菊池寛 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
七月、もうすっかり夏であるべきはずだのに、この三日ばかり、日の目も見せず、時々降る雨に、肌寒いような涼しさである。 今も、小雨が降っている。だが空はうす白く、間もなく雨も降り止みそうな光が、ただよっている。 新子は、ぼんやり二階の居間から、外を眺めている。 路次の水たまり、黒い小猫がぴょんぴょんと水溜をさけて、隣の生垣の下をくぐった。茶色の雨マントを着た魚屋が、自転車に乗って来て、共同水道のわきで、雨にぬれながら、切身を作り始めた。 豆腐屋のラッパ、まだ午前なのである。 「あーあ!」新子は、かるい欠伸をした。 とたんに、階段の下から、甘えかかった、 (新子姉さまア!)という声が、弾み上り、ドタドタとかけ上って来る足音がして、勢いよく襖が開いた。 あまり成育しない前に、熟れてしまった果物のような、小柄な、身体全体が、ピチピチした――深々とした眼、小さい鼻、小さい唇の、生々とした新子の妹、美和子である。 「何よう!」新子は、無愛想に、広い聡明な額のうすい細い眉をひそめて、そちらを振りむいた。下顎骨が形よく精巧に発達していて、唇が大きかった。のどかそうな、それでいてひどく謎めいている大きな目

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