに、掻つ拂ひや小泥棒ばかり追つ掛け廻して居た日にや腕が鈍つて仕樣がねえ」 ガラツ八の八五郎は、そんな事を言ひ乍ら、例の癖で自分の鼻ばかり氣にして居りました。 「大層な事を言ふぜ、八。先刻から見て居ると、指を順々に鼻の穴へ突つ込んで居るやうだが、拇指の番になつたら何うする
野村胡堂
「親分、退屈だね」 「…………」 「目の覚めるような威勢のいい仕事はねえものかなア。この節のように、掻っ払いや小泥棒ばかり追っ掛け廻していた日にゃア腕が鈍って仕様がねえ」 ガラッ八の八五郎は、そんな事を言いながら、例の癖で自分の鼻ばかり気にしておりました。 「大層な事を言うぜ。八、先刻から見ていると、指を順々に鼻の穴へ突っ込んでいるようだが、拇指の番になった
野村胡堂
江戸名物の御用聞銭形の平次が、後にも前にもこんなひどい目に逢ったことがないという話。 「親分、変な強盗が流行るそうですね」 「それだよ、八、笹野の旦那にも呼び付けられて、さんざん油を絞られたんだが、十手捕縄を預かってから、俺はこんな馬鹿な目に逢ったことはねえ」 「笹野の旦那まで、親分が泥棒だとおっしゃるんですか、畜生ッ」 「これこれ何を言うんだ、――笹野の旦
野村胡堂
「八、花は散り際つて言ふが、人出の少くなつた向島を、花吹雪を浴びて歩くのも惡くねえな」 錢形平次は如何にも好い心持さうでした。 「惡いとは言ひませんがね、親分」 「何だ、文句があるのかえ」 「斯う、金龍山の鐘が陰に籠つてボーンと鳴ると、五臟六腑へ沁み渡りますぜ」 「怪談噺てえ道具立てぢやないよ。見ろ、もう月が出るぢやないか」 「へツ、へツ、眞つ直ぐに申上げる
野村胡堂
「八、花は散り際って言うが、人出の少なくなった向島を、花吹雪を浴びて歩くのも悪くねえな」 銭形平次はいかにも好い心持そうでした。 「悪いとは言いませんがね、親分」 「何だ、文句があるのかえ」 「こう、金龍山の鐘が陰に籠ってボーンと鳴ると、五臓六腑へ沁み渡りますぜ」 「怪談噺てえ道具立じゃないよ。見や、もう月が出るじゃないか」 「へッ、へッ、真っ直ぐに申上げる
野村胡堂
「おや、八五郎親分、もう御存じで?」 「知らなくってさ。隠したって駄目だよ、真っ直ぐに申し上げた方がいいぜ」 ガラッ八の八五郎が、浜町河岸で逢ったのは、廻船問屋浪花屋の奉公人、二三本釘の足りない江戸っ子で、雑用にコキ使われている釜吉でした。 五月二十八日の川開きが昨夜済んだばかり、朝の浜町河岸は埃溜を引っくり返したようですが、その中に何かしら事件の匂いを嗅ぐ
野村胡堂
「親分、向うの角を左へ曲りましたぜ」 「よしッ、手前はここで見張れ、俺は向うへ廻って、逆に引返して来る」 平次とガラッ八は、近頃江戸中を荒し廻る怪盗、――世間で「千里の虎」というのを、小石川金杉水道町の路地に追い込んだのです。 「合点だッ、親分、八五郎が関を据えりゃ、弁慶が夫婦連れで来ても通すこっちゃねえ」 ガラッ八の八五郎は、懐から手拭を出すと、キリキリと
野村胡堂
「親分、向うの角を左へ曲りましたぜ」 「よしツ、手前は此處で見張れ、俺は向うへ廻つて、逆に引返して來る」 平次とガラツ八は、近頃江戸中を荒し廻る怪盜、――世間で『千里の虎』と言ふのを、小石川金杉水道町の路地に追ひ込んだのです。 「合點だツ、親分、八五郎が關を据ゑりや、辨慶が夫婦連れで來ても通すこつちやねえ」 ガラツ八の八五郎は、懷から手拭を出すと、キリキリと
野村胡堂
「親分、子さらひが流行るんだつてネ」 「聞いたよ、憎いぢやないか」 錢形平次は苦い顏をしました。 「赤ん坊なら何處へ連れて行かれても、それつきり判らなくなるかも知れないが、浚はれるのは大概七つ八つから十二三の子だから何んな場所に賣られたにしても、土地の役人なり御用聞なりに、名乘つて出られさうなものぢやありませんか。江戸だけでも何人あるか知れないが、一人も行方
野村胡堂
「親分、子さらいが流行るんだってネ」 「聞いたよ、憎いじゃないか」 銭形平次は苦い顔をしました。 「赤ん坊ならどこへ連れて行かれても、それっきり判らなくなるかも知れないが、さらわれるのは大概七つ八つから十二三の子だからどんな場所に売られたにしても、土地の役人なり御用聞なりに、名乗って出られそうなものじゃありませんか。江戸だけでも何人あるか知れないが、一人も行
野村胡堂
「親分、世の中はだんだん悪くなって来ますね」 ガラッ八の八五郎は妙なことを言い出しました。鼻毛を抜いて、手の甲に一本ずつ植えて、それを、畳の上でプーッと吹くといった、太くて粗い神経の持主の言葉ですから、この――世の中が悪くなった――と言ったところで、大した真剣味はありません。 「たいそう考えちゃったね。何が一体悪くなったんだ」 平次は日本一の機嫌でした。手掛
野村胡堂
「親分、――ちよいと、八五郎親分」 ガラツ八は脊筋を擽ぐられるやうな心持で振り返りました。菊日和の狸穴から、榎坂へ拔けようと言ふところを、後ろから斯う艶めかしく呼止められたのです。 「何處だ」 グルリと一と廻り、視線で描いた大きい弧がツイ鼻の先の花色暖簾の隙間を見落して居たのです。 「此處よ、ちよいと、親分」 「なんだ、――俺を鴨だと思つて居るのか」 ガラツ
野村胡堂
「親分、――ちょいと、八五郎親分」 ガラッ八は背筋を擽られるような心持で振り返りました。菊日和の狸穴から、榎坂へ抜けようというところを、後ろからこう艶めかしく呼止められたのです。 「どこだ」 グルリと一と廻り、視線で描いた大きい弧がツイ鼻の先の花色暖簾の隙間を見落していたのです。 「ここよ、ちょいと、親分」 「なんだ、――俺を鴨だと思っているのか」 ガラッ八
野村胡堂
「親分、お願いがあるんですが――」 お品はこう切り出します。石原の利助の一人娘、二十四五の年増盛りを、「娘御用聞」と言われるのはわけのあることでしょう。 「お品さんが私に頼み――ヘエ――それは珍しいネ、腕ずくや金ずくじゃ話に乗れないが、膝小僧の代りにはなるだろう。一体どんな事が持上がったんだ」 銭形平次は気軽にこんな事を言いました。お品の話を、出来るだけ滑ら
野村胡堂
「親分、お願ひがあるんですが――」 お品は斯う切り出します。石原の利助の一人娘、二十四五の年増盛りを、『娘御用聞』と言はれるのはわけのあることでせう。 「お品さんが私に頼み――へエ――それは珍らしいネ、腕づくや金づくぢや話に乘れないが、膝小僧の代りにはなるだらう。一體どんな事が持上がつたんだ」 錢形平次は氣輕にこんな事を言ひました。お品の話を、出來るだけ滑ら
野村胡堂
「あ、あ、あ、あ、あ」 ガラツ八の八五郎は咽喉佛のみえるやうな大欠伸をしました。 「何と言ふ色氣のない顏をするんだ。縁先で遊んで居た白犬が逃出したぢやないか、手前に喰ひ付かれると思つたんだらう」 のんびりした春の陽ざしの中に、錢形平次も年始疲れの、少し奈良漬臭くなつた足腰を伸ばして、寢そべつたまゝ煙草の烟の行方を眺めて居たのです。 「だがね、親分、正月も三ヶ
野村胡堂
「あ、あ、あ、あ、あ」 ガラッ八の八五郎は咽喉仏の見えるような大欠伸をしました。 「何という色気のない顔をするんだ。縁先で遊んでいた白犬が逃出したじゃないか、手前に喰い付かれると思ったんだろう」 のんびりした春の陽ざしの中に、銭形平次も年始疲れの、少し奈良漬臭くなった足腰を伸して、寝そべったまま煙草の烟の行方を眺めていたのです。 「だがね、親分、正月も三ヶ日
野村胡堂
「平次、頼みがあるが、訊いてくれるか」 南町奉行配下の吟味与力筆頭笹野新三郎は、自分の役宅に呼び付けた、銭形の平次にこう言うのでした。 「ヘエ、――旦那のおっしゃることなら、否を申す私ではございませんが」 平次は縁側に踞ったまま、岡っ引とも見えぬ、秀麗な顔を挙げました。笹野新三郎には、重々世話になっている平次、今さら頼むも頼まれるもない間柄だったのです。 「
野村胡堂
「平次、頼みがあるが、訊いてくれるか」 南町奉行配下の吟味與力笹野新三郎は、自分の役宅に呼び付けた、錢形の平次に斯う言ふのでした。 「へエ、――旦那の仰しやることなら、否を申す私では御座いませんが」 平次は縁側に踞まつたまゝ、岡つ引とも見えぬ、秀麗な顏を擧げました。笹野新三郎には、重々世話になつて居る平次、今更頼むも頼まれるも無い間柄だつたのです。 「南の御
野村胡堂
「親分、笑っちゃいけませんよ」 「嫌な野郎だな、俺の面を見てニヤニヤしながら、いきなり笑っちゃいけねえ――とはどういうわけだ」 銭形平次とガラッ八の八五郎は、しばらく御用の合間を、こう暢気な心持で、間抜けな掛合噺のような事を言っているのが、何よりの骨休めだったのです。 「親分にお願いしてくれ――って言うんだが、化物退治じゃねえ」 「化物退治は洒落ているね。場
野村胡堂
「親分、泥棒は物を盜るのが商賣でせう」 八五郎のガラツ八はまた變なことを言ひ出しました。 「商賣――はをかしいが、まア世間並の泥棒は人の物を盜るだらうな」 錢形平次は、女房に給仕をさせて、遲い朝飯をやり乍ら、斯んな事を言つて居ります。 櫻には少し早いが、妙に身内の擽ぐられるやうな、言ふに言はれぬ好い陽氣です。 「ところがその世間並でねえ泥棒があつたんで――」
野村胡堂
「親分、泥棒は物を盗るのが商売でしょう」 八五郎のガラッ八はまた変なことを言い出しました。 「商売――はおかしいが、まア世間並の泥棒は人の物を盗るだろうな」 銭形平次は、女房のお静に給仕をさせて、遅い朝飯をやりながら、こんな事を言っております。 桜には少し早いが、妙に身内の擽られるような、言うに言われぬ好い陽気です。 「ところがその世間並でねえ泥棒があったん