国枝史郎 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
猿ヶ京片耳伝説 国枝史郎 痛む耳 「耳が痛んでなりませぬ」 と女は云って、掌で左の耳を抑えた。 年増ではあるが美しいその武士の妻女は、地に据えられた駕籠の、たれのかかげられた隙から顔を覗かせて、そう云ったのであった。 もう一挺の駕籠が地に据えられてあり、それには、女の良人らしい立派な武士が乗っていたが、 「こまったものだの。出来たら辛棒おし。もう直だから」 と、優しく云った。 「とても辛棒なりませぬ。痛んで痛んで、いまにも耳が千切れそうでございます」 と女は、武士の妻としては仇めきすぎて見える、細眉の、くくり頤の顔をしかめ、身悶えした。 「このまま沼田まで駕籠で揺られて参りましては、死にまする、死んでしまうでございましょう」 「莫迦な、耳ぐらいで。……とはいえそう痛んではのう」 と武士は、当惑したように云った。 ここは、群馬の須川在、猿ヶ京であった。 三国、大源太、仙ノ倉、万太郎の山々に四方を取り巻かれ、西川と赤谷川との合流が眼の下を流れている盆地であった。 文政二年三月下旬の、午後の陽が滑らかに照っていて、山々谷々の木々を水銀のように輝かせ、岩にあたって飛沫をあげている谿水を、幽かな
国枝史郎
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