銭形平次捕物控 185 歩く死骸
野村胡堂
「八、丁度宜いところだ。實は今お前を呼びにやらうかと思つてゐたところよ」 「へエ、何んか御馳走でもありますかえ」 錢形平次は、斯んな調子で八五郎を迎へました。この頃の暑さで、江戸の惡者共も大怠業をきめて居るらしく、珍らしく御用の方も閑だつたのです。 「呆れた野郎だ。御馳走ならお前を呼ぶものか、一人で喰ふよ」 「へエ、御親切なことで」 「今のは小言だよ、――昨
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野村胡堂
「八、丁度宜いところだ。實は今お前を呼びにやらうかと思つてゐたところよ」 「へエ、何んか御馳走でもありますかえ」 錢形平次は、斯んな調子で八五郎を迎へました。この頃の暑さで、江戸の惡者共も大怠業をきめて居るらしく、珍らしく御用の方も閑だつたのです。 「呆れた野郎だ。御馳走ならお前を呼ぶものか、一人で喰ふよ」 「へエ、御親切なことで」 「今のは小言だよ、――昨
野村胡堂
「困つたことがあるんだがな、八」 よく/\の事でせう、錢形平次は額に煙草を吸はせて、初秋のケチな庭を眺めるでもなく、ひどく屈托して居るのです。 「なんです、大概のことなら、あつしが引受けて埒を明けますよ、女出入りとか、借金の云ひ譯とか、いづれそんな事ぢやありませんか」 日に一度づつはやつて來るガラツ八の八五郎、今日は新聞種のない手持無沙汰を、庭口から長んがい
野村胡堂
「親分、お願ひ、一つ出かけて下さい。このまゝぢや、あつしの男が立たねえことになります」 相變らず調子外れな八五郎でした。飛び込んで來るといきなり、錢形平次の手でも取つて引立てさうにするのです。 「何を面喰つてゐるんだ。俺を拜んだところで、お前の男が立つわけぢやあるめえ、――まア落着いて話せ。金で濟むことか、腕を貸せといふのか、それとも」 平次は朝飯が濟んだば
野村胡堂
その頃錢形平次は、兇賊木枯の傳次を追つて、東海道を駿府へ、名古屋へ、京へと、揉みに揉んで馳せ上つて一と月近くも留守。 明神下の家に、戀女房のお靜をたつた一人留守番さしては、鼠に引かれさうで心配でならないので、向柳原の八五郎の叔母さんに泊りに來てもらひ、その代り八五郎は、叔母さんの家にたつた一人。幸ひ寒さに向つて蛆も湧かず、無精でだらしがなくて、呑氣で贅澤な、
野村胡堂
「變な噂がありますよ、親分」 子分の八五郎がまた何にか嗅ぎつけて來た樣子です。 「何んだ、また五本足の猫の子の見世物ぢやあるまいな」 錢形平次は相變らず白日の夢を追ふやうに、縁側に流れて行く、煙草の煙の末を眺めて居るのでした。 江戸の四月、神田の家並も若葉に綴られて、何處からともなく飼鶯の聲が聞えます。 「そんな間拔けな見世物ぢやありませんよ――今度のはお化
野村胡堂
「親分、小便組といふのを御存じですかえ」 八五郎は長んがい顎を撫でながら、錢形平次のところへノソリとやつて來ました。 いや、ノソリとやつて來て、火のない長火鉢の前に御輿を据ゑると、襟元から懷手を出して、例の長いのを撫で廻しながら、こんな途方もないことを言ふのです。 「俺は腹を立てるよ、八。まだ朝飯が濟んだばかりなんだ、いきなりそんな汚ねえ話なんかしやがつて」
野村胡堂
「親分、間拔けな武家が來ましたよ」 縁側から八五郎の長んがい顎が、路地の外を指さすのです。 梅二月も半ば過ぎ、よく晴れた暖かい日の晝近い時分でした。 「何んといふ口をきくんだ。路地の外へ筒拔けぢやないか、萬一その御武家の耳へ入つたら無事ぢや濟むめえ。無禮討にされても、文句の持つて行きどころはないぜ」 「だからあつしは武家が嫌ひさ。何んか氣に入らないことがある
野村胡堂
「お早う、親分」 「何んだ八か、今日あたりはお前の大變が舞ひ込みさうな陽氣だと思つたよ。斯う妙に生暖けえのは唯事ぢやねえ」 庭木戸の上から覗く八五郎の長い顎を見付けて、平次は坐つたまゝ聲を掛けました。 松が取れたばかりの或日。 「地震と間違へちやいけません。――本郷一丁目の朝井玄龍、親分も御存じでせう」 「流行醫者だな。ちよいと好い男の坊主頭で黄八丈に黒縮緬
野村胡堂
「八、丁度宜いところだ。今お前を呼びにやらうと思つて居たが――」 平次はお勝手口から八五郎の迎へに飛び出さうとして居る女房のお靜を呼び留めて、改めてドブ板を高々と踏み鳴らして來る、八五郎の長い影法師を迎へ入れたのでした。 「親分、お早やうございます」 「お早やうぢやないぜ、世間樣はもう晝飯の支度だ」 やがて江戸の街も花に埋もれやうといふ三月の中旬、廣重の鞠子
野村胡堂
順風耳の八五郎は、相變らず毎日一つくらゐづつは、江戸中から新聞種を掻き集めて來るのでした。 その中には隨分愚にもつかぬものがあり、十中八九は聞流しにしてしまひますが、中には無精者の錢形平次を驅り立てて、恐ろしい事件の渦中に飛び込ませることも少くはなかつたのです。 「聽いたでせうね、親分。あの話を」 格子を足で開けると、彌造を二つ拵へたまゝ火鉢の向うに坐つて、
野村胡堂
「親分、あつしはもう癪にさはつて――」 ガラツ八の八五郎は、拳骨で獅子ツ鼻の頭を撫で乍ら、明神下の平次の家へ飛び込んで來ました。 江戸の町が青葉で綴られて、薫風と五月の陽光が長屋の隅々まで行き渡るある朝のこと、 「八の野郎がまた朝つぱらから癪の種なんか持込んで來やがつたぜ。落着いて飯も食へやしねえ」 平次は大きな箸箱へ、ガチヤガチヤと自分の箸をしまひ込んで、
野村胡堂
「あツ、大變。嫁御が死んでゐる」 駕籠の戸を押しあけた仲人の伊賀屋源六は、まさに完全に尻餅をつきました。 「何?」 「そんな馬鹿なことが」 伊賀屋源六が大地を這ひ廻る後ろから、六つ七つの提灯は一ぺンに集まつて、駕籠の中を蔽ふところなく照らし出したのです。 中には當夜の花嫁、浪人秋山佐仲の娘お喜美が、晴着の胸を紅に染めて、角隱しをした首をがつくりと、前にのめつ
野村胡堂
「あッ、大変、嫁御が死んでいる」 駕籠の戸を押しあけた仲人の伊賀屋源六は、まさに完全に尻餅をつきました。 「何?」 「そんな馬鹿なことが」 伊賀屋源六が大地を這い廻る後ろから、六つ七つの提灯は一ペンに集まって、駕籠の中を蔽うところなく照らし出したのです。 中には当夜の花嫁、浪人秋山佐仲の娘お喜美が、晴着の胸を紅に染めて、角隠しをした首をがっくりと、前にのめっ
野村胡堂
兩國橋を中心に、大川の水の上にくり擴げられた夏の夜の大歡樂の中を、龜澤町の家主里見屋吉兵衞の凉み船は、上手へ、上手へと漕いで行きました。 船は大型の屋形で、乘つて居るのは主人吉兵衞、娘お清、養子の喜三郎、番頭周助、それにお長屋の衆が五六人野幇間の善吉に、藝者が二人、船頭が二人、總計十四人といふ多勢で、三味と太鼓の大狂躁曲に、四方の船を辟易させ乍ら、さながら通
野村胡堂
「親分、親分が一番憎いのは何んとか言ひましたネ」 ガラツ八の八五郎、入つて來るといきなりお先煙草の烟管を引寄せて、斯んな途徹もないことを言ふのです。 初秋の陽足は疊の目を這ひ上がつて、朝乍ら汗ばむやうな端居に、平次は番茶の香氣をいつくしみ乍ら、突拍子もない八五郎の挨拶を受けたのでした。 「俺が憎いと思ふのは――年中お先煙草を狙ふ奴と、鼻糞を掘つて八方へ飛ばす
野村胡堂
「親分、死んだ人間が手紙を書くものでせうか」 あわて者のガラツ八は、今日もまた變梃なネタを嗅ぎ出して來た樣子です。 町庇の影が漸く深くなつて、江戸の秋色も一段とこまやかな菊月のある日、 「何を言ふんだ。生きてゐる人間だつて、書けねえのがうんとあるぜ」 平次は月代を剃つて貰ひ乍ら、振り向いて見ようともしません。尤も剃刀を持つて居るのは、片襷を掛けた戀女房のお靜
野村胡堂
「親分、變な野郎が來ましたぜ」 ガラツ八の八五郎、横つ飛びに路地を突つきつて、庭口から洗濯物をかきわけながら、バアと縁側へ顏を出しました。神田明神下の錢形平次の住居、秋の朝陽が長々と這ひ上がつて、簡素な調度を照らして居ります。 「何處へ何が來たんだ。相變らず騷々しいなお前は」 平次はとぐろをほぐして、面白さうなこの注進を迎へました。 「二本差が二人、肥つたの
野村胡堂
「考へて見ると不思議なものぢやありませんか。ね、親分」 八五郎はいきなり妙なことを言ひ出すのでした。明神下の錢形平次の家の晝下がり、煎餅のお盆を空つぽにして、豆板を三四枚平らげて、出殼しの茶を二た土瓶あけて、さてと言つた調子で話を始めるのです。 「全く不思議だよ。晝飯が濟んだばかりの腹へ、よくもさう雜物が入つたものだと思ふと、俺は不思議でたまらねえ」 平次は
野村胡堂
「親分、良い天氣ですぜ。チラホラ梅は咲いてゐるし、お小遣はフンダンにあるし――」 「嘘をつきやがれ。梅の咲いたのは俺だつて知つてゐるが、八五郎の財布にお小遣がフンダンにあるわけはないぢやないか」 錢形平次と子分の八五郎は相變らずの調子で始めました。 「なアに、お小遣のフンダンにあるのは親分の財布で――」 「あれ、人の財布の中まで讀みやがつて、氣味の惡い野郎だ
野村胡堂
「親分、聽いたでせう?」 ガラツ八の八五郎は、鐵砲玉のやうに飛び込んで來ると、格子戸と鉢合せをして、二つ三つキリキリ舞ひをして、バアと狹い土間へ長んがい顎を突き出すのです。 「聽いたよ。今鳴つたのは、上野の辰刻(八時)だ。どんなに腹が減つてゐても、まだ晝飯は早え」 その癖平次は朝飯が濟んだばかり、秋の陽の退り行く、古疊の上に腹んばひになつて、煙草の煙を輪に吹
野村胡堂
「親分、お早やうございます。今日も暑くなりさうですね」 御馴染の八五郎、神妙に格子を開けて、見透しの六疊に所在なさの煙草にしてゐる錢形平次に聲を掛けました。 「大層丁寧な口をきくぢやないか。さう改まつて物を申されると、借金取りが來たやうで氣味がよくねえ。矢つ張り八五郎は格子を蹴飛ばして大變をけし込むか、庭木戸の上へ長んがい顎を載つけなくちや、恰好が付かないね
野村胡堂
「へツへツ、へツ、へツ、近頃は暇で/\困りやしませんか、親分」 「馬鹿だなア、人の面を見て、いきなりタガが外れたやうに笑ひ出しやがつて」 江戸の名物男――捕物の名人錢形平次と、その子分の八五郎は、どんな緊張した場面にも、こんな調子で話を運んで行くのでした。 「でも、錢形の親分ともあらう者が、日向にとぐろを卷いて、煙草の煙を輪に吹く藝當に浮身をやつすなんざ天下
野村胡堂
「ヘッヘッ、ヘッ、ヘッ、近頃は暇で暇で困りゃしませんか、親分」 「馬鹿だなア、人の面を見て、いきなりタガが外れたように笑い出しやがって」 「でも、銭形の親分ともあろう者が、日向にとぐろを巻いて、煙草の煙を輪に吹く芸当に浮身をやつすなんざ天下泰平じゃありませんか。まるで江戸中の悪者が種切れになったようなもので、ヘッ、ヘッ」 「粉煙草がひとつまみしか残っていない
野村胡堂
「親分、凄いのが來ましたぜ。へツ」 「何が來たんだ。大家か借金取か、それともモモンガアか」 庭木戸を彈き飛ばすやうに飛び込んで來たガラツ八の八五郎は、相變らず縁側にとぐろを卷いて、寛々と朝の日向を樂しんでゐる錢形平次の前に突つ立つたのです。 「そんなイヤな代物ぢやありませんよ。その邊中ピカピカするやうな良い新造」 「馬鹿だなア、涎でも拭きなよ、見つともない、