佐々木邦 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
夕刻のことだった。 「内藤さん、速達!」 と呼ぶ声が玄関からきこえた。郵便物と新聞は正三君がとりつぐ役だ。 「お父さん、速達ですよ」 「ふうむ。何ご用だろう?」 とお父さんはいずまいを直して、大きな状袋の封をていねいに鋏で切った。伯爵家からきたのである。 正三君のところはおじいさんの代まで花岡伯爵の家来だった。もっともそのころは伯爵でない。お大名だから、お殿様だった。いまでは伯爵のことをお殿様とよんでいる。正三君のおじいさんは大殿様から三百石いただいていた。いまなら年俸である。お金のかわりにお米を三百石もらう。一石三十円として九千円。いまの大臣以上の俸給だった。 「三百石といえば大したものだよ。陸軍大将になった本間さんなんか三人扶持の足軽だった。実業界ではばをきかしている綾部さんがせいぜい五十石さ。溝口の叔母さんのところが七十石。おまえのお母さんの里が百石」 と正三君は三百石のえらいことをお父さんからたびたびきかされていた。 「これ、お貞、お貞、お貞、お貞」 とお父さんはへんじのあるまでよびつづけるのが癖だ。 「はいはい、はいはい、はい」 とお母さんも返辞だけして、ナカナカ仕事の手をは

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