“歌笑”文化
坂口安吾
“歌笑”文化 坂口安吾 歌笑のような男、落語の伝統の型を破った人物は、私の短い半生でも、さきに金語楼、また同じころ、小三治(今、別の名であるが忘れた)などというのがいた。金語楼は兵隊落語、小三治は源平盛衰記など新しくよんだのである。私がはじめて彼らをきいたのは中学生のころで、彼らは私とほぼ同年配、いくらか年長の程度ではないかと思うが、今の歌笑にくらべると、こ
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坂口安吾
“歌笑”文化 坂口安吾 歌笑のような男、落語の伝統の型を破った人物は、私の短い半生でも、さきに金語楼、また同じころ、小三治(今、別の名であるが忘れた)などというのがいた。金語楼は兵隊落語、小三治は源平盛衰記など新しくよんだのである。私がはじめて彼らをきいたのは中学生のころで、彼らは私とほぼ同年配、いくらか年長の程度ではないかと思うが、今の歌笑にくらべると、こ
岸田国士
歌舞伎劇が、今日、我が国劇の主流を形造つてゐることは、如何なる点から見ても不合理であり、不自然である。しかし、その特異なスペクタクル的興味と、アカデミックな文学的平俗さと、世襲俳優の職業的素質とによつて、資本家の寛大な庇護を受け、民衆の伝統的嗜好に投じつつあることは、誰の罪でもないのである。 私は、決して、歌舞伎劇に代るものが、所謂「新劇」であるとは思はない
中谷宇吉郎
吾妻徳穗さんの歌舞伎舞踊(カブキダンス)が、先年アメリカへ來た時は、まず大成功といっていい成績であった。 シカゴでも、連日ほとんど滿員つづきで、しかも觀客は、大部分アメリカ人であった。日本からの藝能家の中には、在米日本人を當てにして來る人も、時々あるようである。しかしあの歌舞伎舞踊は、その點、堂々として、アメリカ人を相手に乘り込んだ形であった。 この調子なら
折口信夫
東京と上方とでは舞踊家の態度が異つてゐる。東京の踊りは歌舞妓の歴史に関りを持つてゐるが、上方の舞ひは能から出てゐると言はれてるだけに、上方のは、そんなに踊りは芝居と密接な関係に捉はれてゐないのだ。 東京だつて、歴史は歴史として、もつと役者の舞踊から自由になれないと言ふ謂はれはない。役者は専門を持つてゐる。舞踊家が極端に役者の踊りに随ふと言ふことは、舞踊家自ら
折口信夫
音羽屋六代の主 尾上菊五郎歿す。その日遥かに能登にあり。我また、 私のほとけを持ちて、盂蘭盆の哀愁、愈切なるものあり。 亡びなきものゝ さびしさ。永久にして 尚しはかなく、人は過ぎ行く 自ら撰る所の戒名 芸術院六代菊五郎居士と言ふと伝ふ。 もの思ふこと彼の如く深く、之を表すこと彼の如く切にして、なほ知識 短きこと斯くの如きに、人は、ほと/\哭かむとす。 酔ひ
信時潔
うたという言葉が示すように、詩と音楽は上古以来今日までさまざまに結合され、ことに我国の音楽では声楽が断然器楽に優先し、楽器を主体とする曲や、リズムを強調する舞踊音楽にまで、歌のついているのが多い。この傾向は洋楽が入ってからも依然続いており、我国の音楽の進路に重要な意味を持っている。今日ではちょっとした歌曲でも作詞と作曲は別人であり、通例詩が先にできていて、作
折口信夫
この度、高濱虚子さん・柳田國男先生と御一しょに、この一部の書物を作ることになりました。その高濱さんの御領分の俳句と同樣に、短歌といふものは、ほんとうに、日本國民自身が生み出したもので、とりわけ、きはめて古い時代に、出來上つてゐたものであります。さうして、それが偶然、私の先生でもあり、またあなた方のこの文庫におけるおなじみでもある、柳田國男先生がお書きの諺の成
宮本百合子
歌集『仰日』の著者に 宮本百合子 過日『仰日』ならびに『檜の影』会からお手紙を頂き重ねてあなたからのお手紙拝見いたしました。『仰日』を拝見して、短歌については素人ですが一つ二つ感想を申上ます。 わたくしは一人の読者として『仰日』におさめられている多くの生活の歌につよく心をひかれました。父をうたい祖母を語り、故郷の生活について描いて来た作者が、妻を得て、そこに
グリムヤーコプ・ルートヴィッヒ・カール
むかし、ある国で、イノシシがお百姓さんの畑をあらしたり、家畜を殺したり、人間をきばで八つざきにしたりするので、たいへんこまったことがありました。 王さまは、だれでもこのわざわいから国をすくってくれるものには、たくさんのほうびをつかわす、と約束しました。ところが、そのけものはものすごく大きくて、力が強いので、だれひとりそのけもののすんでいる森に近づこうとするも
邦枝完二
一 「うッふふ。――で、おめえ、どうしなすった。まさか、うしろを見せたんじゃなかろうの」 「ところが師匠、笑わねえでおくんなせえ。忠臣蔵の師直じゃねえが、あっしゃア急に命が惜しくなって、はばかりへ行くふりをしながら、褌もしずに逃げ出して来ちまったんで。……」 「何んだって。逃げて来たと。――」 「へえ、面目ねえが、あの体で責められたんじゃ命が保たねえような気
中野鈴子
思っただけでも胸がおどる 裸一貫のわたしらが堂々と乗りこんでゆき おお このわたしら わたしらのタコだらけの手 真黒に焼けたおでこ ただ一つの心臓 二本の足 二本の腕に あらゆる権力と最上の美しさを打ちたてる日 働いて笑える 働いて肥える おお その日、その世界よ 思っただけでも胸がおどる ●図書カード
萩原朔太郎
光り蟲しげく跳びかへる 夜の海の青き面をや眺むらむ あてなき瞳遠く放たれ 息らひたまふ君が側へに寄りそへるに 浪はやさしくさしきたり またひき去る浪 遠き渚に海月のひもはうちふるへ 月しらみわたる夜なれや 言葉なくふたりさしより 涙ぐましき露臺の椅子にうち向ふ このにほふ潮風にしばなく鴎 鱗光の青きに水流れ散りて やまずせかれぬ戀魚の身ともなりぬれば 今こそ
小川未明
東京の町の中では、かいこをかう家はめったにありませんので、正ちゃんには、かいこがめずらしかったのです。 「かわいいね。ぼくにもおくれよ。」といって、学校へお友だちが持ってきたのを三匹もらいました。 そして、だいじにして、紙に包んで、お家へ持ってかえると、みんなに見せました。 「あたし、こわいよ。」と、妹のみつ子がにげだしました。 「私も、はだか虫はきらいです
小川未明
正二くんは時計がほしかったので、これまでいくたびもお父さんや、お母さんに、買ってくださいと頼んだけれども、そのたびに、 「中学へ上がるときに買ってあげます。いまのうちはいりません。」というご返事でした。 戦争がはじまってから、時計は、もう外国からこなくなれば、国内でも造らなくなったという話を聞くと、正二くんは、 「売っているうちに、早く買ってもらいたいものだ
坂口安吾
正午の殺人 坂口安吾 郊外電車がF駅についたのが十一時三十五分。このF行きは始発から終発まで三十分間隔になっていて、次の到着は十二時五分。それだと〆切の時間が心配になる。 「あと、五十日か」 文作は電車を降りて溜息をもらした。流行作家神田兵太郎が文作の新聞に連載小説を書きはじめてから百回ぐらいになる。約束の百五十回を終るまでは、毎日同じ時間にFまで日参しなけ
新美南吉
村むらを興行して歩くサーカス団がありました。十人そこそこの軽業師と、年をとった黒くまと馬二とうだけの小さな団です。馬は舞台に出るほかに、つぎの土地へうつっていくとき、赤いラシャの毛布などをきて、荷車をひくやくめをもしていました。 ある村へつきました。座員たちは、みんなで手わけして、たばこ屋の板かべや、お湯屋のかべに、赤や黄色ですった、きれいなビラをはって歩き
田山花袋
『徒然草』の作者を正宗君はよく持ち出すが、何処かそこに似たところがある。共通したところがある。島崎君がよく芭蕉翁を持ち出すのと比べて見て、そこに非常に興味があると思ふ。 芭蕉と兼好とは、全く種類の違つた人間で、兼好が進歩して芭蕉になるといふわけではない。兼好は何処まで行つても、ああした観察と皮肉と絶望とを持つて生きて行つたに相違ないし、芭蕉はまた芭蕉でいかに
永井荷風
正宗谷崎両氏の批評に答う 永井荷風 去年の秋、谷崎君がわたくしの小説について長文の批評を雑誌『改造』に載せられた時、わたくしはこれに答える文をかきかけたのであるが、勢自作の苦心談をれいれいしく書立てるようになるので、何となく気恥かしい心持がして止してしまった。然るにこの度は正宗君が『中央公論』四月号に『永井荷風論』と題する長文を掲載せられた。 わたくしは二家
夏目漱石
正岡子規 夏目漱石 正岡の食意地の張った話か。ハヽヽヽ。そうだなあ。なんでも僕が松山に居た時分、子規は支那から帰って来て僕のところへ遣って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親族のうちへも行かず、此処に居るのだという。僕が承知もしないうちに、当人一人で極めて居る。御承知の通り僕は上野の裏座敷を借りて居たので、二階と下、合せて四間あった。
中野鈴子
今日は一月一日 今日は正月だ 明けましておめでとうって たとえのようにいうけれど わたしらはそんなどころではないわ 年がら年じゅう米つくるが商売なのに 一片の雑煮もない 毎年ただ一本きていた 他国からの年賀状も今年は来ない 来るものは町の掛取りや 残りの年ぐ米を取りに来る地主の番頭だ 台所はポチャンポチャンと雨がもる 炭は買えず もみがらをぶすぶす燃やす く
宮本百合子
正月とソヴェト勤労婦人 宮本百合子 ――ヤア、こんちは。 ――こんちは! どうした、久しぶりだね。 ――ウン。一時間ばかり暇かい? ――何用? ――今日は正月、ソヴェト同盟の勤労婦人たちがどんなに暮すか、知ってるだろうからききたいと思ってやって来たんだ。いつだったか支那のソヴェトの正月について面白い話をきいたこともあるから……。 ――成程。……だがソヴェト同
岡本綺堂
正月の思い出 岡本綺堂 ある雑誌から「正月の思い出」という質問を受けた。一年一度のお正月、若い時から色々の面白い思い出がないでもないが、最も記憶に残っているのは、お正月として甚だお目出たくない、暗い思い出であることを正直に答えなければならない。 明治二十八年の正月、その前年の七月から日清戦争が開かれている。すなわち軍国の新年である。海陸ともに連戦連捷、旧冬の
太宰治
正直に言うことに致しましょう。私は、これから書こうとする小説、または、過去に於いて書いた小説の意図、願望、その苦心を、あまり言いたくないのです。それは、私の虚傲からでは、ないと思うのです。書いてみて、それが相手に受け入れられなかったら、もうどう仕様もないことですし、これから書こうと思っている小説を、どんなにパッションもって語っても、いまのところ私は、そんなに
ドストエフスキーフィヨードル・ミハイロヴィチ
ある朝、わたしが役所へ行こうと思って、すっかり支度をしてしまったところへ、アグラフェーナが部屋へ入って来た。これはわたしの台所女でもあり、洗濯女でもあり、家政婦でもあったが、驚いたことには、わたしと話をはじめたものである。 今までのところ、アグラフェーナはひどく無口な田舎もので、今日の食事は何にしようかといったような、毎日きまりきったことをひと言ふた言いう以