坂口安吾 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
私はそのころ耳を澄ますようにして生きていた。もっともそれは注意を集中しているという意味ではないので、あべこべに、考える気力というものがなくなったので、耳を澄ましていたのであった。 私は工場街のアパートに一人で住んでおり、そして、常に一人であったが、女が毎日通ってきた。そして私の身辺には、釜、鍋、茶碗、箸、皿、それに味噌の壺だのタワシだのと汚らしいものまで住みはじめた。 「僕は釜だの鍋だの皿だの茶碗だの、そういうものと一緒にいるのが嫌いなんだ」 と、私は品物がふえるたびに抗議したが、女はとりあわなかった。 「お茶碗もお箸も持たずに生きてる人ないわ」 「僕は生きてきたじゃないか。食堂という台所があるんだよ。茶碗も釜も捨ててきてくれ」 女はくすりと笑うばかりであった。 「おいしい御飯ができますから、待ってらっしゃい。食堂のたべものなんて、飽きるでしょう」 女はそう思いこんでいるのであった。私のような考えに三文の真実性も信じていなかった。 まったく私の所持品に、食生活に役立つ器具といえば、洗面の時のコップが一つあるだけだった。私は飲んだくれだが、杯も徳利も持たず、ビールの栓ぬきも持っていない。
坂口安吾
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