岸田国士 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
男甲に扮する俳優 女乙に扮する女優 舞台は神戸のあるホテルの休憩室 男と女とが茶卓を挟んで向ひ合つてゐる。 男 (煙草の煙を大きく吐き) たうとう日が暮れました。 あの船では、もう夕食の鐘を鳴らしてゐるでせう。 瀬戸内海の島々に灯が点く頃 日本を離れる人たちの胸は 一斉に締めつけられるのです。女 (遠くを見つめながら) でも、あの人は甲板の上で あんなに笑つてゐましたわ。男 僕は、あなたのお顔ばかり見てゐました。 あなたがお泣きになるところを 一度見て置きたかつたのです。女 お気の毒さま……。 潮風が眼にしみて、 いくらか涙ぐんでゐるやうに見えたかも知れません。 それに、あのまぶしい海の光…… ぢつと眼をあけてゐるのさへ苦しいほどでした。 泣くものですか。そんな……。男 テープが切れると あなたは袂からハンケチを出して 振るでもなく、振らぬでもなく それを肩のへんで弄んでおいででした。女 あの人だつて 帽子をぬいだまま ぢつとこつちを見てゐるだけなんですもの……。男 ほかの見送人をごらんなさい。
岸田国士
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