島崎藤村 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
めずらしいものが降った。旧冬十一月からことしの正月末へかけて、こんな冬季の乾燥が続きに続いたら、今に飲料水にも事欠くであろうと言われ、雨一滴来ない庭の土は灰の塊のごとく、草木もほとほと枯れ死ぬかと思われた後だけに、この雪はめずらしい。長く待ち受けたものが漸くのことで町を埋めに来て呉れたという気もする。この雪が来た晩の静かさ、戸の外はひっそりとして音一つしなかった。あれは降り積もるものに潜む静かさで、ただの静かさでもなかった。いきぐるしいほど乾き切ったこの町中へ生気をそそぎ入れるような静かさであった。 にわかに北の障子も明るい。雪が来て部屋々々の隅にある暗さを追い出したかのよう。こんなものが降ったというだけでも、何がなしにうれしいところを見ると、いくつになってもわたしなぞはまだ雪の子供だと見える。麻布飯倉に住んだ頃は界隈が岡の地勢であったから、あの辺の町中にはかなり勾配の急な傾斜があった。山国に生れたわたしは、雪が来ると自分の幼い日のことを思い出し、谷底にあったような旧い住居を出ては、よくあの植木坂へ氷滑りに走り出た。 降ったばかりの雪は冷たいようで、実は暖かい。それを踏めば歓びが湧く。
島崎藤村
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