井上貞治郎 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
『紙にしようか、メリケン粉にするか』。私はまだ迷っていた。明治四十二年、二十九歳のときである。朝鮮から満州、香港と流れ歩いた末、やっと見つけた東京での二畳の部屋。そこへ大の字にひっくり返って、天井の雨漏りのしみをながめながら考えたのはこれからのことだった。紙というのは後に私が名づけ親となった段ボール――いまではテレビなどの電機製品の紙ばこ材料になっている、あれである。あるいはメリケン粉を練ってパン屋でも始めるか……私には思案にあまることだった。そんなとき、ふと耳にしたのは練塀町の稲荷おろしのことである。考えあぐねた私は早速そこへ飛び込んだ。 巫女は白髪の老婆だった。御幣をあげさげしているうちに、体が踊り出す、目がつり上がる。巫女はうわずった声でいった。『ほかはいかん、いかん。紙じゃ、紙の仕事は立板に水じゃ……』。よし、これで決まった。私は五十銭払って、二畳のねぐらへ道を急いだ。それから五十年、私はカミのお告げにしたがって、紙にしわを寄せながら生きてきた。 人生の道程でいくたびか出会った分かれ道、そのどこかひとつが変わっていれば、私はいまとは全く違ったものになっていたであろう。初めの奉公

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