高村光太郎 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
竹田流に言へば、ピカソは譎にして正ならざるもの、ドランは正にして譎ならざるものだ。譎とはたばかる事ではない。意匠に急なる事だ。正とは表現そのものに急なることだ。大雅の畫が表現の畫であり、春星の畫が意匠の畫である事は明らかである。芭蕉の稱する正風とは檀林の意匠文學から、表現そのものに歸る事を意味してゐる。芭蕉の正風を通過して其角は再び新鋭の意匠文學に傾いた。正と譎とは互に微妙な關係を保持しながら、いつの時代にも繰返される。春星は俳諧に於いて譎の才能をわづかに抑へつつ正の方向をとり、繪畫に於いて十方無礙な譎の本領を發揮した。春星の譎は東洋風の主情による。ピカソの譎は近代風の主知による。頭腦の命令無しにピカソは一筆をも動かさぬ。およそピカソの畫ほど隙の無い畫は古來珍らしい。ピカソは如何なる意味に於いてもどぢを踏まない。あり餘つた技倆によつて新らしい意匠の處女地をつぎつぎに拓いてゆく。意匠は元來そのシネ カ ノンとして新を要する。新なき意匠は零に等しい。ピカソが近作即時發表を避けるといふ傳説も、此の意味に於いてその處女性擁護と見れば尤もだ。新らしい意匠が畫的醇熟を得、次の新らしい意匠が更に準備
高村光太郎
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