岡本かの子 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
かの女の耳のほとりに川が一筋流れてゐる。まだ嘘をついたことのない白歯のいろのさざ波を立てゝ、かの女の耳のほとりに一筋の川が流れてゐる。星が、白梅の花を浮かせた様に、或夜はそのさざ波に落ちるのである。月が悲しげに砕けて捲かれる。或る夜はまた、もの思はしげに青みがかつた白い小石が、薄月夜の川底にずつと姿をひそめてゐるのが覗かれる。 朝の川波は蕭条たるいろだ。一夜の眠から覚めたいろだ。冬は寒風が辛くあたる。をとめのやうにさざ波は泣く。よしきりが何処かで羽音をたてる。さざ波は耳を傾け、いくらか流れの足をゆるめたりする。猟師の筒音が聞える。この川の近くに、小鳥の居る森があるのだ。 昼は少しねむたげに、疲れて甘えた波の流れだ。水は鉛色に澄んで他愛もない川藻の流れ、手を入れゝばぬるさうだが、夕方から時雨れて来れば、しよげ返る波は、笹の葉に霰がまろぶあの淋しい音を立てる波ではあるが、たとへいつがいつでも此の川の流れの基調は、さらさらと僻まず、あせらず、凝滞せぬ素直なかの女の命の流れと共に絶えず、かの女の耳のほとりを流れてゐる。かの女の川への絶えざるあこがれ、思慕、追憶が、かの女の耳のほとりへ超現実の川

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