岸田国士 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
熊川忠範の名前は、今や、全村はおろか、県下に知れ渡らうとしてゐる、といつても言ひ過ぎではない。 一介の炭焼が、突如として名声を博し、やがて産を成す希望を与へられたと言へば、おそらく森の奥で金塊を拾つたか、谷川のほとりにラヂウム泉の湧き出るのを見つけたか、そのへんのところに相違ないと思ふひともあらうが、話はもう少し込み入つてゐて、しかも、人生の皮肉を興深く感じさせるものである。 太平洋戦争酣な頃、上州浅間山麓の焼石の原のまんなかへ、海軍関係の工場が建設され、いく百といふ召集漏れの男子が徴用工として集められた。 そのなかに、別にこれといふ特徴もない中年の小柄な男が混つてゐた。なにをさせても、こつこつと、根気よく働くかわりに、なんでもない仕事に、ひとの三倍時間をくふといふ変り者で、そのうへ、仲間のわるい企みには決して加はらず、かといつて、それを上役に密告するやうな真似はしたためしがない。酒は一滴も飲まぬが、煙草は好物で、配給のキザミや金鵄ぐらゐで事足りるわけはないから、ひとから聞いたイタドリやフキの葉を乾かして吸ひ、山をうろつきながら、さまざまな雑草の葉を自分でためしてみては、最後に、ゴハと

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