岡本かの子 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
雪 岡本かの子 遅い朝日が白み初めた。 木琴入りの時計が午前七時を打つ。ヴァルコンの扉が開く。 「フランスの貴族でアメリカ女の金持と政策結婚をした始めての人間はわしだつたのさ。」 さう云ひながらボニ侯爵は軽騎兵の服を型取つた古い部屋着のまま中庭の雪へ下りて行つた。雪は深かつた。もう止んでゐた。 「それからアメリカとフランスとの間にそれが流行となつて活動女優のグロリア・スワンソンまでがラ・ファレイズ侯爵と結婚するやうになつたのさ。」 侯爵はそこで体を屈めた。指で雪を掬ひ上げてぢつと見詰めた。それから手首を外側へしなはせると雪片は払ふまでもなく落ちた。 「実際フランスの貴族といふものは世界中で一番完成した人間だらう。その証拠にはあらゆる理解と才能を備へてゐてたつた一つ働くことが出来ないことだ。歴史を見ても判る。その階級として最高の完成に達した人間はみなこの通りだ。」 そこにロココ風の隠れ家式の小亭がある。侯爵は枯蔦をひいて廂の雪を落した。家のなかに寝てゐた薄闇が匂ひもののやうに大気へ潤染んで散る。腰嵌めの葡萄蔓の金唐草に朝の光がまぶしく射す。侯爵は座板に腰掛けずにそのまま入口の柱に凭れた。

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