岡本綺堂 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
C君は語る。 これは五六年前に箱根へ遊びに行ったときに、湯の宿の一室で同行のS君から聞かされた話で、しょせんは受売りであるから、そのつもりで聞いて下さい。 つい眼のさきに湧きあがる薄い山霧をながめながら、わたしはS君と午後の茶をすすっていた。石にむせんで流れ落ちて行く水の音もきょうは幾らかゆるやかで、心しずかに河鹿の声を聞くことの出来るのも嬉しかった。 「閑静だね。」と、わたしはいった。 「うむ。こうなると、閑静を通り越して少し幽寂を感じるくらいだよ。箱根の中でもここらは交通が不便で、自動車の横着けなどという、洒落れた芸当が出来ないから、成金先生などは滅多に寄付く気づかいがない。われわれの読書静養には持って来いというところだよ。実際、あの石高路をここの谷底まで降りてくるのは少々難儀だけれど、僕は好んでここへくる。来てみると、いつでも静かなおちついた気分にひたることが出来るからね。」 S君は毎年一度は欠かさずにここへ来るだけあって、しきりにこの箱根の谷底の湯を讃美していた。霧はだんだんに深くなって、前の山の濃い青葉もいつか薄黒い幕のかげに隠れてしまった。なんだか薄ら寒くなって来たので、わ

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