銭形平次捕物控 097 許婚の死
野村胡堂
「親分、小柳町の伊丹屋の若旦那が來ましたぜ。何か大變な事があるんですつて」 「恐ろしく早いぢやないか、待たしておけ」 「へエ――」 平次は八五郎を追ひやるやうに、ガブガブと嗽ひをしました。 美しい朝です。鼻の先がつかへる狹い路地の中へも、金粉を撒き散らしたやうな光が一パイに射して、初夏の爽やかさが、袖にも襟にも香りさう、耳を澄ますと明神の森のあたりで、小鳥が
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野村胡堂
「親分、小柳町の伊丹屋の若旦那が來ましたぜ。何か大變な事があるんですつて」 「恐ろしく早いぢやないか、待たしておけ」 「へエ――」 平次は八五郎を追ひやるやうに、ガブガブと嗽ひをしました。 美しい朝です。鼻の先がつかへる狹い路地の中へも、金粉を撒き散らしたやうな光が一パイに射して、初夏の爽やかさが、袖にも襟にも香りさう、耳を澄ますと明神の森のあたりで、小鳥が
野村胡堂
「親分、小柳町の伊丹屋の若旦那が来ましたぜ、何か大変な事があるんですって」 「恐ろしく早いじゃないか、待たしておけ」 「ヘエ――」 平次は八五郎を追いやるように、ガブガブと嗽をしました。 美しい朝です。鼻の先がつかえる狭い路地の中へも、金粉を撒き散らしたような光が一パイに射して、初夏の爽やかさが、袖にも襟にも香りそう。耳を澄ますと明神の森のあたりで、小鳥が朝
野村胡堂
「御免」 少し職業的に落着き払った声、銭形平次はそれを聞くと、脱いでいた肌を入れて、八五郎のガラッ八に目くばせしました。あいにく今日は取次に出てくれる、女房のお静がいなかったのです。 「へッ、あの声は臍から出る声だね」 ガラッ八は頸を竦めて、ペロリと舌を出しました。 「無駄を言わずに取次いでくれ」 「当てっこをしましょうや、――年恰好、身分身装」 「馬鹿だな
野村胡堂
「御免」 少し職業的に落着き拂つた聲、錢形平次はそれを聞くと、脱いでゐた肌を入れて、八五郎のガラツ八に目くばせしました。生憎今日は取次に出てくれる、女房のお靜がゐなかつたのです。 「へツ、あの聲は臍から出る聲だね」 ガラツ八は頸を縮めて、ペロリと舌を出しました。 「無駄を言はずに取次いでくれ」 「當てつこをしませうや、――年恰好、身分身裝」 「馬鹿だなア」
野村胡堂
話はガラツ八の八五郎から始まります。 「あら親分」 「――」 「八五郎親分」 素晴らしい次高音を浴びせられて、八五郎は悠揚として足を止めました。意氣な單衣を七三に端折つて、懷中の十手は少しばかり突つ張りますが、夕風に胸毛を吹かせた男前は、我ながら路地のドブ板を、橋がかりに見たてたい位のものです。 「俺かい」 振り返るとパツと咲いたやうな美女が一人、嫣然として
野村胡堂
話はガラッ八の八五郎から始まります。 「あら親分」 「…………」 「八五郎親分」 素晴らしい次高音を浴びせられて、八五郎は悠揚として足を止めました。粋な単衣を七三に端折って、懐中の十手は少しばかり突っ張りますが、夕風に胸毛を吹かせた男前は、我ながら路地のドブ板を、橋がかりに見たてたいくらいのものです。 「俺かい」 振り返るとパッと咲いたような美女が一人、嫣然
野村胡堂
ガラッ八の八五郎が、その晩聟入りをすることになりました。 祝言の相手は金沢町の酒屋で、この辺では裕福の聞えのある多賀屋勘兵衛。嫁はその一粒種で、浮気っぽいが、綺麗さでは評判の高いお福という十九の娘、――これが本当の祝言だと、ガラッ八は十手捕縄を返上して、大店の聟養子に納まるところですが、残念ながらそんなうまいわけには行きません。 実際のところは、その晩聟入り
野村胡堂
ガラツ八の八五郎が、その晩聟入をすることになりました。 祝言の相手は金澤町の酒屋で、この邊では有福の聞えのある多賀屋勘兵衞。嫁はその一粒種で、浮氣つぽいが、綺麗さでは評判の高いお福といふ十九の娘、――これが本當の祝言だと、ガラツ八は十手捕繩を返上して、大店の聟養子に納まるところですが、殘念乍らそんなうまいわけには行きません。 實際のところは、その晩聟入りの行
野村胡堂
ガラツ八の八五郎が、兩國の水茶屋朝野屋の樣子を、三日續けて見張つて居りました。 「近頃變なのがウロウロして、何を仕掛けられるか氣味が惡くて叶はないから御用のひまなとき、八五郎親分でも時々覗かして下さいな――」 朝野屋の名物娘お秀が、人に反對や遠慮をさせたことのない、壓倒的な調子でかう平次に頼んで行つてからのことでした。 そのころお秀は二十六の年増盛り、啖呵が
野村胡堂
ガラッ八の八五郎が、両国の水茶屋朝野屋の様子を、三日つづけて見張っておりました。 「近頃変なのがウロウロして、何を仕掛けられるか気味が悪くてかなわないから御用のひまなとき、八五郎親分でもときどき覗かして下さいな――」 朝野屋の名物娘お秀が、人に反対や遠慮をさせたことのない、圧倒的な調子でこう平次に頼んで行ってからのことでした。 そのころお秀は二十六の年増盛り
野村胡堂
「へッ、へッ、可笑しなことがありますよ、親分」 「何が可笑しいんだ。いきなり人の面を見て、馬鹿笑いなんかしやがって、顔へ墨でもついていると言うのかい」 銭形平次は、ツルリと顔を撫でました。三十を越したばかり、まだなかなか良い男振りです。 「気が短いなア、そんな人の悪い話じゃありませんよ、へッ、へッ」 ガラッ八の八五郎は、まだ思い出し笑いが止まりません。馬のよ
野村胡堂
「へツ、へツ、可笑しなことがありますよ、親分」 「何が可笑しいんだ。いきなり人の面を見て、馬鹿笑ひなんかしやがつて、顏へ墨でもついてゐると言ふのかい」 錢形平次は、ツルリと顏を撫でました。三十を越したばかり、まだなか/\良い男振りです。 「氣が短いなア、そんな人の惡い話ぢやありませんよ、へツ、へツ」 ガラツ八の八五郎は、まだ思ひ出し笑ひが止りません。馬のやう
野村胡堂
「親分の前だが、この頃のように暇じゃやりきれないね、ア、ア、ア、ア」 ガラッ八の八五郎は思わず大きな欠伸をしましたが、親分の平次が睨んでいるのを見ると、あわてて欠伸の尻尾に節をつけたものです。 「馬鹿野郎、欠伸に節をつけたって、三味線には乗らないよ」 「三味線には乗らないが、その代り法螺の貝に乗る」 「呆れた野郎だ、山伏の祈祷をめりやすと間違えてやがる」 平
野村胡堂
「親分の前だが、此頃のやうに暇ぢややりきれないね、ア、ア、ア、ア」 ガラツ八の八五郎は思はず大きな欠伸をしましたが、親分の平次が睨んでゐるのを見ると、あわてて欠伸の尻尾に節をつけたものです。 「馬鹿野郎、欠伸に節をつけたつて、三味線には乘らないよ」 「三味線には乘らないが、その代り法螺の貝に乘る」 「呆れた野郎だ、山伏の祈祷をめりやすと間違えてやがる」 平次
野村胡堂
「親分、面白くてたまらないという話を聞かせましょうか」 ガラッ八の八五郎は、膝っ小僧を気にしながら、真四角に坐りました。こんな調子で始めるときは、お小遣をせびるか、平次の智恵の小出しを引出そうとする下心があるに決っております。 「金儲けの話はいけないが、その外の事なら、大概我慢をして聴いてやるよ、惚気なんざいちばんいいね――誰がいったいお前の女房になりたいっ
野村胡堂
「親分、面白くてたまらないといふ話を聞かせませうか」 ガラツ八の八五郎は、膝つ小僧を氣にし乍ら、眞四角に坐りました。こんな調子で始める時は、お小遣をせびるか、平次の智慧の小出しを引出さうとする下心があるに決つて居ります。 「金儲けの話はいけないが、その外の事なら、大概我慢をして聽いてやるよ、惚氣なんざ一番宜いね――誰が一體お前の女房になりたいつて言ひ出したん
野村胡堂
「八、今のはなんだい」 「ヘエ――」 銭形の平次は、後ろから跟いて来る、八五郎のガラッ八をふり返りました。正月六日の昼少し前、永代橋の上はひっきりなしに、遅れた礼者と、お詣りと、俗用の人が通ります。 「人様が見て笑っているぜ、でっかい溜息なんかしやがって」 「ヘエ――相済みません」 八五郎はヒョイと頭を下げました。 「お辞儀しなくたっていいやな、――腹が減っ
野村胡堂
「八、今のは何んだい」 「へエ――」 錢形の平次は、後ろから跟いて來る、八五郎のガラツ八を振り返りました。正月六日の晝少し前、永代橋の上はひつきりなしに、遲れた禮者と、お詣りと、俗用の人が通ります。 「人樣が見て笑つてゐるぜ、でつかい溜息なんかしやがつて」 「へエ――相濟みません」 八五郎はヒヨイと頭を下げました。 「お辭儀しなくたつていゝやな、――腹が減つ
野村胡堂
「親分、面白い話があるんだが――」 八五郎のガラツ八が、長んがい顎を撫でながら入つて來たのは、正月の十二日。屠蘇機嫌から醒めて、商人も御用聞も、仕事に對する熱心を取り戻した頃でした。 「暫らく顏を見せなかつたぢやないか。どこを漁つて歩いてたんだ」 錢形の平次は縁側から應へました。湯のやうな南陽にひたりながら、どこかの飼ひ鶯らしい囀りを聽いてゐたのです。 凝つ
野村胡堂
「親分、面白い話があるんだが――」 八五郎のガラッ八が、長い顎を撫でながら入って来たのは、正月の十二日。屠蘇機嫌から醒めて、商人も御用聞も、仕事に対する熱心を取り戻した頃でした。 「しばらく顔を見せなかったじゃないか。どこを漁って歩いてたんだ」 銭形の平次は縁側から応えました。湯のような南陽にひたりながら、どこかの飼い鶯らしい囀りを聴いていたのです。 凝とし
野村胡堂
「親分、お願ひだ。ちよいとお御輿を上げて下さい」 八五郎のガラツ八は額際に平掌を泳がせ乍ら入つて來ました。 「何を拜んでゐるんだ。お御輿は明神樣のお祭りが來なきや上らねえよ」 錢形の平次は驚く色もありません。裏長屋の狹い庭越しに、梅から櫻へ移り行く春の風物を眺めて、唯斯うぼんやりと日を暮してゐる、この頃の平次だつたのです。 「三河町の殺しの現場へ行つて見まし
野村胡堂
「親分、お願いだ。ちょいとお御輿を上げて下さい」 八五郎のガラッ八は額際に平掌を泳がせながら入って来ました。 「何を拝んでいるんだ、お御輿は明神様のお祭りが来なきゃ上がらねえよ」 銭形の平次はおどろく色もありません。裏長屋の狭い庭越しに、梅から桜へ移り行く春の風物を眺めて、ただこうぼんやりと日を暮している、この頃の平次だったのです。 「三河町の殺しの現場へ行
野村胡堂
「ね、親分、こいつは珍しいでせう」 ガラツ八の八五郎は、旋風のやうに飛込んで來ると、いきなり自分の鼻を撫で上げるのでした。 「珍しいとも、そんなキクラゲのやうな鼻は、江戸中にもたんとはねエ」 錢形平次は、縁側に寢そべつたまゝ、火の消えた煙管を頬に當てて、眞珠色の早春の空を眺め乍ら、うつら/\として居たのです。 「あつしの鼻ぢやありませんよ。ね、親分、三つにな
野村胡堂
「ね、親分、こいつは珍しいでしょう」 ガラッ八の八五郎は、旋風のように飛込んで来ると、いきなり自分の鼻を撫で上げるのでした。 「珍しいとも、そんなキクラゲのような鼻は、江戸中にもたんとはねエ」 銭形平次は、縁側に寝そべったまま、その消えた煙管を頬に当てて、真珠色の早春の空を眺めながら、うつらうつらとしていたのです。 「あっしの鼻じゃありませんよ。ね、親分、三